とある妻のデイドリーム  KAC7

ゆうすけ

ある日、彼女は知り合いと飲みに行った

 その日の目覚めは最悪でした。


 年度末も近い3月の水曜日。朝から会議、昼からプレゼン、その合間に15時に資料提出の締切。もう半月ほど前からこんなペースがずっと続いています。


「シノちゃん、最近大変そうじゃない?」

「シノザキ、ムリなら俺が替わるぞ?」


 みんな口ではそう言ってくれますが、いざやってもらうと確認と修正で余計に時間がかかります。


「売上振分ってどうしたらいいの? 半分ずつ?」

――― そんなわけあるか。私じゃなくて営企に聞いてよ。営企の内線ぐらい自分で調べて!


「この撤去費ってどこに計上するの? 修繕?」

――― あー!! 違うって。特別損失だって。そんなの基本中の基本じゃないの!


「今度の会議プレゼンさ、資料どうするの? 何喋ればいい?」

――― 資料作って、喋ること考えるのをお願いしてんだけど。


 結局こうなるので手伝ってもらうことは諦めていました。だからいつもこう答えます。


「んー、多分大丈夫だよ。そんなに大したことないから」

――― キミたちと喋ってる時間がもったいないから話しかけないで。


 それが積み重なって、こんな世紀末スケジュールになっていたのでした。



 

 私は憂鬱な気分満載で手早く着替えて身づくろいをすると、足取り重くマンションを出ます。暖かったり寒かったり、最近の気候は気まぐれです。三寒四温とはよく言ったものです。


(もうそろそろコート薄いのでいいかな)

 私の独り言は春霞が混ざったような早春の春風にかき消されました。


(今度の週末に春物出そうっと。ちゃんと休めたら、だけど)

 私はこの1週間のスケジュールを思い返してまた憂鬱になりました。


 私は今の部署でもう5年目。ヒラ社員の中では一番の古株です。

 その日の会議は聞いてるだけでいいので、仕事できない系同期のミサキちゃんに交代してもらい、その間にプレゼン資料と原稿を直前までいじり倒します。パワポは凝り出すとキリがないので、ドシンプルに字だけで打って課長にブン投げました。


「シノザキさん、これじゃあちょっと素っ気ないよ。もう少し色使ったりアニメ―ション入れたりした方がよくない?」

――― かああー、無責任なこと言って。たかだか社内資料にエネルギー使ってどうすんのよ!


「課長、それは後で手を入れますので、内容確認してもらえますか?」

「あ、それはいいんじゃない?」

――― なによ、ちゃんと読んでるの? 見てくれにしか関心ないわけ?


「課長、内容了解ですね?  ありがとうございます。それじゃあ色とアニメーション加えておきます」


 一応課長了解となった資料を、先輩に「色とアニメーション付けてください」とお願いしているところへ、ミサキちゃんが会議から戻って来ました。


「シノちゃん、なんか4月9日締切で提出しろって」

「何を? どこに?」

「んー、なんか難しいこと言ってたから分かんなかった。経営管理室だったよー」

――― あー、全然分かんないわよ、それだけじゃ。後で確認しなきゃ。経管の作らせる資料に簡単なものはないんだから。しかもアイツらねちっこいからキラい!


「ミサキちゃん、ありがと。助かったわ。課長に資料渡しておいて」

「えー、ヒマだったから漫画落書きしちゃったー。どうしよー」

――― 知・る・か! 付き合ってられないわ、まじで。


 私はうんざりしながら自分のパソコンを打ち始めました。

―――15時締切の資料はもういいや、このまま提出しちゃえ!



 午後のプレゼン。

 先輩に修正してもらったパワポで私が説明しますが、イヤな予感がします。アニメーションは作成者の癖が出やすいのです。案の定、先輩の付けたアニメーションは私の喋りと全然合いませんでした。

 私は冷や汗をかきながらアニメーションを無視した説明をしました。プレゼンが終わった後、課長が私にこそっと耳打ちします。


「あのアニメーション、ない方が良かったね」

――― 付けろって言ったのアンタじゃない、このハゲ!


 席に戻ると課長からまたお呼びがかかりました。


「シノザキさん、今日の午前中の会議の資料ってある?」

「ミサキちゃんが持ってます」

「シノザキさんが持ってないとダメだよ。私にも一部頂戴ね」

――― だーかーらー、ミサキちゃんに言ってよね。あーもう、私がハゲそう。


 当のミサキちゃんはどこかにサボりに行って不在でした。


「あ、それと15時締切の資料、なんか対象月日が1日ずれてるって財務部からメールが入っているから転送しておくから。ちゃんと確認しといて」


 私は青くなりました。ミサキちゃんに拾ってもらったデータを私が打ち間違えたのか、ミサキちゃんが拾い間違えたのか。どっちにしてもこれはとんでもない修正になります。ミサキちゃんはいつまでたっても戻ってこないので、自分でデータを拾いなおしました。

――― があーっ、やっぱりミサキちゃんが拾い間違ってるじゃない! あの子はうるう年を知らないの?


 結局修正が終わったのは20時前。今日は一日厄日だったとしか言いようがありません。もう疲れた……。



 とぼとぼと帰り道を私は歩いていました。明日も今日と同じような一日でしょう。足取りは重くなるばかりでした。


 その時、携帯が震えました。ディスプレイを見ると古い知人の名前。


「なに?」

 自分でもびっくりするぐらい無愛想な声で電話に出てしまいました。


「もしもしシノザキ? なにこえー声出してんだ。今まずかった?」

「あ、ごめん、ちょっと考え事してて。それより、キミこそどうしたの?」

「今日、出張で出て来てるんだ。新幹線の時間まで付き合ってくれない?」


 当日いきなり時間が取れたのは私くらいだったのでしょう。私はこのまま帰るのも少し嫌だったのと、珍しく弱音を吐きたい気分だったので二つ返事でOKしました。


「いいわよ。どこ行けばいい?」


 彼とは同じ大学の同級生でした。知り合いと言ってもホントに知ってるだけ。友達かどうかすら怪しい、知り合い以上友達未満の関係です。それでも無下に断らなかったのは、彼とは就職してからも半年に1回ぐらい不思議と顔を合わせる機会があったからでした。たまたま参加した同級生の会合とか、共通の友人の結婚式とか、駅でばったり会ったりとか。去年の秋ごろ偶然駅で会った時、彼は「来月から転勤で地方に引っ越すんだ」と言っていました。



 その後、彼と落ち合ったエキナカのバーで私は愚痴を爆発させていました。


「いったいなんなのよ! みんな私が全部やりゃいいと思ってるでしょ!」

「シノザキ、荒れすぎだよ。落ち着けよ。それ評価されてるってことだから」

「そんな評価、嬉しくない! あー、どいつもこいつもホント腹立つ!」


 私はカクテルをぐびっとあおって息まきます。客観的には相当たちの悪い酔っ払いです。一通り怒りを吐きだすと今度は強烈なダウナーが襲ってきました。


「なんか、もう嫌になっちゃったなあ。キミに言っても仕方ないけどね」


 彼は随分戸惑っているようでした。ただ知り合い以上友達未満の彼は、利害関係が少ないので、私が愚痴を吐き出すにはちょうどいい相手でした。せっかくの出張アフターをこんな愚痴で潰しちゃって悪いなと少しだけ思います。


「ユキエとかアツコとかさ、仕事の後に彼氏とデートするってたまにメールくるんだけどさ、どこにそんなヒマと余裕があるのか、聞きたいわよ」

「あれ? シノザキも彼氏いるんじゃなかったの?」

「何年前の話よ。とっくに自然消滅したわよ。あーあ、私、このまま馬車馬みたいにこき使われて年取っていくのかー。イヤだなー。なんかもう会社辞めちゃおうかなー」

「辞めてどうすんのさ」

「そんなもん、辞めてから考える」


 はあっと私はため息をついてカクテルの残りを口に含みました。少し苦みのあるお酒が染みます。彼はそんな私を見つめて、ふと真剣な表情になって言いました。


「シノザキ、そんなに簡単に辞めたらもったいないよ。……続けていればいつか必ずいいことあるって」


 そして、私に真正面に向き直ると、いきなりこんなことを言い出したのでした。



「シノザキ、俺と結婚しろよ。そうすれば、いつだって俺がおまえの愚痴を聞いてやれる」




 翌朝の目覚めは最高でした。


 あの後、彼は最終の新幹線に乗って帰って行きました。私は、柄にもなくホームまで彼を送り、次に会う日の約束をしたのでした。

 しかし、彼の唐突なプロポーズになんて答えたのか、よく覚えていません。友達未満から二段階飛び越えてのプロポーズ。驚愕しない訳ありません。「この人、頭おかしいんじゃないの?」 とも思いました。


 でも、その時私は、なぜか「ああ、私、この人と一緒に暮らせばいいんだ」 と妙に納得していました。彼と一緒の暮らし。それはきっと甘くて、楽しくて、そして支えられてるという安心感のあるものになる。その時、すでに私はそう確信していたのです。


 今日も仕事のスケジュールはぎちぎちです。

 でも、そんなことは割とどうでもよくなるくらい、私は足取りも軽く会社に向かっていたのでした。


 「さ、今日も一日頑張るぞー!」




「ただいまー。あれ、寝てた? ごめん遅くなって」

「あ、あなた、お帰り。あら、イヤだ、もう6時過ぎてるじゃない。今日はあなたの不戦敗よ」

「あー悪かった悪かった。すぐ作るから、そのまま寝てな」

「ううん、今日は特別に私が作るわ」

「ええ? えらいサービスいいじゃん。昼寝していい夢でも見たの?」


 妻はソファから起き上がると、エプロンを付けてキッチンに歩み寄りながら夫に笑顔を見せた。今日のメニューは麦とろご飯に肉じゃがとあらかじめ決まっている。


「うふふふ、とーってもいい夢だったわ。最高の目覚めよ」


 夫はそれににっこり答える。


「そっか。そりゃ良かったな」

「あなたは山芋おろしておいてね。おろし金じゃだめよ。すり鉢でやってね」

「すり鉢? うちにそんなもんあったのか!」


 うふふ、と妻は微笑んだ。


(あなた、あの時、頭おかしいとか思っちゃってごめんね)


 妻の小さな呟きは夫には届いていない。



おわり

 








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