三分間診療
あきのななぐさ
最後の診察
「――さん。――田さん。松田忠さん」
どこか遠くの方から、自分の名前を呼ばれた気がして目を開ける。それと同時に、体を軽く揺さぶられる感じがした。
「ほら、お父さん。起きて。呼ばれてるよ」
そう言って手を上げる娘を見上げ、まだはっきりとしない意識に向けて、『さてと』とそう呼びかけてみた。
「大丈夫?」
「ああ、行こうか」
この状態にも慣れたつもりだったが、やはりいきなりでは勝手が違う。自分の思い通りならない体に思わず苦笑しかけたが、娘がそれを嫌っているのを知っているからやめておいた。
――この期に及んで、今更なんだが……。
「ゆっくりで、いいですよ」
扉を開けて待ってくれている所から、いつも通りの声が届いてきた。そこにいたる道はかなり険しい。娘に手伝ってもらいながら移動しようとすると、すかさずその声が再びやって来る。それは、私に対しての言葉ではなく、私が通る事を告げるためのものでもあるに違いない。数多くいる人の間を、車いすが通り抜けるのは難しい。特に病院の外来ではそうだと言える。
皆、自分が苦しいのだ。今になって、ようやくそう思う事が出来てきた。
他人に対して配慮する心のゆとりなど、苦しい時に持てるはずがない。でも、看護師さんのその言葉は、私がそこにいる事を他の人に知らしてくれるものになる。それだけで、ずいぶん違う結果になる。
いつも優しく声をかけてくれる看護師の花田さん。まだまだベテランという域ではない彼女。初めて会ったのは、まだ彼女が看護学生の時だから、もう長い付き合いになる。そういえば……。人の死に敏感に反応していた彼女は、新人だった頃によくベテラン看護師に叱られていたな……。
そんな彼女も、今では新人看護師が入ってきて張り切っている。『先輩として頑張らないと』という気合がよく伝わる。そう言えば、ずいぶん前に病棟から外来に異動になった彼女。たしかに会う機会は増えたはずなのに、最近話した記憶がない……。
――ああ、私が自分の事で精一杯だったせいもあるか……。
おそらく、彼女はこれまで通り接してくれていただろう。だが、私がそれを受け取れずにいたのかもしれない。
ゆっくりとだが、着実にそこにたどり着き、診察場に入る前に会釈した。
そう言えば、この人にも何か言っておいた方がいいのだろうか? いや、柄でもないことはすべきではない。そう思った瞬間、どこかで見た表情がそこにあった。
――その表情は……。花田さん……。そんな顔を見せていると、師長にまた怒られるぞ……。
患者の立場に寄り添い過ぎず、寄り添う。
ただ、その瞬間に浮んできたもの。それは、妻の病室に向かう時に、いつもトイレで見ていた自分の表情。最後まで笑顔だった妻に、私も精一杯の笑顔でいようと思っていた時のものだ。
――あんたはまだまだ、ベテランには程遠い……。まあ、私にとってはそれがあんたらしいと言えるだろう。
それと共に思い出したのは、『感謝を伝える時は、ただ『ありがとう』でいいんですよ』という亡き妻の言葉。結婚当初から、『口数が少ない』とよく小言を言われたものたが、それだけは口酸っぱく言っていた気がする。
もっとも、そのたびに私も鼻であしらっていたのだが……。
「ありがとう」
すれ違いざまに言えたその言葉。自分でもしっかりと言えた気はしなかったが、どうやらちゃんと伝わったようだ。だが、それ以上はすべきではない。それは私が一番わかっている。
*
「松田さん。どうですか?」
診察場に入り、いつものように、いつもの感じで聞いてくる先生の言葉。それは、私の呪縛を解きほぐすのに十分な効果を持っていた。ただ、それと同時に多少気恥ずかしくもあった。
何故だか、それまで気負っていた自分を見透かされた気がする。しかし、決して不快ではない。何故なら、この先生は若いが信頼に値する。今どきの普通の医者のように、電子カルテの画面だけを見ていない。ただ真っ直ぐに、いつも私を迎えてくれていたからだろう。
だからこそ、この先生の説明にも納得した。
その選択に、時間をもらった理由も理解している。
そして、今。自分の決心が間違っていないことを確信できた。
――治療を終えるという事を。
「いきなり『どうですか?』とはご挨拶ですな。でも、仕方のないことなのかもしれませんな。先生は、人を待たすことが仕事ですから。ただ、一度待ってみればわかりますよ。世間で言う、三時間待ちの三分診療とはよく言ったものですな」
「もう、お父さん。こんな時まで。今日はそんな事言うために来たんじゃないでしょ。それに、そんなに待ってないじゃない」
私の皮肉めいた言葉に、後ろで立つ娘の方が先に反応していた。当の先生は、私の方が先に口を開いたことがよほど意外だったとみえる。娘が私を急かす言葉を告げるのが常だったのだから、それは当たり前なのかもしれない。
「いや、これは参りました。すみません、お待たせしましたが先ですね。それに、三分診療が否定されないとは手厳しい。でも、確かにそうですね。本来であれば、お一人お一人と、もっとお話しできるといいのですけど……」
「あっ、いえ、そういう意味ではないです。実際には点滴している時間もそうですし……。ああ、もう! お父さんが変な事言うから……」
今更申し訳なさそうにする娘。その娘の言葉に対して、この先生は素直に私に頭を下げていた。こんなやり取りも楽しみで、私は今までこの病院に通っている。
「まあ、待つのも私の仕事の一つでしたからな。でも、その私が今回はお待たせしました。でも、おかげで色々整理できました。やはりそろそろ定年ですわ。物事には、潮時というものがある。言葉として理解していても、いざ自分に当てはめるとなると、難しかった――」
軽い調子で言っては見たものの、やはり最後の言葉は緊張する。特別言わなくても分かるだろうが、やはりこの先生も人の子なのだろう。超然としているように見えて、ずいぶん迷っているに違いない。
だから何も言わずに待っている。娘も特に何も言わない。花田さんもあれから一言も漏らしていなかった。
「――だから、今日で通院を最後にします。今まで、お世話になりました」
深々と頭を下げてみたつもりでも、体はそう反応してはくれなかった。多分、軽い会釈くらいにしか動いていない。
もう、自分の体であっても、半分自分の体ではない。頭で理解していても、そう思うたびに悲しくなる。ただ、自分の意志を伝えることが出来ただけ、私はましな方なのだろう。
「――わかりました。ご家族の――、娘さんもそれでよろしいですか?」
一応それが決まり事だという風に、先生は後ろで立つ娘に視線を向けていた。
「父が決めたことです。それに、父が私達の言う事を聞く人ではありませんから――」
困った子だとでも言いたいように、そっと私の肩に娘の手が置かれている。何か色々と言いたいのだろう。だが、実際に何も言わなかった。でも、そこに込められた気持ちは、かすかに震えるその手が伝えてくれている。
「私が、私らしく私のままでいたい。そう願う気持ちを、これだけ理解してくれるだけでありがたい。よい娘に育ったと自慢ですよ」
「そうですね。ただ、それは僕に言う事ではありませんよ。帰ってから、ちゃんと向き合って伝えてください。娘さんは、松田さんの立場になるのですからね」
「ははっ、先生にはかないませんな」
「まあ、これでも医者ですから。色々見えるものですよ」
「そんなものですか?」
「ええ、僕は奥さんをつれてこられていた松田さんも知っていますし、連れてこられている松田さんも知っています。それ以外の患者さんやそのご家族も知っています。ただそれだけの事です」
それを最後に、ただ黙って見守る先生。その姿を見て、まだ伝えるべき言葉があったことを思い出す。
「そういうものですか……。先生、今までありがとうございました。最後の三分間は、今までで一番短く感じましたよ」
「はい」
娘に連れられて診察室を出るまで、先生は私から目を離してはいなかっただろう。扉と先生の間にある、診察室を区切るカーテン。振り返ってみた時に、そのカーテンの下からのぞいていた先生の足は、私の方を向いていた。
――ああ、一仕事終えた気分だ。
「受付で、紹介状をもらってください」
娘にそう説明する花田さんの声も、どこか遠くから聞こえてくる。
思えば、この病院にはお世話になった。妻のように最期の場所に出来なかったのは残念だったが、この際贅沢は言えないだろう。
少なくとも、最期に自分らしく死ねる場所がある。
その瞬間まで、私は私のままでいられるのだから。
<了>
三分間診療 あきのななぐさ @akinonanagusa
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