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ぼくは目を開けた。
テレビはついたままだった。灯りの消えた部屋で、テレビから漏れる光だけが奇妙にうねっていた。窓の外はもうすっかり暗い。自分がどれ程の時間を微睡んでいたのかについて考えてみたけれど、この部屋を見る限り、それが分かったところで意味はないだろうと気付いた。テレビからは緩く気の抜けた炭酸飲料のような音楽が流れていた。魔力を流すことで演奏できる最新の楽器が奏でていたのは一昔前のダンスナンバーだった。流行りのマジカル・スウィング。もし、彼女がここにいたら一緒に踊っただろうと考えたのは、まだぼくが寝ぼけているせいかもしれない。その時、背後でドアが開いた。ぼくが振り返ろうと首を向けると、先に太い声が釘を刺した。
「誰だ、てめえは」
ぼくはゆっくりと視線を向ける。そこにいたのは、ネズミの化身のような男だった。彼が着ている薄汚れたレインコートが、ネズミ色に見えたからだ。元は白色だったに違いないコートは、更に言えば、あらかたの部分に様々な大きさの穴が開いている。この穴についてはネズミよりもチーズの気泡を連想させた。男の顔を覆うほど伸びている白髪交じりの毛は、いくつもの束を作りながら少しだけ色の濃い顎髭と合流して、最後には一つの大河のように垂れている。両手で握りしめている安物の傘は、もう何本も枝が折れて使い物になっていない。彼の所持品は全て誰かの捨てたものだろう。
「おれの家で何してやがんだ」
男は手に持っていた傘を振りかざしながら言った。折れかけていた枝が振った勢いでとうとうちぎれ、ぼくの顔をかすめて窓の外へ飛んでいった。原形を留めていない傘の破片がぼくの眼前に向けられていた。ぼくは言う。
「すぐに出て行くよ」
そうは言ったものの、ここから出るには彼が立っているドアを通らなければいけなかった。ぼくは細心の注意を払いながら彼に近づいた。彼の肩がぴくりと動いた。突然、予想もつかない早さで、彼は一歩後ろに飛び退いた。白髪の織りなす大河がもそもそと揺れた。しかし、それだけだった。
「ありがとう」ぼくは告げた。「騒がせてすまなかった」
男のわきを通り過ぎると、細い手がぼくの前に差し出された。
「持って行け」男はそう言った。ぼくは男に微笑みかけると、傘とも言えない金属片を受け取った。男はぼくが受け取ったことに気付いていないのか、重ねて言った。
「濡れるぞ」
ぼくは男に背を向けて廊下を歩き、玄関を出るまで振り返らなかった。追ってくる声はなかったし、ぼくも待つつもりはなかった。自分の足が屋外の草を踏みしめたところで、一度だけ止まってみた。夜空には鮮やかな星が瞬いていた。雲一つない暖かな夜だった。ようやく振り返ると、さっきまでぼくがいたであろう部屋からは明滅する灯りが漏れていた。外観は庭付きの二階建て。雑草の生い茂る庭には看板が立てられていた。
《売家――お気軽にお問い合わせを ジョルジュ・オッフェンバック》
ぼくは笑いながら、傘を広げて肩に担いだ。そのせいで、最後まで持ちこたえていた枝も全て折れた。
コールド・ウォール 中目黒サニ太郎 @N_Sanitarou
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