夢色雨情

八島清聡

第1話 What a glorious feelin'.I'm happy again.



 壮大ともいえる病院である。創設者の成功と栄華を物語る豪華な施設である。

 街で一番大きなマクドナルド病院は、昼間だというのにしいんと静まり返っていた。

 

 豪華なエントランスに黒のベンツが滑り込んできた。ベンツから運転手が降り、後部座席のドアを恭しく開けた。上等のスーツに身を包んだユージン・マクドナルドが降りてくる。

「会長、お待ちしておりました」

 運転手から杖を受けとったユージンは、待ち構えていた秘書を一瞥した。

 それから、車の中へ鷹揚に振り返った。

「お前はロビーで待っていなさい」

 車の中には薄紫色の眼鏡をかけた上品な老婦人が座っていた。寂しそうな表情を浮かべた彼女を一人残し、ユージンは院内へ入っていった。


 ユージンと主治医は連れだって廊下を歩いた。ユージンは時々立ち止まり、苦しそうに息を吐いた。スタッフは彼らを遠巻きに見つめた。

 ユージンたちが通り過ぎた後で、看護師二人が声を顰めて話す。

「えっ、あれがマクドナルド製薬会社の? 確か今は会長だっけ」

「彼、ここに身内が入院してるらしいの。最近は三日とあけずに来るわね」

「身内が入院? 聞いたことないけど」

「最上階の特別室の患者よ」

「最上階……? だってあれは」

「……黙って」

 看護師はハッとして口を噤んだ。秘書が近づいてくるのを見て、逃げるようにその場を去った。




 ***


 ――1942年。アメリカ合衆国。

 西部の、砂埃が舞う寂れた田舎町に彼女はいた。

 通りを歩くのは女子供ばかりである。駅の方から、ピーと汽笛が聞こえる。

   

 駅の構内に白の帽子を被り、青のワンピースを着た女が走りこんできた。

 切符売り場の前で帽子を取ると、ふわりと豊かな金髪が流れ落ちる。汽車から降りてきた人々が、彼女の脇を足早に通り過ぎていった。

 女は辺りを見回しながらしばらく待ったが、やがて溜息をつきながら外へ出た。


 帰りすがらの空は灰色の分厚い雲で覆われ、雨が降り出しそうな天気である。

 小さな商店街の端に位置する洋裁店に、女は入っていった。

 店内は、カタカタとミシンを回す音が響いていた。栗色の髪をした若い女が振り向いた。

「エレン、お帰り。どうだった?」

 エレンは落胆を浮かべたまま、首をゆるく横に振った。

「違ったわ、メリッサ」

「そう。ま、あんたがここに戻ってきた時点で違うってわかったけどね。恋人が戦地から帰ってきたら、軍服の仮縫いどころじゃないわよ。そのまま二人でベッドにしけ込まなくちゃ」

 メリッサは茶化すように言い、エレンは頬を赤らめた。

「やめてよ。私とユージンはそんな関係じゃ」

「ふふ、ごめん。あんたは純だからさ、からかいたくなるの」

 エレンはワンピースのポケットから、読みすぎて皺くちゃになってしまった便箋を取り出した。メリッサも椅子から立ち上がり便箋を覗きこむ。

「彼から手紙が来て、どれくらいになるの」

「もう三週間よ。休暇が取れたから帰ってくるって。今日こそはって思ったのに」

「あっちはあっちで色々あるのよ。休暇が駄目になったとしてもあと少しの辛抱よ。戦争が終われば、必ずあんたのとこに戻ってくる」

「……そうね。そうよね」

「帰ってきたら結婚するんでしょ。彼、医者だし、背も高くてハンサムだし、あんたの人生はバラ色ね。曇りようがないわ」

 メリッサは羨ましそうに言い、エレンは含羞みながらもこくりと頷く。

 そこに小太りの店主が入ってきた。

「あんたたち、なに油を売ってんだい。軍のお偉いさんに急かされてんだ。今日中に仮縫いまで終わらせなきゃ承知しないよ。早めに終わらせてとっとと帰りな」

「はーい」

 エレンとメリッサは慌ててミシンの前に座った。カタカタと音を立てながら、ミシンが回り出す。


 エレンは仕事が終わると洋裁店を出、最低限の家具とミシンしかない自宅に戻った。

 粗末な木の机の上には、古びたラジオと写真立てが置いてある。

 エレンはラジオをつけた。隣町の収容所から、敵国の捕虜が脱走したというニュースだった。近隣の街に警戒を呼び掛けている。

 椅子に座り、頬杖をついたままじっとしていると、ニュースが終わり「雨に唄えば」が流れ出した。エレンはスイッチを捻って音量を上げた。

 ラジオから流れる歌謡曲、それは恋人を想う以外の彼女の数少ない楽しみだった。


 I'm singing in the rain.Just singing in the rain.

 What a glorious feelin'.I'm happy again.


 エレンは椅子から立ち上がり、踊るようにステップを踏みながら窓辺に寄った。窓を開けると外はパラパラと小雨が降っている。

「僕は雨の中で唄っている。ただ雨の中で唄っているだけさ。なんて素敵な気分なんだろう。また幸せになれたんだ……」

 小さな声でラジオに合わせて歌った。透き通るような美しい声だった。その声に魅せられた、と彼は言った。エレンはその言葉を信じた。



 翌日は本降りになった。洋裁店の仕事は残業になり、夜もだいぶ更けてから終わった。

 エレンはメリッサと連れだって真っ暗な通りを歩いた。

 メリッサが、傘の隙間から空を見上げてぼやく。

「随分遅くなってしまったわ。雨だし寒いし、最悪な夜ね」

「ええ」

 エレンはどこかうわの空で答えた。

 その時、背後からピーという鋭い音が聞こえてきた。一回、少ししてもう一回。

 エレンはびくりと肩を震わせ、その場に立ち止まった。道の反対方向、駅の方を勢いよく振り返った。

「今のは汽笛? 今日最後の列車?」

「汽車? こんな時間に? ありえないわ」

 メリッサはきっぱりと否定した。深夜に汽車が走るとしてもそれは軍の機密列車で、汽笛など鳴らすはずもない。

「メリッサ、先に帰って。私、駅に行く。ユージンが戻ってきたかもしれないし」

「まさか」

 エレンはくるりと踵を返すと、メリッサを置いて駆け出した。

「ちょっとエレン。待って! エレン!」

 メリッサは怒鳴ったが、エレンの姿は闇に呑まれて見えなくなってしまった。

   

 駅前の広場に出ると、簡素な駅舎越しにプスプスと煙をあげる黒の車体が見えた。

 エレンは、汽車を前にすると大きく息を吸い、じっと待った。

 やがて、駅の入口から軍服を着た長身の男が出てきた。見間違えるはずもなかった。

 ずっとずっと待ち焦がれていた恋人の姿に、エレンは叫んだ。

「ユージン!」

 傘を放り出して駆け寄ると、勢いよくユージンに飛びついた。

 ユージンはしっかりとエレンを抱きしめた。

「エレン、エレン。君なのか。信じられない」

「ああ、ユージン帰ってきてくれたのね」

 二人は見つめ合い、ひしと抱き合った。

「会いたかったよエレン。戦場でも君のことを考えない日はなかった」

「私もよ、ユージン。まるで夢のよう」

 ユージンの他に乗客が降りてくる気配はなく、雨は勢いを増してゆく。ずぶ濡れになりながらも、コートや髪からぽたぽたと水滴を垂らしながら、二人は何度もキスを交わした。手を取り合って雨の中をくるくると回った。

「エレン、聞いてくれ。戦争は終わった」

「本当に?」

 エレンはパッと顔を輝かせた。

「ああ、もう君の傍を離れることはない。ずっと一緒だ。だから僕のために歌っておくれ。あの歓喜の歌を。あの映画のように。こんな雨の日だからこそ」

 歌うように呼びかける恋人に、エレンの目に涙が溢れた。彼女は泣きながら笑った。

「ええ、ええ、唄うわ。貴方のために」

 手を繋いで踊りながら、ご所望の「雨に唄えば」を唄った。


「ああ、なんて素敵な気分なんだろう。また幸せになれたんだ……また! また!」



 ***






 ユージンは主治医の同伴を断り、最上階の特別室へ入った。

 広い部屋のベッドの上には、人工呼吸器をつけた若い女が横たわっていた。枕には豊かな金髪が散り、長い睫毛に縁どられた瞳はぴたりと閉じられていた。

 ユージンはベッドの脇の椅子に腰かけた。

 時が止まってしまった娘の、すべらかな頬に手を伸ばしたが触れる寸前で引っ込めた。


「エレン」

 呼びかけるが、反応はない。それでもユージンは語りかけた。

「エレン、僕が物言わぬ君と再会してからちょうど50年。あの日、駅前に飛び出した君は、そこで警察に追われた捕虜に出くわしてしまった。逃げようとして背後から頭を殴られて……それきりだ。君は今、どんな夢を見ているんだい?」

 ユージンはサイドテーブルに置かれた木製のラジオを見た。ラジオはすでに壊れていた。

 ラジオの隣には「雨に唄えば」の古びたレコードが置いてある。

 ユージンはレコードを手に取って眺め、「雨に唄えば」の歌詞を口遊んだ。

「雨の中で踊っているラララ……。また幸せになれたんだ。僕は雨の中で唄ったり、踊ったりしてるのさ」

 そして、深々と溜息をつき、自嘲気味に呟いた。

「……今も一人でね」


 その時だった。透明なマスクの下のエレンの唇が微かに動いた。ユージンの声が聞こえているかのように軽く上向きに反った。

「エレン?」

 エレンのまぶたが震え、ゆっくりと開かれる。ユージンは驚きに絶句しながらも、老人には似合わない敏捷さでエレンのマスクに手を伸ばした。

 はぎ取るようにして外すと、確かにエレンはユージンを見、昔と同じように微笑んでいた。

「……ユージン」

 エレンの声だった。出会ってから今まで、記憶と夢の中で焦がれ、愛してやまなかった透き通るような声だった。

 ユージンの頬を、温かな涙が一筋伝った。

 これは奇跡なのか。それとも現代医学の勝利なのか。いや、そんなことはどうでもいい。彼女はこうして目覚め、自分は至福の境地にいる。もう離れることはないのだ。





 数時間後――。

 夫が戻ってこないのを案じて、老婦人は最上階の部屋に向かった。

「あなた?」

 部屋に入りながら呼びかけると、ユージンはベッドの上にばたりと突っ伏していた。

 彼の手は、ベッドで昏々と眠る白髪の女の手に重なっていた。

 安らかで満ち足りた顔を見て、老婦人は悲しげに呟いた。


「ひどいわ。あなたたちは、いつだって私を置き去りにするんだから」


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