【KAC6】はやぶさ ~神に愛された母子の3分間の記録~

筆屋 敬介

総移動距離、60億キロメートルの果てに。

 2010年6月13日18時。


 はやぶさは、この時から母と呼ばれるようになった。


 そう。3億キロメートルの彼方から持ち帰ったイトカワの塵という大切な宝。それを託した子――再突入リエントリカプセルを切り離す時が近づいてきているのだ。


 はやぶさは既に満身創痍。

 化学エンジンは全損。4基のイオンエンジンのうち3基は停止。残る1基もほぼ寿命が尽きかけていたものを無理やり生き長らえさせている。


 姿勢制御のためのリアクションホイール3軸のうち2軸は死んでおり、11セルあった充電池のうち4セルは使い物にならなくなっていた。


 遥か極寒の宇宙でそのまま死んで漂うことになってもおかしくなかったその身体は、ありとあらゆる技術と智恵と努力と奇蹟によって、ここまで生きつなぎ、戻ってきたのだ。既に本来の予定よりほぼ倍の3年を無理やり生きている。


 はやぶさは本来なら2007年に帰還し、カプセルを投下するとそのまま別天体への旅を続けるはずだった。

 しかし、既にエンジンも姿勢制御の機能もほとんど失われての帰還。

 コンピュータもエラーを吐き始め、このまま動いているのが奇蹟といえる状態。

 最重要であるカプセルを正確に届けるためには、もうこのルートしかない。


 ――地球にできるだけ近づき、カプセルを切り離す。


 それは、自身もカプセルと共に大気圏に突入し、燃え尽きることを意味していた。


 既にその軌道には載っている。

 ただし、カプセルを予定の軌道に向けて切り離すためには、姿勢を正し、身体の向きを調整しなくてはいけない。

 今まで用心に用心を重ねていたあちこちの機能を全力運転させる。もう使うことは、無い。



 ――願いは叶った。なんとか耐えてくれた身体。

 そして、ついにカプセルを切り離す準備ができた。


 目指してきた故郷、地球まで7万キロメートル――ついにここまで帰ってきたのだ。

 総移動距離、約60億キロメートル。7年間に及んだ旅も残り5時間で終わり。




 同日、19時51分。カプセル分離成功。

 はやぶさは無事、自身の最大の目的を達成し、名実ともに、母となった。




※※※


 母さんは、わたしと繋がっていた電源・信号コード――へその緒アンビリカルコードを小さな爆発とともに切断しました。

 そして、わたしをスプリングで回転させながら、そっと押し出しました。


 わたしは、1秒に10センチメートルの速度で、少しずつ少しずつ母さんから離れていきます。


「必ず、必ず届けてね」


 正確な道へと導いてもらったわたしは、大切な宝物を無事に父さんたちへ届けることに全てを賭けます。

 母さんはすべてをわたしに託し、全任務を終えました。そして、命が尽きる時を待つことになります。


 母さんは、わたしを離した勢いでふらつき始めています。

 

「あなたの邪魔にならないようにしなくちゃ」


 そう。大気圏に再突入するまでに、できる限り離れなければ。

 もしも、わたしの進路の邪魔になるようなことになれば、せっかく父さんたちが精密に計算してくれたルートから外れてしまう。


 もどかしい速さでゆっくりとゆっくりと離れていく、母さん。


 最期の時まで、2時間半。


 その時、母さんへ父さんたちからの信号が届きました。

「長い間、お疲れさま。ありがとう。君にもう一度だけ無理をしてもらいたいんだ」

「なんで%ょう」

「振り向いてほしい。ゆっくりでいい。こちらを向いてほしいんだ」

「了解で$」


 わたしのすぐ後ろで1時間以上をかけて、ようやく振り向いた母さん……その瞳には大きな故郷の星が映っていました。


「よく頑張ったね。君が目指して帰ってきた、故郷の姿を見せてあげたくてね」

「ありがと&ございま#」

「カプセルの離脱が順調だったからできたんだ。こちらこそ有り難う」


「ああ……こんなに大きく……綺麗%星……今、わたし#見ているこの地球の姿を、あな&に送りま%ね」


 母さんは、もうこれ以上動くことができません。

 アンテナを父さんたちの方に向ける力もありません。唯一繋がる低速通信用アンテナで地球の姿を送ろうとし始めました。1枚の写真を送るのに20分はかかります。最期の時間は近づいてきます。

 

 撮影。

 送信。

 20分、経ちました。

「失敗だ……まっ黒な画像だったよ」


 さらに20分後……。

「これも失敗だ……ふらついてしまっているからだな、うまく映っていないんだ」

「届きますように。この、わたしがみている、こきょ#のすがたを……」


 3枚め。

 失敗。


 4枚め。

 失敗。


 5枚め

 ……失敗。



 22時2分。

 地球の影に隠れて通信ができなくなる最後の瞬間まで、あと25分。最期の瞬間まで残り49分。


 6枚め送信開始。


「こ#どこそ、ちゃん&うつってい$はずですよ」


 22時28分30秒。

 ついに、水平線の向こう側に入った母さんとわたし。父さんたちとの最期の交信が終わりました。

「ざ%ねん……ちょ%とまに&わなかったかな……」



 大丈夫よ、母さん。たぶんちゃんと届いていると思うよ。






 わたしと母さんは、静かにその時を待っていました。

 間もなく大気圏再突入です。


 その様子はJAXAそして、NASAの世界各地の深宇宙ネットワーク(Deep Space Network)施設、観測用航空機DC-8、各国政府……そして、インターネットを通じて世界中の人々が見ています。


 宇宙という超環境で、予定の倍近くさらされた、わたしの中身は無事に動くでしょうか。父さんたちの予測どおりのスペックでよかったのでしょうか。

 そして、母さんは――




 22時51分12秒。

 対地高度200キロメートル。


 大気圏再突入開始。


 人類史上初、惑星間を航行してきた超軌道速度のままでのリエントリです。

 突入角度は浅く12.0度。その速度は、秒速12キロメートル――時速にして4万3千キロメートル。


 大事な大事な3分間が始まりました。母さんにとっての最後の3分間。


 母さんは約2キロメートル後方。ほぼ同時と言ってよいタイミングでの突入です。


 故郷を守る大気層が私たちをはばみ始めます。約60億キロメートルという旅路の最後の、薄い薄い薄い空気の層。

 私たちの周囲は、その空気との圧力により急激に温度が上昇していきます。

 それは、プラズマ化した空気により1~2万度に達しました。


 22時51分50秒。

 高度110キロメートル付近から真っ白な輝きを放ち始めます。


 わたしは、光の尾を放ち、一直線に計算してくれた通りの軌道でひたすら大気を切り裂いていきます。


 ほぼ一塊で突入した母さんとわたし。一緒に突入した母さんの姿が徐々に後方に流れていきます。わたしの邪魔をしないように。


 七色の輝きをまといながら、母さんの身体は次々と砕けていきます。

 アンテナが。

 太陽電池が。

 イオンエンジンが。

 空っぽの燃料タンクが。

 消耗しきったバッテリーが。


 故郷の星の大気に崩れ、燃え尽き、溶けていきます。


 明るい……いや、眩しい!


 2メートル弱の身体の母さんが砕けていく最期の輝きは、満月の倍以上の輝きを放ち、100キロメートル以上離れた地上の人々に影ができるほどの明るさで照らしました。


 父さんたちが想像していた以上の輝き。


「この子は、ここにいますよ」


 世界中に見えるよう、わたしの後ろから照らしてくれています。


 その光は数十秒に及び……徐々に小さくなり、星々の光に紛れ、すべて消えていきました。


 22時52分50秒。

 独りになったわたし。

 そろそろです。これが最後。

 爆発火薬でパラシュートを開き、ビーコンを鳴らす。

 これさえ上手く動けば、後は父さんたちが見つけてくれる。

 わたしの役目も終わり。

 

 ちゃんと動いて。ちゃんと鳴って――


 大気圏再突入から3分、わたしはパラシュート開傘のために爆発ボルトを点火しました。





※※※ 



 22時56分。

 地上5キロメートル。

 ビーコンの発信を確認。


 23時8分。

 先住民、アボリジニの聖地、ウーメラの大地に着地。


 その後、カプセルの中身が無事か確認された。


 人類が初めて、月以外の地球圏外の物を得る事ができた瞬間だった。




 このカプセルに対面した時、川口プロジェクトマネージャーは驚いたという。


 信じられないことに、はやぶさと繋がっていたへその緒アンビリカルコードが、残っていた。

 数万度の熱を受け、溶解しているはずのものが残っていた。

 はやぶさの形見が残っていたんだ、と。





 

 2020年、「はやぶさ」の遺志を継いだ「はやぶさ2」が、故郷に帰ってくる。

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