平成元年の公衆電話

勇今砂英

孝太郎とテレホンカード

 その男は名を孝太郎という。親孝行するように父が名付けたのだ。しかし実際には幼い頃に母を亡くしてから、それはもう絵に描いたように非行へと走り、高校も卒業しきらない内に家を飛び出した。それ以来孝太郎は東京に出て、チンピラまがいの自堕落な生活を続けていた。


「今日も全然ダメだったな。そろそろ生活もやべぇか。」

 けたたましい音を上げるパチンコ店から出て来た孝太郎がつぶやく。何か飯のタネになるような事は無いだろうか。誰でもいいから因縁つけてやろうか、そんな事ばかりを考えながらズボンのポケットに手をつっこんで背中を丸め、大げさにガニ股で歩く。彼は昔から気に入らない事があるとこうやって虚勢を張って歩く癖があった。

 街を歩くと彼の目には全ての人が幸せそうに映った。若いカップル、親子連れ、友人同士数人のグループ。一人で歩くサラリーマンにさえ、家に帰れば家族が待ってんだろうな、とひがみ倒しながら歩いていた。

「あーあ、つまんねぇなぁ。」

 そう言いながら彼は地面の石ころを蹴っ飛ばすと、その拍子に履いていたサンダルが飛んで行ってしまった。

「おっと、いけね。」

 小走りで転げていったサンダルを拾いに行くと、そこに何か白いカードが落ちていた。

「おー?なんだこりゃ?パッキーカードか?」

 拾い上げてカードを見てみると、どうやら期待したパチンコのプリペイドカードでは無いらしい。

「ちぇっ、なんだよつまんねぇ。しかしこれもしかして?なっつかしいな。」

 それはどうやらテレホンカードの様だった。どこかの企業の記念テレカというものらしい。昔は営業なんかが得意先にこういったものを配るのが一種の社交辞令だったのだが、これもそういった物だろうと孝太郎は思った。


 カードには『時幸株式会社 平成元年』と書かれていた。

「何?ジコー?トキ・・?知らねーとこだな。もう潰れて無ぇとこなのかな。」

見るとカードは50度数の物で、これをカード式公衆電話に挿せば50×10円分の通話が出来るのだが、カード上辺に細かい数字が印字されていて、使用毎にだいたいあとどのぐらい通話ができるかわかる目印として1ミリ程の小さいパンチ穴が開けてある。このカードには0と25の間にパンチが打たれていたのでだいたい10回〜分ぐらいの通話分だろう。

「まだ使えるのか。金券ショップに行けばどこか買わねぇかな。」

などと考えたが、しかしアイドルや歌手の写真入りなどのプレミアのついたものならともかく、企業の営業用テレカではほとんど価値は無いだろうし、しかも使用済みの物なので結局は徒労に終わるだろうと孝太郎でも思った。

「今時電話ボックスもねぇし、まあゴミだな。ちくしょう。」

そう言ってカードをその辺に捨てようとした時、都合よく目の前に電話ボックスを見つけた。

「あれ?こんなとこに電話ボックスなんてあったか?ていうか、ここどこだよ?」

 孝太郎が気がつくと、知らない内に路地裏に入っていたようで、そこに人通りは無く辺りは薄暗く電話ボックスの脇の電柱に取り付けられた街灯がチカチカと点滅していた。

「なんか薄気味悪りぃなぁ。まあいいや。」

 孝太郎は電話ボックスに入ってみる事にした。


 黄緑色のカード式公衆電話。ここ10年ほど久しく見ていない。孝太郎自身が携帯を持ったのは18の頃だったから、もう公衆電話を使うのは20年近くぶりであった。

「えっと、誰に電話しようかな。」とスマホを取り出してみると、電池が切れていて電源が入らない。数日前から電気も止められており、手元に残った千円で携帯の充電地を買うか、それとも飯を買うかで悩んだ挙句、パチンコで増やして両方買えばいいという結論に達してから、あっという間に全額スってしまったのを思い出した。

「電話番号覚えてるのなんて・・・。」そう言いながらカードを電話機に挿し込むと、「15」の文字が表示された。


 しばらく考え込んだ孝太郎だったが、「これも何かの縁だ。」そう言って17歳の時に飛び出した実家の番号をプッシュした。

 孝太郎の心臓が高鳴る。なにせ父親と喧嘩別れして以来一度も連絡したことはない。4回、5回と呼び出し音が鳴る。もう止めようかと思ったその時、

「はい。高梨ですが。」と若い女の声がした。

「えっ、あっ、誰?」

「誰って、あなたこそ誰です。」

「いや、俺は、あの、孝太郎だけど。え、親父いる?」

「はぁ?孝太郎?なんなんですかあなた、いたずらなら切りますよ。」

「いや、え?」

 電話は向こうから切られてしまった。孝太郎は驚いた。孝太郎が家を出る前は父一人子一人の二人暮らし。確かに母親が死んでから何十年も経つのだから、新しい妻でも居ても不思議では無い。しかしまさかあの父親が再婚するとは孝太郎には思えなかった。

「じゃあ誰だよ。・・・待てよ?あの声・・・。」

 孝太郎には確かにその声の主に記憶があった。しかしあまりに古い記憶であったためその場で即座に思い当たる事が出来なかったのだ。

「かあ・・・ちゃん!?」

 孝太郎はもう一度カードを差して実家に電話する。するとまたさっきの女が出た。

「もしもし高梨です。」

「あの、あ、高梨さんのお宅ですか。えーと、俺、洋太郎さんに昔お世話になった者でして。あの、奥様です・・・よね?」

孝太郎は頭をフル回転させて普段使わない敬語を使い、さっきとは声色を変えて父親の知り合いになりすました。

「ええはい。そうです。あなたお名前は?」

「あ、孝・・・孝一です。ジコー孝一。」

「ジコーさん?変わったお名前ね。ごめんなさいね。まだ主人仕事から帰ってないのよ。最近は接待だなんだって言いながら毎日グダグダになって帰ってくるんですよ。もう情けないったらありゃしない。」

「へ、へぇ。そうなんですね。」

「お急ぎの用?」

「いえ、そういう訳じゃあ。」

「じゃあまた日曜にでも掛けてくださいな。ジコーさんから電話があったって、主人には言っておきますね。」

「はい。お願いします。あの、かあ、奥さん。」

「はい?」

「話せて嬉しかったです。」

「?変な人ねぇ。」

通話が切れた。ピピーとけたたましい音を立ててカードが排出されると「10」の数字のところにパンチが打たれていた。


 その日孝太郎は寝付けなかった。あれは間違いない、母の声だった。優しかった母。母が亡くなった日はまだ幼い彼には理解できなかった。何日待っても仕事から帰ってこない母をずっと玄関先で待っていたのを思い出していた。


 翌日、めずらしく二日酔いでない孝太郎は、6畳一間のアパートの隅で押し入れを漁っていた。

「あった、これだ。」

 それはただ一つ、彼が家を飛び出す時に持ち出したもの。写真立てに入った母親と一緒に写った写真だった。

「かあちゃん。」

 色々な思いが胸を埋め尽くす。いてもたっても居られなくなった孝太郎はその写真とテレホンカードを抱え、またあの電話ボックスを探して街へと駆け出していった。


 昨日全財産をスッたパチンコ屋の辺りを隈なく散策してもなかなか行きあたらない。もうあの奇跡は二度と起こらないのかとの思いがにじむ。しかしそれでも諦め切れないで空腹にも耐えながら周囲を歩いた。やがて夕方に差し掛かった頃、疲れ果てた孝太郎がうつむいて歩いていると、いつの間にか電話ボックスが目の前に現れていた。


「ははっ・・・やったぜ。」

 今までの疲れが嘘の様に吹き飛ぶ。意気揚々とボックスに入るとカードを挿れる。呼び出し音が5回ほど鳴った時、電話を取る音がした。

「もしもし。どなたですか?」

子どもの声だった。もしやこれは、

「俺か?・・・いや、孝太郎・・か?」

「うん。そうだよ。おじさんだれ?」

「お、おう。俺ァな、お前のかあちゃんの友達だよ。」

「なんていう人?」

「え、えーと。孝太だよ。お前の名前に似てるな。偶然にもな。ははは。」

「ほんとにかあちゃんの友だち?」

「お、おうそうだよ。お前のかあちゃんには孝太郎はかわいいとか偉いとかよく聴いてるよ。本当だぜ?」

「ふうん。」

「あのさ、かあちゃんは留守か?」

「うん。」

 まさか子どもの頃の自分と会話するとは思っていなかった孝太郎だが、なんだか嬉しくなってしまい、その後も

「親孝行するんだぞ。」とか

「お前はやればできる子なんだ。ちゃんと勉強しろよ。」とか

「友だちは大事にしろ。乱暴もやめた方がいいぞ。」などと説教くさく喋っていると、電話機に表示された残り回数が「3」になってしまった。孝太郎は母と喋る分を残したかったので、

「そろそろ切るわ。じゃあな。元気でな。しっかり生きろよ。」とだけ言って受話器を置いた。電話口の子どもの孝太郎は七つになるらしい。うんうんと言うだけだったがとても可愛い声だった。


 孝太郎のだいたいの感覚だったが、このテレホンカードでの通話は1分で1つ減るらしい。残りは3分だ。家に帰り着いてからも孝太郎は残り3分で母親に何を話すか一生懸命に考えた。

「まずジコー孝一のふりで掛けて、それから、親父には代わらなくていいから何か話すきっかけを・・・」

 電気が止められた部屋で寝転がる。今夜は月が明るく壁ぎわのカレンダーを照らしていた。

「子ども孝太郎が七つって事は今から丁度30年前か。つまり平成元年だな。」

「そういや母ちゃんが死んだのもこのぐらいの時期だっけ・・・待てよ?平成元年の3月22日、それって」

 孝太郎は飛び起きた。飛び起きてテーブルの上に飾った写真立てから写真を取り出し裏を見る。

「佳代子・平成元年三月二十二日没」と父親の字で書かれていた。

「明日じゃねぇか!」


 孝太郎は一生懸命に30年前のあの日の事を思い出そうとした。たしかあの日母親は、いつも通り朝孝太郎が学校に行くのを見送った後、自分の働く工場へ出勤する途中に交通事故に遭い、帰らぬ人となったのだ。孝太郎はテレホンカードを持って再び家を出て走った。なんとしてでも最後の3分で母親が出かけるのを阻止しなければならない。


「お願いだ、電話ボックス、出てきてくれ!」

 孝太郎はなりふり構わず大声で叫びながら街を彷徨った。

 するとやがて夜も白んできた頃、孝太郎が入った路地先にその電話ボックスを見つけることができた。

「野郎、もったいつけやがって。」確かに深夜では誰も電話に出ないかも知れなかったが、今の孝太郎にその事を考える余裕はない。

 カードを電話機に挿す。表示される「3」の文字。ゆっくりと念じる様に実家の番号を押す。

 3回、4回、呼び出し音が鳴る。5回、6回、まだ出ない。

「お願いだ。出てくれ。」

 孝太郎が祈っていると、10回程呼び出し音が鳴った頃、

「もしもし、誰です?こんな朝から。」母親の声だった。

「ああ。もしもし。すいません。こんな朝早くに。あの。僕の話を聴いてください。」

「なんです藪から棒に。あなた、もしかしてこないだのジコーさん?」

「え、ええ。よくわかりましたね。あの、お願いがあるんです。」

「主人でしたらまだ寝て・・・」

「今日はあなたにです。奥さん。今日は何があっても絶対出かけないでください。」

「何を言っているんです?」

「いいから。今日は危ないんです。今日あなたが出かける時、その、交通事故に遭うんです。」

「はあ?何をおっしゃってるの?意味がわかりません。」

「お願いです。お願いですから外に出ないで。孝太郎くんの為にもお願いです。」

「孝太郎がどうしたっていうの。あなたさっきから何なんですか。怒りますよ。」

「お願いだ!かあちゃん!どこにもいかないでくれ!」

 気がつくと孝太郎は大声で叫んでいた。

「お願いだよ。かあちゃん。俺は本当にダメな奴なんだ。親父とは喧嘩別れしちまうし、どこで何をやって働いても全然長続きしないし、何かっていうと人と喧嘩ばかりしちまうし、金もないし。でもよ、それを全部ぜーんぶ、他人のせいにしちまう様なダメダメな奴なんだ俺は。でもよ、俺はかあちゃん、かあちゃんが生きててくれるならもうそんな生き方はやめるよ。だから後生だからかあちゃん、俺を一人にしないでくれ!かあちゃん!」


 いつの間にか通話は終わっていた。電話機の表示は「0」になっていた。けたたましく鳴るブザー。受話器を置いてカードを抜き取ると、そこはもう何もない場所だった。

 とぼとぼと家路につく孝太郎。その日はただただ眠った。


 翌日から孝太郎は心を入れ替えた。ハローワークに行き仕事を探した。仕事が決まるまでの食い扶持の為に日雇いで働き始めた。やがてビルの清掃業者の仕事が見つかり、そこで働くようになった。最初の給料の使い道は決まっていた。実家への帰省費用だ。


 胸を張って堂々と歩き、20年ぶりの我が家の前に立った孝太郎。恥ずかしくない生き方ができるようになって初めて家に帰る決心ができた。身なりを整えた孝太郎は張り裂けそうに高鳴る胸を押さえながら玄関の扉を開く。


「ただいまー!」


 はあい、と声が聞こえた。少し歳の行った女性のような、しかしとても懐かしい声だった。足元を見るとそこには靴が並んでいる。紳士物の革靴やスニーカーと並んで、見慣れない婦人物の靴が並んでいた。

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