それはチョコレートアソートのように

千院字詩帆

なんきんスープ

 仕事から帰ってくると、決まって冷蔵庫を開ける。いつも途中でスーパーに寄って食材を買うから。残業や休日出勤もある夫のことを考え、料理と洗濯のほとんどは私が担当することになっている。

 時刻は六時過ぎ。

 夫が帰ってくるまで一時間ほどある。今晩の食事に使う分だけ冷蔵庫には入れず、まず野菜を水道で洗う。そのまま食材を切り分けてフライパンに移し、炒める。買ってきた惣菜、冷凍していた白米は冷めないよう最後に温める。今日の晩ご飯は肉じゃが、きゅうりの浅漬け、それと惣菜の揚げ物をいくつか。

 私が三十路を迎えてからというもの、朝晩二食――私も夫も昼はいつも会社の食堂、もしくは同僚と外食だ――のおかずは出来合いの物の割合が高くなっていた。しかし、必ず一品以上、手料理を作る。それは夫と結婚してからの日々を、せめて誇るための私のプライドだった。

 料理を続けながら、私は離婚のことを考える。晩御飯を作りながらこの事について考えるのは最近の私の癖になっていた――料理をしながら何か別のことを考えるのは、料理に慣れてからの私の癖だ――。

 離婚について考える、と言っても、大人の独り身女がする婚活ほど軽々しいものではなく、彼氏持ちの学生女がする別れ話ほど重々しいものではなかった。

 私たちは結婚してから今年で九年になる。大学時代に友人からの紹介で知り合った。それから彼も含めた仲間内で飲み会を繰り返し、何度かデートを重ねてから付き合い始めた。お互いが働き始めてからも関係は変わらず、そのまま私が二十五の時に結婚した。式は身内だけの小さなものだったが、私は満足だった。でも今考えてみれば、もう少し盛大にしても良かったかもしれない。そう思うのは、結婚してからの慌ただしくも幸せな日々、――慣れない二人分の家事と仕事。二人で並んで作る食事。おいしい店を探そうと私が言い出し、毎日安いレストランにばかりディナーに出かけたこと。週末のお出かけ。夫の残業とそれを家で待つ自分。――それらを想ってのことだった。

 料理の肉じゃがは煮る工程に入っていた。灰汁を取りながら更に思考は深く沈む。

 そういえば、彼は少し不器用な人だった。食事の時にコーンの一粒、二粒をお皿から溢してしまう人で、何故か私はそれを見るのが好きだった。それから彼の好物はパンプキンスープで、よく作ってあげていた。作る度に、

「今日の晩ご飯は何だと思う?」

 と聞いた。そうしたら彼は、

「ああ、晩ご飯はなんきんスープか」

 と答えてくれたことをよく覚えている。

「なんでわかったの?」

 と聞くと、

「匂いでわかるよ」

 と、いつも通りの答えをくれるのだ。それが嬉しくて、今度作ったときはまた同じことを聞こう、とまた繰り返すのだった。

 彼はなんきんスープの晩御飯を食べるとき、決まって自分の小さな頃の話をした。どうやらこの料理は彼の母がよく作ってくれていたものらしく、子どもの頃を思い出すのだと言う。私はこの話を聞くのも好きだった。コップを両手で持って飲み口を親指で拭いながら、ご飯を食べ終わった後まで話をせがんでいたものだった。

 私たちの間に子どもはできていない。それは共働きの所為でもあったが、それ以上に私の自尊心の所為でもあった。それはつまり、家事も夫婦間も仕事も、すべてを両立しようとした必要以上のプライドの高さが原因だということだ。

 灰汁を取る中で手に付いた煮汁を洗おうと水道で濯ぐ。ふと、手に痛みがないことを不思議に思った。二十代の頃は水場の家事が原因で手に罅割れができていたのだった。当時の私はそれを恥ずかしいことなどとは思っていなかったし、むしろ誇らしいとすら思っていたかもしれない。その所為か、手に罅割れの無い女の隣をすれ違う時、私はいつも以上に胸を張っていたことを覚えている。私はあなたとは違う人間なの、と言いたかったのだろう。

 何故今、そんなことを思い出したのだろう。何故罅割れが無いことを不思議に思ったのだろう。それはきっと、私にとっての当たり前が当時とは変わっていることに気付いたからだろう。少なくなった手料理の品数。無くなった指の罅割れ。聞かなくなった夫の昔話。別の部屋で眠るようになった私たちと、今は無くしたプライドの高さ。

 料理はもう終わりが見えてきた。既に落し蓋をし、味を染み込ませ始めている。それからしばらくして白米や惣菜をレンジで温める。盛り付けが完了してしばらくすれば、夫が帰ってくる。そうしたらまた今日も会話の無い食卓が出来上がることだろう。

 でも今思い返してみても、当時は十分に幸せな結婚生活だったと思う。私は彼のことを心から愛していたし、彼もきっとそうだと信じていた。

 二十六歳、結婚してから初めての私の誕生日。それに合わせて出かけた温泉旅行。結婚してからの初めての遠出だったからよく覚えている。二人で計画を立てながら有休の日にちを合わせたこと。準備に私が手間取ったこと。帰りの新幹線で夫が寝てしまったこと。それから、普段使いもしないのに二人でお揃いの手拭いを買ったこと。でも、買い物で一番時間がかかったのは、お互いの会社の人へのお土産だった。二人で散々悩んだ。その所為で幾つものお土産屋を冷やかすことになってしまった。それから陽が落ちる頃に旅館へ。二人で家族風呂に入り、部屋に戻り性交した。あの旅行の間、私は勿論のこと、彼も楽しんでいた。もしかしたら、彼は私以上だったかも知れないけれど。家に帰った時には疲れ果てて、二人して休みの最後の一日を家から出ずに過ごした。そんなことを覚えている。


 夫が帰ってきたころにはやはり食事は作り終えていて、やはり会話の無い晩ご飯で。

 食べるのが早いこの人は、先に「ごちそうさま」と言って、部屋に行ってしまう。食べるのが遅い私は独りでテレビを見ながら、やはり離婚のことを考える。あの頃のあの人は、ご飯を食べ終わった後にいつもお酒を飲みながら私と話をしていたのに。そんなことを思いながら。

 小さなダイニングキッチンには面白くもない冗談に無理して笑っている芸能人の乾いた声、そしてお皿の上で鳴ったカラン、という箸を置く音が響いた。それが言いようのない寂しさを生んだ。でも、何かを言おうとして口を衝いて出たのは溜め息で。なんだか大変に物悲しかった。

 ふとダイニングテーブルに置かれた卓上の時計を見てみると、デジタル表示盤には何も映っていなかった。

 きっと私が仕事に行っている間に止まったのね。

 そう思ったが、もしかしたら夜中には既に止まっていたのかもしれない。自分の家の時計にもかかわらず、私が把握できていないというその事実が、私を不安に陥らせた。

 実はこの部屋には卓上時計とは別に、数年前に止まってしまったまま放っておかれている掛け時計がある。

「そういえば、あの人に直してもらうように言うのをずっと後回しにしてきたんだったわ」

 このアナログの掛け時計――つまりこの時計が止まったから卓上時計を使用していたのだ――は止まってしまったまま、あの人に頼むこともできず、壁の高い位置に掛けられたままで昼下がりの位置で針が止まっている。卓上時計に慣れきってしまった今、掛け時計を直す意味は無いのだが、在っても無くても変わらないその存在を見ていると、何故だか無性に腹が立った。しかし、今から脚立を取って時計と格闘する気も起きず、私は明日掛け時計を直すことに決めて、電池を入れ替えることのないまま卓上時計を仕舞いこんだ。


 寝る前に考えるのは専ら学生時代のことで、それは夫の事だけではなく、もっと昔の事。例えばそれは小学校の頃、よく遊んだ家の近い友達の事だったり、中学校で好きになった初恋の人の事だったり、将来が不安で、途方に暮れて泣いていた大学受験の頃の幼い自分の事だったり。


 でも今夜は高校時代に仲の良かった男の子を思い出していた。彼は今、何処で何をしているだろうか。仲の良かったと言っても、それほどの時間を共に過ごしたわけではない。恋愛感情があったわけではないし、私はその時には別に彼がいた。顔を合わせることがあれば話をする、そういった間柄だった。でも好いた惚れたとは別に、その男の子とは気が合った。多くの時間ではなくとも仲が良かったと感じるのはそのためだろう。

 その男の子の実家は農家で、私はよく果物を渡されていた。彼の家で採れた物ばかりではなく、知り合いの農家から送られてくるものもあるらしい。私には全く知らない世界で、その頃の自分は果物を渡されて、まるでジュエリーをプレゼントされたように喜んでいたものだった。でもその一方で、彼は家業を継ぐことには興味が無いようだった。じゃあ将来は何になるの、と聞くと、決まって

「サラリーマンとして普通に生きていくんだ」

と答えていた。でも、私には普通が何なのかわからなくて、私の持っていないものを持ちながらそう答えられる彼に劣等感を持っていたかもしれない。その妬みや羨ましさが、私に必要以上の自尊心を植え付けた原因の一端だったと今になってようやく自覚したのだった。


 翌日の土曜日の昼下がり。私はダイニングキッチンの壁に掛けられた時計を直そうと脚立を物置から持ってきた。それは小さな脚立で、私が天井近くの時計を取り外すには高さが幾分足りなかった。結局のところ、やはり夫に頼まなければならないようで、それを理解した途端なんだか憂鬱になった。しかし、ここまできたら、となんだか意地になってしまって、今は夫の部屋になっている十帖一間の扉――元々は夫婦部屋で二人で寝ていた――の前に私は立っていた。

 思いの外話はすんなり進んで、夫は案の定いとも簡単に時計を取り外した。

「今更、この時計を直すの?」

「ええ、なんだか可哀想に思えたのよ」

 それは半分本当で、半分は嘘だった。確かに何年もの間放っておかれたということに対して同情の心はあった。でも、心の奥底では、自分の家の中で直っていないままの時計が掛けられているその事実に納得がいかなかったのだと思う。つまるところ、あの頃のプライドをほんの少しだけ思い出したのだろう。

 私の先ほどの言葉にどうにも納得のいっていないらしい夫は、「ふーん」と、気のない返事をしながら時計に新しい電池を入れていた。それにしても、一体いつぶりだろうかと考える。この時計が動くところを見るのは。そして何より、私がこの人とこんなにも自然に話をするのは。こんな風に会話の無い関係になったのは、何かの突発的なタイミングや直情的な言動によるものが原因でないことは確かだった。ただ、普遍的な変化によって揺蕩い、流されたのだ。そしてそれに対し、努力を怠ったのだ。

 気が付けば、作業は終わっていたようで、夫は脚立に上がり、壁に時計を掛けていた。脚立に乗る夫を見上げるその光景はなんだか懐かしくて。まるで二人で暮らし始めた頃のようで私の胸はドキリ、とした。でもこの手に滲んだ汗は懐古の情によるものなのか、ひんやりとした甘い恐怖によるものなのか、判断がつかなかった。多分、と私は考えた。両方、なんじゃないかしら、と。

 壁に掛け終わり、夫が脚立を仕舞いに部屋を出て行った。

 カチ、カチ、カチ。

 私は懐かしい音を響かせる時計の音色に耳を傾けながら、夫が戻ってくるのを待っていた。

 カチ、カチ、カチ。

 私はこれからどうすればいいのだろう。取り戻したちっぽけな時計の音と、昔とは変わったが少しだけ取り戻した自尊心。

 私は食卓の椅子に座りながら、ふぅ、と息を吐いた。周りを見渡してみる。直った時計と自分の座っているテーブル。食器の入った棚と冷蔵庫。

 カチ、カチ、カチ。

 ここ数年の時間が、確かに目の前を流れていくのを私は見た。

 二人で選んだ冷蔵庫。二人で持ち寄った食器類と少しずつ増えていった調理器具。今は傷んでしまったケトルと壁に付いた幾つもの小さな傷。

 カチ、カチ、カチ。

 そして何より、時計はここがいい、と夫に取り付けるのをせがんでいたあの頃の私。


 夫がダイニングキッチンに戻ってきた時、私はお礼を言おうとして、喉が震えていることに気が付いた。

 思い出してしまったのだ。この時計の音を聞きながら、このダイニングテーブルに座って残業から帰るあなたを待つ自分を。

 なんきんスープのあの匂い。罅割れた指と、両手で持ったコップの飲み口を親指で拭いながら聞くあなたの昔話。子どものようにコーンを溢してしまうあなたと、それを見て微笑む私を。

 気が付けば、涙が止まらなかった。三十を過ぎた女が訳も分からず泣いていた。夫はそんな私を見て、慌てたように「どうしたんだ?」と言いながら肩を揺すってくる。私は答えることができず、ただ、泣いていた。しばらくして出た言葉が

「ごめんなさい」

 だった。なんだか情けなくて、また涙が出た。

「少し一人になりたいの」

 そう言うと、彼は戸惑いながらも部屋に戻っていった。

 夫が部屋に行ってから、私はもう少しだけ泣いた。そしてもう、あの頃には戻れないのだということを理解してしまった。

 ただ一つだけ、決めたことがある。それは今日の晩ご飯になんきんスープを作ること。手間が掛かるからと、いつの間にか作らなくなっていたその料理をなんだか無性に作りたくなった。

 買い物をするために家を出る。スーパーで細かな献立を考えながら、かごに食品を入れていく。泣き腫らした顔で買い物をする私は酷く滑稽に映っただろう。でも、確かに私は胸を張っていた。指に罅割れはないけれど、今の私はそうしなければならない気がしたからだ。


 料理を作りながら、私は離婚のことを考える。晩御飯を作りながらこの事について考えるのは最近の私の癖になっていた――料理をしながら何か別のことを考えるのは、料理に慣れてからの私の癖だ――。

 本当に離婚をするかもしれないし、そうはならないかもしれない。でも、もうあの頃には戻れないこと、それだけは確かだ。ただ、あの人と話をしてみようと思った。私のこれまでと、私の今。彼のこれまでと、彼の今。ただ、全てを話したいと思った。

 晩ご飯ができて、あの人を呼びに行ったとき、最初に言う言葉は決まっている。あの人はあの頃のように私の好きな言葉を返してくれるだろうか。

 時刻は夜七時前。

 私は食事ができたことを告げるため、今はあの人のものになっている部屋の前に立った。ノックする手を止め、深呼吸する。

 無意識に頭の中は思い出を巡った。

 思い出していたのは今となっては遠い昔のこと。

 おいしい店を探そう、と私が言い出し、色んな安いレストランに毎日ディナーに出かけたこと。二十六歳の私の誕生日。罅割れた指。必要以上にプライドの高い女だったこと。そして何より、久しぶりに思い出したなんきんスープのあの匂いと、確かに私たちは愛し合っていたこと。

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