ラヴォアジエの女ドラゴン

山田恭

第1話 太った研究者、罵倒されること

「日本三大ブスの産地のひとつが仙台らしい」

 と言ってみた。

「クソ野郎の話は耳障りで、よく聞こえません」

「日本三大クソ野郎の産地は青葉山なの?」

「うるせー、早く茶を淹れろ」

 と研究室の三人の女学生から三者三様の答えがそれぞれ返って来たが、内容としては共通していた。


 東北大学のキャンパスは市内複数箇所に散っており、青葉山キャンパスは市街地からやや離れた青葉山にある。青葉山キャンパスは情報・機械系の工学部、薬学部、理学部、およびそれらの研究科があり、東青葉山キャンパスが工学、北青葉山キャンパスが理学・薬学と分かれている。

 青葉山は標高二〇三Mに過ぎないとはいえ、山である。現在博士課程(博士課程後期)の二年生――つまり大学の年度でいえば九年あるうちの八年生に相当する雨野が入学した頃は、青葉山キャンパスに登るための公共交通手段は一種類のみだった。すなわちバスである。数年前にようやく地下鉄の東西線が完成し、東と北のキャンパスの中間に青葉山駅ができたことで選択肢がひとつ増えた。だが完成以前からの学生は、公共交通機関以外の原付やバイクなどの移動手段を確保しているのが当たり前だった。雨野の場合だと、二五〇CCのバイクで大学まで通っている。

「だから、そのバイクで帰るときの話だ」

 と研究室の女性陣に負けずに、雨野は説明を続ける努力をしようとした。


 昨夜の話である。

 十月。冬に触れかけつつある秋の夜、雨野はいつも通りバイクで帰宅しようとしていた。

 大学の人気のない緩やかな坂を降り、車用の遮断機の横をすり抜けて公道に出る。山を降る道はスラロームのように曲がりくねっているが、雨野はバイクで飛ばす趣味はないのでちょうど良い。左右に鬱蒼とした森を見つつ、ゆったりと山を下る。

 左手に一般教養の川内北キャンパス、右手に文学部の南キャンパスが見えれば、山を降りたということだ。ちょうど青葉山キャンパスから下る翡翠色の市営バスが川内北キャンパス前の停留所に停車していて、乗客を載せているところだった。追い抜いて行くのも危険そうなので、発進するのを待つ。

 時間的に、終バスだろう。なのにバスが出て行ってしまっても、停留所のベンチに座ったままの人物がいた。夜の暗がりで運転手が気づかなかったのか、それとも当人が乗車を断ったのか。あるいはあれは幽霊の類なのか。

 こんなことを言えば、人によっては「おまえは幽霊を信じているのか」などと強く、馬鹿にしたような口調で問い詰めてくるだろう。しかし信じようが信じまいが、人間は経験と解釈で世界を感じ取る生き物だ。眼球の水晶体は網膜に写す光の像を反転させているが、経験によって世界を正しく把握している。それならば経験と解釈で幽霊くらい見えよう。


「気分でも悪いんですか」

 近くまで寄ってバイクの上から声をかけたときは、すでにベンチに座る女性が幽霊だなどとは思ってはいなかった。白い肌には赤みがあったし、雨野の声に反応して顔を上げたからだ。まだ若い。教授や事務員の類ではなく、学生だろう。

 大きな瞳がさらに大きく見開かれる。夜中にバイクに乗った見ず知らずの巨漢の男に声をかけられたのだ、当然の反応かもしれない。黙して待つ。

 十秒後。

「あっ、あの……すみません、ちょっと、あの、気分が悪くて………」

 見た目通りにか細い声が返ってきたが、その理由がその「気分が悪い」ためなのか、もともとの声質なのかが判断しかねる。

「帰れますか? ひとりで、立って、歩いて」

 帰れないと言われても困るのだが、そう訊いてしまった。

「あっ、いえ、すみません……気分が悪いのは、その、精神的なもので……大丈夫です」

 精神的なもの。バスを乗り逃すほどとは、よほどのことではないか。

「選択必修の講義を取り忘れてしまって………」

 聞き間違いかと思った。

 単位を取得したい講義は、学内イントラネットのページ上で履修登録を行う必要がある。登録をしなければ、出席しようが試験で好成績を出そうが、単位は取得できない。それを忘れたということか。しかし、ひとつやふたつ講義の取得を忘れたからといって、バスを逃すほどに気を病むことはなかろう。それともなんらかの奨学金か学費免除制度を取っていて、その条件に一定以上の成績を修めることが課せられているのか。

「いえ、そういうわけではないですけれど……」

 そういうわけではないのか。

「選択必修だったのに………」

「おれは必修の物理Bを落としましたけど、普通に上がりましたよ」

 それどころか、博士課程に上がってからも単位取得を忘れていたりもした。それでも落第せずになんとかなっている。そもそも大学生が単位を落とすなどというのは、日常茶飯事だろう。

「そ、そういうものですか……」

「いや、まぁ、たぶん。それに、今からでも頼み込めばなんとかなるかもしれないし」

「そうだと良いんですけど……その、わたしは」と女性は躊躇う様子を見せてから言った。「たぶん、普通の大学生の方とは違うので、一般的なことがよくわからなくて………」


 ぽつぽつと女性が語り始めたのは、おそらくは雨野を「もう二度と会わないであろう人物」と判断したためであろう。長話はする気はなかったが、もう帰るだけで急ぎの用件はなかったため、相槌を打ちながらてきとうに話を聞いた。

 彼女が中学卒業後、高校には進学しなかったこと。東京で五年ほど暮らしていたが、四年前に仙台の実家に戻ってきたこと。二年ほど勉強し、高等学校卒業程度認定試験を受けて東北大学を受験したこと。現在は学士の三年生であること。

 雨野は目の前の女性の年齢を計算した。二十五、六歳だろう。同い年くらいだ。小作りながら目鼻立ちがはっきりとした顔立ちで、可愛らしい容姿といって差し支えない。服装にはどこか古風な色があり、流行りの服装ではない。モモンガのようなズボンよりはよほど好みである。

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