最期の続き

九十九

最期の続き

 冷たくなって行く身体から、とろり、とろり、と瓶から零れる蜂蜜の様に温かい赤色が溢れ出す。

 とろり、とろり。微睡みの中で舟を漕ぐ様な心地良さの中、温かい赤色は溢れ続ける。

「死んでしまうの?」

 天使の肖像画を切り出してきたかの様に繊細な造形の少女は、じっと横たわる赤色に尋ねた。

「きっとそうね」

 横たわったまま赤色に染まる女は夢見心地で答えた。そっと残った左腕で少女のまあろい頬を撫でると、ふくふくとした頬に女の色を無くし始めた指先が柔らかく沈む。

 彼女が纏う色は鮮やかな赤色だった。真っ赤なドレスに真っ赤なヒール、真っ赤な唇と真っ赤な爪先。赤くないのは陶器の様に白い肌と鴉の濡れ羽色の黒髪だけだ。けれど、その白い肌もしっとりとした黒髪も、今は赤色に染まっている。

「どうして死んでしまうの?」

 少女は真っ白な髪を揺らめかせて、首を傾げた。少女の琥珀色の瞳が不安定な色を示す。不安、恐怖、心配、不理解、忘却。透明な琥珀色に霞がかった感情の色達が滲みだす。

「どうして死は有るの? どうして死ななければならないの? どうして私を置いて行くの?」

 少女の丸い瞳が何度も細めては見開いてを繰り返す。少女の眉根が寄り、小さな手が触れていた木製の床は鈍い音を立てて割れた。

 赤色の女は眉をハの字に下げると、寂し気な笑顔で少女を見詰めた。そうして、人差し指で規則的に頬を突いた。

「どうしてなのかしらね」

 規則的に頬を突かれている事にやっと気が付いた少女は、赤色の女の赤茶色の眼を見た。女は、少女の定まらなかった焦点が自分に定まったのを確認すると、殊更優しく笑って、少女の頬を柔かく撫でた。

「どうしてなのか分からないわ。でもきっと私が死んでしまうのは悪い事をしたからだわ」

 女は整った形の唇で弧を描くと、そう言った。赤茶色の眼の中に寂し気な色を灯して、何処か遠くを懐かしむように見詰める。

「悪い事をしたの?」

 少女はことりと首を傾げる。傾げられた首に従って流れた少女の白髪が、人工的な光に照らされて上質な絹のように靡く。

「えぇ、悪い事をしたわ」

 眩し気に少女の白髪を見上げて、女は頷いた。

「どんな悪い事?」

 少女は無邪気に尋ねる。何も知らない少女は、何も覚えていない少女は、無邪気なままで女の罪を尋ねる。

「大切な人を置いて逝ってしまうの」

「大切な人?」

「そう。何度も何度も置いて逝ってしまうの」

 女は一瞬、泣きそうな顔をして、少女の頬を何度も何度も、優しく撫でた。少女の小さな身体を出来れば抱き締めてあげたかったが、今の女の身体ではそれは叶わない。女にはもう一人、精一杯抱きしめたい相手が居たがそちらも叶いそうに無い、と閉じたままの扉を見詰めた。

「会いに来て欲しいなんて、何時も残していく癖に酷い願いね」

 そうして小さな声で独り言ちる。

 少女は不思議そうな顔をして女を見た。

「知らなくても良いのよ」

 女は精一杯笑って、少女を撫でた。


 女は、暗くなる目の前に細めた。あぁ、寒いと心の中で呟く。

 恐らくその時が近づいてきていると経験で分った。日にちが多少ずれたとしても、どうしてだか時間だけは残酷な程に違えない。

「ねぇ、時計を持って来てくれる?」

「うん」

 少女はお気に入りの時計を持って来た。少女のお気に入りの真っ白な鳩時計は、少女に幸福が訪れる様にと願いを込めて、馴染みの職人に作って貰った一級品だ。

 時計の針が示す時間は案の定、女が思い描いていた通りの時間だった。

 時計の秒針は軽快な音を立てて、規則的に進んでいく。女の鼓動も秒針の音に合わせて刻んでいる。けれども、それも恐らくそうは持たない。ゆっくりと鼓動は秒針とずれて行く。

「ねぇ」

「なあに?」

「多分、私はもう直ぐ死んでしまうわ」

「もう直ぐってどのくらい?」

「三分かしら」

「どうしてわかるの?」

「どうしてかしら。でもそんな気がするの」

 女は、本当は理由をしっている。けれど不思議そうに眼を瞬かせる少女に、それを話す必要は無い。

 女は笑って、秒針を見詰める。後三分で零時だ。シンデレラの魔法が溶ける時間。最初から決まっていた女の最後の時間。

 何度も繰り返した最後の三分。何度繰り返しても変わらない最後の三分。

「ごめんなさいね」


 幾つもの機械や器具が立ち並ぶ無機質な空間の中に、生命活動を停止した事を知らせる機械音が響き渡る。次いで、小さな一室を映した共同のモニター内に様々なエラーが流れ始める。

 その場で見守っていた幾人もの老若男女は、それまで詰めていた息を大きく吐き出すと、一度脱力し直ぐに様々なデータ収集や回収作業に動き出した。

「実験終了。被検体No.99、ワインレッド。完全に活動を停止しました」

「天使の彫刻の回収を急げ」

「今回は何方も比較的安定していたんだがな」

「ワインレッドの活動時間ですが、前回より日にちは数日伸びましたが、身体が崩れ始めたのは比較的早い段階でした」

「活動停止時間は、今回もやはり正確に零時に終了しています」

「天使の彫刻の記憶は不安定なままですね」

「何処かでは覚えているようだが、一種の防衛反応なのかリセットしたままだ」

「天使の彫刻はやはり感情が制御不能となると力加減を誤るようです」

「それでも最初の頃よりはずっと良い。壊れた床のデータを各所に回せ」

「ワインレッドの身体の破片の回収を急ぎます」

「ワインレッドの培養液準備が整いました」

「天使の彫刻、ワインレッド、共に回収先の部屋の無菌室化が終了しました」

「細心の注意を持って回収を急ぎなさい」

「天使の彫刻の精神が不安定です。部屋に入眠剤を流していますが眠る気配が有りません」

「三十秒後に眠る様子が無ければ安定薬も一緒に流しなさい。」

「天使の彫刻の意識レベル低下し始めました」

「眠ったら新しい部屋に」

 幾つものやり取りが機械音の合間に飛び交う。忙しなく統計データを見る者、後処理に走り回る者、次に関しての討論を始める者、様々に白衣を着た者達は動き回る。

その空間の中、中央でモニターを見つめ続ける男は、少女が眠りに落ちた姿を確認すると、其処で大きく溜め息を付いた。大きな手でゆっくりと眉間を揉み、そのまま両手で顔を覆い隠した。

「今回も駄目だった」

 見た目に反して、しわがれた老父の様な掠れた声で男は呻いた。

 男は何度か強く琥珀色の眼を瞬かせると、机の上に置かれた写真立てを手に取った。

 写真立ての中で優しく此方に向かって微笑むのは、彼の最も大事だったものだ。真っ赤な装飾品で彩られた妻は情熱的に、生まれつき色素が抜けて生まれた娘は無垢に、写真の中で色褪せることなく笑っている。

「近くに居るのにこんなにも遠い」

 何度となく、開かれる事の無い扉の前で男が顔を覆って呟いた言葉だ。男は写真立ての縁を撫でると、自身の机の一番上の引き出しを開けた。中に入っているのはテープレコーダーだ。

 きっちり三分間のテープは、最期の瞬間に男の妻が残した声だ。もう何度となく聞いている其れのスイッチを入れて音を流す。

「今乗っている船ね、もう直ぐ沈んでしまうのだって。変な話よね。私達そんなに悪い事なんてして無かった筈なのに。船長さんだって、他の二人だって誰も悪くないのよ? 皆良い人なのに、神様って不条理ね」

 声は震えていた。遠くでは船長と乗り込んでいた二人の乗組員が、絶望的であると分っていながらそれでも必死に生き残る術を探している声が聞こえた。

 それは妻と娘が男の研究室に来る前の出来事だった。突然悪化した天候は、彼女達が乗った船をあっさり呑み込んだ。

「神様って意地悪だわ。この子まで、なんて酷いわ」

 船が軋む音が大きくなる。何処かで何かが折れる音が聞こえた。

「ごめんなさい。本当はこの子の声も聞かせたかったのだけど、もう直ぐ零時だから眠ってしまったわ」

 娘が果たして眠ったのか、妻が眠らせたのかは分らない。唯、怖い思いをしていなければ良いと男は願った。

「日付を跨いでから言いたかったのに」

 そう言って妻はメッセージを残して、其処で音声は途切れた。

 男はもう一つの音声を再生する。あの日、最後に妻が贈ってくれた音声ファイルは、暫くの生活音の後に、娘と妻が男の誕生日を祝う物だった。生きていた彼女達が最後に遺した三分間の男への祝福の言葉だった。


 男は強く眼を閉じて、そうして酷くゆっくりとした動作で目を開いた。そうしてモニターの中の其々、回収された「妻」と「娘」を見詰め、モニター越しに大切な物の輪郭をなぞった。

 妻は身体の維持が覚束ない。娘は余りにも不安定だ。

「早く元通りにするから。必ずまた三人で暮らせる様にするから」

 また、歌を歌ってくれ、と男は一人、心の中で呟いた。

 そうして、祈るのは「最後の三分間の続きを下さい」唯それだけ。

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