田中貴美

第1話 猫

 今ではこんなおばあちゃんになってしまったのですけど、昔は色街でもこの女ありといわれた花魁でした。その美しさは、昔の楊貴妃並みと人から言われいい気になっていたときもありましたが、今ではそんなこと言ってもせん無きことと思っております。

 

 色街ではいろんなことがありました。足抜けで遊郭を抜け出そうとして拷問にあい狂い死にした花魁のこと、道ならぬ仲になって相思相愛のあまり川に身を投げて死んだ男女のこと、狭い廓の中で生涯を閉じた女たちのこと…愛、憎悪、笑い、哀しみ…わたしはそんな感情が渦巻く中、唯一動物だけを心を許せる友達としていました。


 動物といっても決まった人間に寄りそう忠実な犬のようなものは好きではありませんでした。どちらかと言えば、くるくる感情を変わらせてこちらを当惑させる、そんな猫が好きでした。わたしは時間の空いたとき、まわりに猫がいなくなると心寂しくおきつかなくなるのでした。そんな猫の中でもわたしにそんなに慣れもせず、遠くで銀色の眼でじっと眺めていた少し変わったナナの話しをしてあげましょう。

 

 ナナはわたしがつけた名前です。台所に捨てられていた子猫のときに賄い婦のおさんどんが拾ってわたしの元に来た銀色眼の灰色の雌猫です。ナナは幼きころから不思議な猫でありました。わたしが抱いていると何故か天井を見て眼でにゃあーと鳴きます。そんなとき抱かれて夢心地になっているのではありません。むしろその逆です。尻尾をぴんと立てて興奮しているのでありました。そんな夜の次の朝は遊郭から男女を問わず死人が出るのでありました。わたしはそんな話しを他の花魁に聞かせると、みな、ああ怖いと言って身体をぶるりと振るわせて気味悪がるのですが、わたしにはナナが懐刀のようで心強いものがありました。

 

 あるときわたしはこんな夢を見ました。わたしは海原の中で漂っているのであります。水は羊水のようで暖かいのでありますが気持ち悪さがあります。何より気持ち悪いのはぬめぬめとした白い大蛇に巻きつかれているのでありました。ああ、白蛇はわたしの身体を強靭に巻きつきます。ああ、息ができない。苦しいわたしはここで死ぬのであろうかと夢の中で感じておりました。そんな中海原の中から灰色の塊がさっと飛び出してきたのであります。勇ましいナナでありました。ナナが白蛇に噛みつくと白蛇は鎌首を持ち上げてナナに攻撃をしかけてきます。ナナは地面に……いつの間にか海原は草原に変わっていました……降りると次の攻撃の姿勢をとります。白蛇が牙をむきます。ナナの攻撃……白蛇の攻撃……白蛇とナナとの戦いが幾度も繰り返されたでしょうか、唐突に雄鶏の鳴き声が聞えてきました。その声を聞いて白蛇は一瞬ひるんだようでありました。その隙を狙ってナナが白蛇の首ねっこを噛みました。ぎゃあという悲鳴がどこからか聞えてきたように感じます。大きかった白蛇は少しづつ大きさを変えていて小さくなり、普通の蛇と同じようになりました。そしてわたしが目覚めると、灰色のナナらしき猫が障子の隙間からそっと抜け出るのを目にしたように思えました。ナナはわたしの部屋にいるはずなのですが、そのときだけはあれがナナだったと今でも思っております。ナナが出ていった後、わたしの腹の上で男が喉を小刀で切って死んでおりました。憲兵の調べで後になってわかったのですが、その男はわたしと一緒に死ぬと付近に吹聴していたようです。その男は日頃から狂いがありましたので、発作的に自分の首を断ち切ったということでわたしへの疑いも晴れました。それを聞いて、文字もわからぬわたしですので、男の死体を見ながら、これでよい詩がかけると思ったのは奇妙でありますね。

 

 ナナは晩年になってからも不思議さは減ることはなくますます増すようでありました。

 ある夏の終りの暑い晩のことです。わたしはこんな夢を見ました。狂った男が包丁を振りまわしてわたしを襲いに来るのです。わたしは逃げて抵抗しました。そして男の持っていた包丁を逆手にとって、男を殺そうとしました。そのときです。いつものように猫のナナが勇ましく夢の中に現れました。いつものようにわたしを守ってくれるはずでした。しかしこの日限りはわたしの期待は外れました。ナナがなんとわたしの方に向って威嚇してくるのです。わたしを守っているのではなく、男を守っているように見えるのです。わたしはいつもと違う展開に慌てました。そして雑誌のようにいたいげな少女を守る正義の味方のように思えていたナナへの偶像ががらがら崩れていくのを感じました。

 わたしは怒りのあまりナナの腹に包丁を突きたてました。ナナは抵抗することなくわたしの手にかかりました。抗議はしませんでした。哀しい声でにゃあーと鳴きました。夢の中のこととはわかっていてもその声は今でも忘れることはありません。そして男の方はどうなったかと言うとナナとわたしのことは忘れたように、呆然とただずんで、白い灯りの方に向っていきました。

 

 翌朝わたしが目覚めるとナナが身体中に蝉の抜け殻が何十匹とたからせて死んでいるのを見つけました。抜け殻を見ていると夢で襲ってきた男が最後の瞬間蝉となって飛び立っていったのを覚えております。夢の男はなかなか羽化できなかった蝉の狂気が見せた幻想ではなかったのかとわたしは考えました。ナナはこの夏かえるはずのない蝉たちを憐れに思って、生命力を使って、羽化させたのだと思いました。死んだナナは尾が二つに分かれたままになっていました。そうですナナは私にも蝉にも優しすぎる最高の猫又だったのです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

田中貴美 @dorudoru66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ