禁断の果実
ハコ
禁断の果実
味わうことを禁じられた、死を
――『失楽園』
とある寺の境内に大勢の人々が集められている。
刀を差して袖を捲った警吏達が遠巻きに取り囲んでこそいるが荒々しい雰囲気は無い。そのうちの四、五人ずつが椅子にかけた裃姿の役人たちの前に引き出され、なにやら書かれた紙を渡されている。役人はそれをただ読み上げれば良いと伝え、字が読めない者は
「でいうす、ばてれん、ひいりよ、すひりつさんとを初め奉り……
さんたまるや、あんじょべあとの御罰を蒙り……
でうすのがらさ絶え果て、じゅうだつのごとく頼もしを失ひ……
いんへるのの苦患に責められ、浮かび有る事御座ましく候……
じゅらめんとかくの如しなり……」
引き立てられた人々は次々に同じ言葉を輪唱し続け、その言葉はいつまでも響き続ける。
時々、その言葉を口にする事を拒むものがいた。ある者は平伏して詫び、ある者は蒼い顔をして列から逃げ出そうとする。警吏達はそういう者達を慣れた手つきで捕らえるとたちまち縄をかけどこかに連れて行ってしまうのだった。そしてそれからまた何事も無かったかのように改めは続いていく。
「――あの奇天烈な呪文は
その光景を面白そうに眺めていた直綴に黄金の袈裟姿の僧侶が、同じように見物していた儒服姿の男にそう教える。
「ほう? 切支丹の神に対して切支丹の教えから外れる事を誓わせるのですか」
そう問い返した儒服の男――痩型で細面の、やや神経質そうに見える顔立ち――に対し、僧侶は重ねてこう答える。
「左様。言われてみれば尤もな話だが、切支丹の者どもは日本の神仏を軽んじておるから、いくら神仏に誓わせても隠れて信仰を続けるのだそうだ。ならば切支丹の神に棄教を誓わせ、それを破れば地獄に落ちると宣言させれば良いのだと。この方法を取り入れてからというもの、江戸の切支丹は隠れる術を失って一網打尽になったそうですぞ」
「なるほど……あの連中はこれからどうなるのです?」
儒服の男は逃げ出そうとして縄をかけられた者達を指し示しながら尋ねる。
「これからお上による厳しい詮議の後、切支丹から転ぶと誓えば帰されましょう。どうしても聞き入れない場合は処刑でしょうな」
僧侶はこう答え、続けて「もうあの紅毛伴天連どもの権勢も終いでしょう」と嘲笑するような様子で付け加えた。
ほくそ笑むような僧侶の顔からさりげなく眼をそむけつつ儒服の男は尋ねた。
「一体誰がこのような方法を考えたのですかな」
「長崎奉行配下のハビアンなる者が考え出した方法だそうですぞ」
「ハビアン……?」
「その珍奇な名は切支丹だった頃の法名だそうです。この男自身もかつて切支丹であったが棄教し、今では連中を取り締まる仕事に協力しているそうじゃ。いやはや変わり身の速さというのも世渡りには大事ですなあ、ウハハハ!」
「…………」
儒服の男は何か思案を巡らせている様子で返事もせずに大声で笑う僧侶を無視する。自分を軽んじた態度をとる男に対して僧侶は露骨に顔をしかめたが、次の瞬間仰天して目を見開いた。列から逃げ出した一人の若い男が彼らの居る方へ向かって駆けだし、その男を追いかける警吏達が三人ほど抜身の刀を握ったまま駆けだしてきていたのである。
「止まれ! 止まれ! 止まらねば斬るぞ!」
警吏は何度かそう怒鳴ったが逃げ出した男は止まらない。大粒の汗を垂らし腕を振りながらなにかを叫んで走り続けている。怒声が暫くの間あたりに響き渡り、そうして男は二人の目の前で宣告通り背中から斬り殺されたのだった。
鮮血が辺りに飛び散り、斬られた男と見ていた僧侶が甲高い悲鳴を上げる。騒ぎを聞いてすぐに駆け付けた役人達は「お怪我はないか。まことに失礼致した」と形式ばかりに詫びを述べると警吏達に死骸の後始末を命じ、またいそいそと彼らの仕事場に戻って行ってしまった。
「なんたる醜態じゃ!」
漸く立ち上がった僧侶は気を取り直すように悪態をついたが、連れの男はそれを相変わらず無視した。彼の目はたった今斬り殺された男の亡骸に向けられていた。斬り殺された若い男の死骸は血まみれで横たわり、その表情は目を見開いて――即死であった筈だが――苦悶の表情を浮かべている。そうしてその手には木彫りの切支丹十字をしっかりと握りしめていたのだった。
男は憐れんでいる風ではなく観察しているような目つきで眺めていたが、やがて扇子を取り出しながらこう口にした。
「
雨の降りだしそうな空はどこまでも灰色にくすんでいた。
――先日から降り続けていた長雨は相変わらずの様子で空は薄暗い。
とある屋敷の門前に、従者に傘を差させながら高下駄で悠々と歩く男が尋ねてきていた。すたすた歩いてきたその男がたったの一声も無く屋敷の門をくぐっていこうとしていくのを見て、門番をしていた侍は慌てて声をかける。
「待て。お主、尋ねる家を間違えておるのではないか? 此処はご公儀が借り受けた御屋敷だぞ」
儒服を纏った男は自分を呼び止めた門番をじろりと睨み付ける。
「いま此処に居るのは長崎奉行ではなく、奉行の紹介で上ってきた無冠の男であろう? 不干斎ハビアンとかいう……」
「お主、この屋敷に泊まっている男を知っているのか?」
極秘だと聞いていたこの客人の正体を知っている事を訝しんだ侍が食い下がろうとすると、儒服の男は鼻で笑うような態度でこう答えた。
「よく知っておる。以前会った事があるし、そやつが先日上様に拝謁した事も聞き及んでおるぞ。それより、お前の方こそ私の事を知らないのか? ……まあ下役の侍では無理もないか」
そう言いながら儒服の男はもう侍を無視するようにして門をくぐっていく。
侍は再度慌てて止めようとしたが、その肩を男の連れていた従者が掴み、そしてなにやら耳打ちする。その言葉を聞いた侍はもう目を丸くし、肝を潰さんばかりに驚いたのだった。
「ハア……あれが……いやあの御方が……上様の侍講……?!」
その様子をさも可笑しそうに見ていた儒服の男は満足したように笑みを浮かべ、それからこう告げる。
「分かったかね? じゃあ私は上様の御客人に面会してくるぞ。二人で話すからお前達はそこで待っていてくれ」
主人の言葉を聞いた従者は深く一礼し、唖然とした様子の侍と共に屋敷の中に消えていく後ろ姿を見送るのだった。
◆
灯りもろくについていない、どこか埃っぽい屋敷の廊下を儒服の男はゆっくりと進んでいく。行燈の灯りらしき光だけが奥間から洩れているのが分かった。
もう一度会いたかった男はあそこに居る。栄華を掴んだ今こそ決別できる。
かつて己の心に不快なしこりを残した、あの男――。
襖に手をかけ、静かに開ける。予想していた通り、そこには一人の男が自分の方に背を向けて座っていた。儒服の男は憤りとも侮蔑とも取れる噛み潰したような表情を浮かべながら、振り返りもしないその男に対して慇懃に声をかけるのだった。
「突然の訪問の無礼をお許し願いたい。拙者は先の上様より召されて今は将軍家の侍講を勤めている林道春。近頃は林羅山とも名乗っております。……今日はいくつか尋ねたい事があって雨の中参ったのです」
行燈を傍に置いた文机の前に座っていた男は、羅山の呼びかけに応えるようにぬらりと振り返る。
年恰好は五十代半ばの老人。総髪に貧相な髷を結っている。岩のようないかつい顔立ちと鋭い目つきが印象的で、薄暗い部屋の中で男の
老いた男はむすっとした表情のままゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置かれたままになっていた座布団を拾うと羅山の前に敷いた。座れという事か。
羅山はその薄汚い座布団の上に座すると、再び文机の前に座って自分の前に相対した男に対し小さく一礼してからこう申し出たのだった。
「お久しぶりですな、イルマン(修道士)不干斎ハビアン殿」
「……そう呼ぶな。俺はもうイルマンではないのだから」
ハビアンと呼ばれた老人は皺がれた声で静かにそう断った。老人が今着ているのは十徳で、その事に気づいた羅山はほんの少しの含み笑いを浮かべながら続ける。
「これは失礼致した。しかしまあ、私は貴方の本名を知らないのだ。ハビアン殿と呼ぶ事をお赦し願えないだろうか」
慇懃に尋ねる羅山に対し、老人は感情の読み取れない岩のような顔つきのまま小さくうなずくのだった。それを見た羅山は手にしていた包みを広げ、二冊の和綴じの本を取り出して二人の間に置いた。
やや色褪せた古い本の表紙には『
「一冊は今から十五年前に書かれた切支丹宗の教理書。平易な日本語で切支丹の教えの大要を説く書物だ。もう一冊は数ヵ月前に書かれた反切支丹の書。切支丹の教えの矛盾を糾弾し、奴らを処刑すべしとまで気炎を吐いている……」
ハビアン老人は射るような眼差しで手近に置かれた二つの書物を見つめている。羅山は続けてこう告げる。
「この二つの相反する書物を記したのは……ハビアン殿、貴方だ。私はこの事について尋ねる為に雨の中やってきたのですよ」
「お前は幕閣連中の小間使いというわけか? あの連中、俺がまだ切支丹の教えを捨て切っていないようだと疑っているようだからな」
小間使いという言葉を受けた羅山の眉間に皺が寄る。彼は自尊心の高い男だった。羅山は軽く咳払いをし、平静を装ったまま言葉を返す。
「私は幕閣どもの命を受けて貴方に会いに来たわけではないが、確かにあの連中は上様に取り入ろうとする長崎奉行の配下である貴方を快く思っていない。仮に私が貴方の棄教をマヤカシだと判断して箴言したら貴方はただでは済むまい。言葉には気をつけてもらおう。
……さて、貴方が覚えているかは分からないが私はかつて京の南蛮寺で貴方とお会いした事がある。その頃、貴方は京で一番人望のある日本人イルマンとして多くの信徒を従え、弁舌を振るっていた。
お会いして以来の十五年ぶりだが、あの時は私もまだ若く血気盛んで、お互い実りのある議論が出来なかったように思えてならぬのです。じつはその事がこの歳になって些か心残りに思えて来ましてな。こうして不躾ながら尋ねに参ったわけで……」
威圧した後再び慇懃に口上を述べ始めた羅山の言葉に、ハビアンが口を挟む。
「切支丹が完全に滅んで目の前から消えてしまう前に、お前の心残りを叩き伏せておきたくなったという事か。たしかに歯の間にカスが挟まったままでは枕を高くして眠れんだろう」
じろりと羅山を見据えたままそう告げたハビアンに対し、羅山はせせら笑うような笑みを浮かべながらこう返した。
「滅んで……そう、切支丹宗はそう遠くないうちにこの国から滅び去る。貴方がそれに一役買ったわけだ。かつて南蛮
二人の男が相対して睨み合う暗闇の中、行燈の光がちろちろと揺れる。暗闇の中、老人の岩のような表情は相変わらず読み取れない。
「何が聞きたい?」
ハビアンが問う。息を深く吐いた後、羅山は姿勢を正してこう問いかけた。
「私はずっと疑問であった。ハビアン殿はじつに聡い御方だ。
私はかつて貴方が語った〝地は球のように丸い〟などという説は間違いだと確信しているが、それでも一時は納得しかける説得力があった。それほどの知恵と弁舌の才がありながら何故、邪法を擁護する輩に身を堕としたのか。それが知りたい。貴方が旗色が悪くなったというだけで棄教する男だとはどうにも思えぬ」
羅山がそう尋ねた途端、ハビアンは醒めたように眼を大きく見開いた。正座こそ崩さないが大きく身を乗り出し、まるで掴みかからんばかりの姿勢で「あまぼしの罪」、そう呟いたのだった。
「あまぼし……?」
思いがけない言葉に羅山は眉を顰めて訝しむ。あまぼしとは干し柿の事だ。他愛ない菓子、あまりに卑近、あまりに取るに足らぬ、あまりに今の自分達にとってどうでもよい物のように思えた。羅山の訝しみを知ってか知らずかハビアンは言葉を続ける。
「知りたい――理解したい。そう、それだ。俺を突き動かしたのは結局のところ、それなのだ。これこそが連中のいうあまぼしの罪だったのかも知れぬ」
そう繰り返し何度も何度も言ったかと思うと、吐き出すような調子で語り始めるのだった。
――聞きたいならば聞け。俺はかつては禅を学ぶ出家だった。俺は信じていた。知りたい事は全て知る事ができる――知ろうとさえすれば、と。
じっさい仏法にはある所までは流麗で楼閣のような体系があり、俺の智慧に対する欲望を存分に満たしてくれた。しかしある一点以上の領域に踏み込むと途端に霧のように掻き消えていくのだ。
〝色即是空〟〝
……その先は誰に聞いても何を読んでも答えが無かった。俺には子供の頃から沢山知りたい事が在ったのに、大人達はさような事は詮無い事じゃとたしなめるばかりだった。「其様な事は仏法の救済慈悲の本筋にはあらず」と説き伏せられた。
俺はどれだけ嘲られようと〝無記〟の先が知りたくて堪らないのだ。毒矢の手当てが遅れて死んだとて構わん、毒矢の正体を知りたかったのだ。
不満足に耐えられなくなった俺は儒の道も学んだし神の道もむさぼるように学んだ。この国で学べるあらゆる智慧を吸収しようと目論んだが、まだ足りはせぬ。俺の心は充たされる事が無かった……。仏法の体系と智慧に安住する限り、釈尊が無記とした領域に秘められた事を知る事ができなかった。
そこまで言ったところで、ハビアンは憤っているような荒っぽい息を吐き出す。
羅山の方というと、その野卑で荒々しい振る舞いに少しばかり驚いた。
これがかつて己に
羅山のほうの訝しみなどまるで歯牙にもかけず、ハビアンは彼に食いつかんばかりの、聞き手など実はどうでもよくて自分の憤りをただ噴出させ続けているといった様相のまま話し続ける。
――耐え難い心の乾きに苦しんでいた俺の前に現れたのが、南蛮から来たあの紅毛の伴天連達だった。彼らはあの黒船の中に綺羅星のごとき智慧を積み込んでいた。
俺は師僧と共にその説法を聞きに行ったが、彼らは球形の模型を見せてはこれが大地の形だと言い、日や月や星の動きが描かれた図を見せてはこれが天の有様だという。他の皆は到底信じられぬと嘲笑ったが、俺はこう質問した。
「月が本当に丸い土塊だというのなら、何故毎晩形が変わるのだ」
すると彼らは地面に円や線を描きながらこう答えたのだ。
「日の光を球の大地が遮り、その影が丸い月の顔に映るのみ。これぞ提宇子の創造の奇跡なり」
「命なき
他の者達はますます嘲笑ったが、俺は驚愕した。その図の意味を飲み込んだ瞬間に霊感が走った! 理に適っている! 俺が長年知りたかった世界の仕組みをこの者達は知っている!
次の日にはもう俺は寺を飛び出し、切支丹の洗礼を受ける事を申し出ていた。
俺はそこでハビアンという洗礼名を貰い、
アニマ・ラシヨナルと申すは「智慧を持つ魂」とでも訳せよう。それはあらゆるものの中で人間だけが持っている
この世界を充たす
――成程! 成程! これこそが合理であり、俺はアリストテレスやアウグスチヌスという先哲が打ち立てたる知識の門を潜るたびに己の中のアニマ・ラシヨナルの躍動を感じ、その悦びと共に提宇子の愛をも信じた。コレジオでの学びの日々は俺にとってまさにパライゾの門だった……。
ハビアンの語り口は不可解で、かつて信じた切支丹の世界を語っている時の表情はまるで苦悶の間に
「その素晴らしいぱらいぞとやらを、何故貴方は捨てたのだ? 貴方が棄教した頃はまだ禁教政策も始まっていなかった。肉体の苦しみで転ばされたわけではあるまい。貴方自身が切支丹に不審をおぼえたのだろう?」
口を挟んでそう尋ねた羅山の顔をハビアンはぎょろりとした眼で睨み付ける。そしてこう吐く。
「そうだ。俺はある時から提宇子に対して不審を覚えたのだ。俺は一度は信じた筈の提宇子の事が分からなくなった。最初の不審の種はお前が植え付けたのだ」
「……私が? どういうことだ」
羅山は訝しむように目を細める。揺らめく火の灯りの中でハビアンの眼だけが獣のように相変わらず輝いている。酔いが醒めて興が削がれたかのような顔。あまりの剣幕にそのまま飛び掛かられるのではとさえ思えたが、ハビアンはさらに話し続けた。
「あのときお前は俺にこう問いかけたはずだ。〝提宇子が万物を創ったというならば、提宇子を創ったのは誰だ〟」
「ああ。それならば覚えております。貴方は〝万物を創られた提宇子のみ、始まりも無く終わりも無い〟と答えられた……些か拍子抜けする子供だましのような答えで、若い私は憤る気持ちを隠しもせずその矛盾を論難した」
その時、ハビアンがほんの少し笑みを浮かべた。はじめて表情を見せた。
「俺も同じ事を思っておったさ。また
「――〝ならば
羅山はかつてと同じようにはっきりとした口調でそう口にした。
「覚えていたか」
「そう聞けば同じ疑問は今でも当然浮かぶゆえ」
「俺はお前に〝それでも提宇子こそが先に在る〟と説いたがお前は納得しない様子であったな。結局俺とお前の論議は最後まで噛み合わず、お前は途中で帰っていった……」
「切支丹の理屈などもはや取るに足らぬと感じて退出したまでの事で、決して放りだしたわけではない。……今はハビアン殿とて、同じ思いを抱いているのでありましょう?」
羅山の自信に満ちた問いかけに対し、ハビアンは何も言わずにただ俯く。
「たしかに俺は、論難される中で自分の導き出した答えに満足ができなかった。お前の一言は俺が確信をもって仕えていた体系の根源を大きく揺さぶった。俺の心の中には懐疑が膨れ上がって行く一方で、パードレ達の聞かせる答えは俺を失望させるものでしかなかった。ある者はそれは
言葉にするうちに苛立ちを抑えきれなくなったという様子で、ハビアンは座ったまま畳を拳で突いて見せた。そして呻くようにこう吐くのだった。
「俺は! 俺は! 二十年近くも身を粉にして学んだ切支丹宗が、俺の知りたかった事を教えてくれるものではないとこの時に漸く気が付いたのだ! ――この虚しさが、やるせなさが、お前には分かるまい」
散々と喚き散らすと今度は熱が冷めたかのように静かになっていく。まるで酔っ払いが愚痴を喚き散らすような調子であった。もしや酒でも飲んでいたのかと羅山が辺りを窺うと実際文机の下には空になった徳利が幾つも転がっていた。
「――だから切支丹を辞めたというのか?」
冷ややかな目線を向けながら羅山が問う。するとハビアンは悪びれもせずに「学びたい事が無くなった師に仕えて何の意味がある?」とすわった眼差しを向けたまま聞き返すのだった。学びたい事が無くなったから辞める――なるほどそれは学問の本質であるかも知れず、学問の徒である自分にもまったく理解できない話ではない。しかしながら羅山にはいだ今一つ、この男が狂熱じみた眼差しで語る理想が理解できずにいた。
「先ほどから聞いておれば、貴方は知りたい事があるとしきりに言っておられる。一体何がそんなに知りたいのだ?」
するとハビアンは「イン・プリンキピオ・エラト・ウエルブム・エラト・アプド・デウス……」と唱え、聞き慣れぬ外来語に羅山はまた顔をしかめる。
「これは
お前との問答の後、私はこの言葉が示す真意をパードレ達に足しげく訊ねて回った。結果は同じだった。提宇子が理なのか理が提宇子なのか、誰一人分かっていないのだ! そうしていつまでも食い下がる俺に呆れた彼らが最後に言ったのは、かつての師僧と同じ言葉だった。
――その欲求は人類がマサンの木の実を食して以来の原罪に通ずるから戒めよ……と! ケッ、俺はその晩にはもう切支丹を辞めていた」
憤懣やるかたないといった様子でハビアンはそう毒づき、卓に頬杖をついた。
その態度はとうてい宗教者ではなく、まるでいじけた子供だと羅山は思った。
「成程貴方は切支丹の教えに失望した」
「ああ。知恵が罪だなどという教えがまっぴら嫌になった」
「……教えに失望したことは分かる。だが何故貴方が切支丹を摘発する側に回ったのだ? いまや切支丹どもは貴方を〝きりすと〟を裏切った〝じゅうだ〟に例えるほどに憎んでいるそうだぞ」
「俺は死にたくないからだ。罪人になって斬られるのは御免だ。死ねば何も分からなくなる。一日長く生きればそれだけ知る機会が増える」
「切支丹どもの精神を陥れては拷問にかけ、転ばねば女子供まで無慈悲に首を刎ねる。そんな仕事に加担して……」
「連中の命などもうどうでもいいことだよ。俺の渇きが一日でも長く生きろと俺を責めるんだ」
――羅山は妙なことになったと思った。なぜ自分が切支丹の肩を持つようにこの男を責めているのか。このハビアンという男の心には何かがひどく欠けている気がした。
「……そうまであさましく生き延びて、お前は何を知りたいというんだ?」
羅山の軽蔑したような問いかけに、ハビアンは始めて口元を歪ませて微笑んだ。そしてそのまま嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「この世界は何なのだ? 物は何故落ちていく? 水と氷は同じ物なのか? 鳥は何故飛べる? 青い空が赤くなる理由は何だ? 真っ暗な夜空には何が満ちているのだ? あの星は何で出来ている? なぜ親と子は似るのだ? 俺の肉は能々見ると小さい粒が凝り固まっているように見えるがこれはなんだ? 生命とは何だ? この世はいつどうやって始まった? 終わりはあるのか? あるいは……」
ハビアンは思いつくままに次から次へと口にし続け、唖然としている羅山の目をじろりと見つめ、最後にささやくようにこう尋ねた。
「どうすれば分かるんだ? なあ、お前は本当に知りたくならないのか? お前はそれで満足なのか?」
そう言いながらハビアンは着物の懐をごそごそとあさり何かを取り出す。引き出されたその手が握っていたのは二つのあまぼしだった。ハビアンはそのうち一つにかじりつき、ぐちゅぐちゅと音を立てて咀嚼しながらその実を食らっていた。
そうしてお前も食うかとばかりにハビアンは羅山にもう一つのあまぼしを差し出し、その手に握らせようとさえした。それに対して羅山が非常に顔をしかめたのを観たハビアンはとても可笑しそうに声を上げて笑い、息を切らしたように叫ぶ。
「ああ。ああ。その方がいい。地球が丸いことなど知らなくてもいまの世は偉くなれるからな。俺の疑問にお前も答えられないが、お前はきっと歴史に名を残す。ギャハハハ――」
その振る舞いに羅山はこらえきれなくなって立ち上がり、儒服の襟を正しながらこう云い捨てた。
「……あいよく分かった。ハビアン殿はすっかり気が触れておったようだ。もはや話すこともあるまい」
ハビアンは相変わらず咳き込むほどに笑い転げながら、それでも叫ぶ。
「ヒヒヒヒ…… 俺には結局死ぬまで何も分からないかも知れん。だが俺は死ぬまで〝知りたい〟と欲したのだ。俺だけがいま、人間のアニマ・ラシヨナルを輝かせているのだ。ただ、ただ……」
彼の笑い声はかなしげな調子になり、いつのまにか泣き声に代わっていた。
「俺は生まれるのが早すぎたのだ。きっともうすぐ、俺の知りたいことが――」
子供のように泣きわめきながら叫ぶハビアンをもう振り返りもせず、履物を履いてぼろ屋敷を出て行った。
……表に出るとあいかわらず雨が降り続いていて、羅山の姿をみとめた弟子がすぐに傘を持って近づいてくる。その傘を受け取ろうと手を差し出した時、羅山は気が付いた。右手にあのあまぼしを握ったままだった。
――そういえばハビアンは『破提宇子』の中でマサンの木の実をあまぼしと呼んでいたのだ。それはすなわち知恵の木の実という意味だ。
師が干し柿など持っていることを弟子は不思議そうに見ていたが、羅山は一瞬だけ躊躇するようなそぶりを見せた後、結局そのまま投げ捨てた。
「大地が丸いなどという妄言、百年経とうと千年経とうと誰が信じるものか。歴史に汚名を残すのは……やはりお前の方だ」
羅山が干し柿と共に吐き捨てた言葉は雨音にかき消されたし、ハビアンのあげる泣き声も他の誰にも聞こえなかった。雨はとうぶんやみそうになかった。
この出来事の翌年、玄和七年(1621年)にハビアンは没した。
最後の著作『破提宇子』の中で、ハビアンは筆名を「
「この世の果てにただ一人」。この寂しい境地こそが、仏教とキリスト教を渡り歩いてなお満足できなかった男の心の中に最後まで残ったものだった。
――ハビアンが
たぶん――彼は科学以前の世界にありながら科学に関心を抱いた最初期の日本人の一人だった。そうしてそれゆえ、彼の一生は充たされなかったのだ。
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