お前と出会ってから

戸松秋茄子

本編

 これは俺がたまに見る夢の話だ。そのつもりで聞いてくれ。


 それはいつも最悪な目覚めからはじまる。の夢を見るのだ。俺は叫びながら目を覚ます。体を起こすと、頭がずきずきと痛む。自分が誰なのか、ここがどこなのかもわからない。立ち上がると、世界が何重にも重なって見え、強烈な吐き気が襲う。ふたたび、ふらふらとベッドに腰を落とす。そこでようやく自分の名前を思い出し、ここが自分の寝室であることを思い出す。そんな目覚めからはじまる夢だ。


 俺は再び立ち上がると、ふらつきながらなんとか冷蔵庫までたどり着き、二日酔い対策に常備しているスポーツドリンクをグラスに注ぐ。すぐさま飲み干し、リビングのソファで症状が緩和するのを待つ。時計を見ると、正午を回っている。自由業とはいえ、度を逸している。スマホの電源を入れると、編集者からメールが入っている。無視して、再び電源を落とす。こんなことはもう慣れっこだ。そう、一時期の俺にとってはそうだった。これは本当の話。


 症状が収まってくると、俺は再び寝室に戻る。悪夢を見た後だ。もう一度寝直す気にはなれないが、汗だくの服を着替えたかったんだな。扉を開け、ベッドに目をやる。そこでようやくベッドの上で眠りこけるの存在に気づく。



 これには毎回驚かされるものさ。俺は眉間を揉みほぐしながら昨日のことを思い出す。夕方から酒を飲みはじめたのは覚えている。だが、それ以降のことはまったく覚えていない。どうせ、寝るまで酒を飲み続けていたのだろう。だが、お前のことはどうしても思い出せない。


 これまでも記憶が飛ぶことはあった。しかし、女を――そう、女だ――連れ込んだことは一度もないし、今後もあり得ないと断言できた。


 俺は再び、ベッドの様子を窺う。状況は変わらない。裸の女がベッドの上ですやすやと寝息を立てている。つややかな長い黒髪、すらりと伸びた手足、わずかに膨らんだ乳房、まだどこかあどけない顔つき――年は十七、八ってところか。OK。これは現実らしい、と夢の中の俺は判断する。クーラーが苦手な俺は、夏場になると、窓を全開にして寝る。きっとそこからでも入り込んだんだろう。コソ泥がそうするみたいにな。そう考える。もっと現実的な発想――自分が連れ込んだという発想はついぞ浮かばない。だってそうだろう。俺は決めたんだ。もう誰も愛さないってな。



 妻がひき逃げにあった。そう電話がかかってきたのは、出版社主催のパーティーの最中だった。俺はすぐさま会場を抜け出して病院に向かった。タクシーの中で、俺は、いつかの初詣で妻とともに買ったお守りを握り締めていた――家内安全。しかし、運命は無情だ。病院で告げられたのは、妻が買い物からの帰りだったこと、道路の上を五十メートルも引きずられたこと、ほとんど即死だったことだった。言っとくがこれは夢じゃない。本当に起こったことだ。


 それ以来、俺は酒浸りの生活を送っていた。締め切りをぶっちぎり、編集者の信頼を損ね続けていた。


 喪失感が俺を打ちのめしていた。毎夜のように悪夢を見た。こんな思いをするなら最初から誰かを愛するんじゃなかったと心底思った。もう、誰かを愛することはないだろう。そう思っていた。


 なのになぜだろう。夢の中で、俺はお前と一緒に暮らしはじめる。



 お前はあくまで寡黙だった。自分がどこから来たのかいっさいを語ろうとしない。ただ円らな瞳で懇願するだけだ。「ここにいさせてほしい」と。その瞳になぜだろう、俺は惹きつけられる。腹をすかせたお前のために飯を用意し、服と寝床を提供する。自分から名乗ろうとしないお前に名前を付ける。「クロ」というのがそれだった。


 もちろん、こっそりお前の身元を探りはする。しかし、ニュースを見たってお前がどこかからいなくなったってことはまったく騒がれてない。ああ、わかってる。世の中は非情だ。警察が動くのはせいぜいまだ幼い子供がいなくなったときくらいのものだ。お前くらいの年になれば、いなくなっても家出扱いされるのが落ち。けっきょく、俺はお前の正体を探ることを諦める。まあ、この辺は夢だな。現実には略取・誘拐罪でアウトだろう。


 しかし、お前の自由奔放さには毎回手を焼くよ。お前ときたらまるで猫そのもの。甘えてきたと思ったら、その次の瞬間にはぷいっと興味を失ったようにしやがる。意味のないいたずらで俺を困惑させたことも一度や二度じゃない。俺も叱りつけるんだが、その度に、あのでかい瞳が訴えかけてくるんだ。ごめんなさい、もうしませんってな。お前の瞳はいつだって何より雄弁だった。尤も、それが本当のことばかりとは限らないのが困りものだが。腹の中じゃ、舌を出して笑ってるんだろうなってときも少なからずあったもんさ。


 それでもお説教の後にはいつも少しだけ譲歩してくれるよな。それがお前の優しさなんだと俺は考える。


 お前との生活の中で、俺も少しずつ変わっていく。お前の説得に負けて酒を飲むのをやめ、ふたたび机に向かうようになる。編集者のメールに応答し、もう一度チャンスをくれるように乞う。時間はかかったが、新しい小説を書き上げ発表する。俺はふたたび作家として活動しはじめる。そんな俺をお前は心から祝福してくれる。刊行記念に二人で旅行にも行くんだ。北の港町で、二人して海の幸に舌鼓を打つのさ。


「こんな日々がずっと続けばいい」と俺は言う。すると、お前は照れたように言うんだ。「……馬鹿」ってな。実際、俺は大馬鹿だ。これはあくまで夢なんだから。やがて覚める束の間の幻に過ぎないんだから。


 この頃になってくると、いい加減目覚めが近づいてくる。俺は夢の中のお前に別れを告げる間もなく現実に引っ張り上げられるんだ。そう、



 長くなったが、おおよそそんな夢だ。聞けば、誰もがそんなご都合主義あり得ないって笑うだろう。夢ってのはそんなものだ。現実とは違うってな。


 だけど、何から何までが夢ってわけでもないんだぜ。



 今日も俺は夢から目覚める。出会いの夢から。すべてが変わった朝の夢から。現実とは少し違う夢から。目を開けると、そこにはすっかり大きくなったがいる。わかってる。飯の催促だろう。俺はお前の皿に飯を盛る。すぐさまがっつくお前。俺はお前の頭を撫でながら、の幸福をかみしめる。


「うまいか。クロ」


「にゃー」


 こうして俺の一日ははじまる。

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