最後の晩餐
寄鍋一人
永遠の3分間
今まで俺は誰かの影響を受けながら生きてきた。親、先生、友だち、上司。出会った人たちに影響されて色々なことをしてきた。
あの人がやってるから俺もやってみよう。あいつが行くから俺も行こう。そういうスタンスで日々を生きていた。
それは逆を言えば、自分から何かを始めることはほとんどなかった、ということでもある。
影響されて俺の人生は一瞬カラフルになる。だがそれらは結果として長続きせずに時間とともに消えていき、人生はまた真っ白な状態に戻る。
自分の意思もなく成り行きで大学を受験し、同じテンションで社会人になり、特にやりたいこともないまま大人になった。
会社では当然、別に楽しくもない仕事を言われる通りにこなす毎日が続いた。
そんな毎日にようやく退屈した俺は、そこで初めて自発的に行動を起こす。
会社を辞めたのだ。
十年近くただひたすら上司に従順で嫌な顔一つせずに作業する俺の姿は、真面目で優秀な社員として映っていたらしい。
特に上層部からはそれなりの評価をされ、何度か昇進を噂されたこともあった。
その分、むしろ俺が驚くほどに周りは驚いていた。
「えっと……、辞めるのか……?」
「はい。この会社を辞めたいです」
「お前、ちょっと急すぎないか……」
辞表を出しに行ったときの部長と、部長の声を聞いて集まってきた同じ部署の人たちは、それはもう口を閉じることができないほどに驚愕していた。
何かをしたかったからというわけでもなく会社を辞めた俺は、案の定サラリーマンからニートへと変貌を遂げる。
趣味も何もなく仕事だけしてきた俺の貯金は、このまま何もしなければ五年は最低限の生活ができるくらいには貯まっていた。
しかし寝て起きて空腹を満たすことの繰り返し。会社を辞めようと思ったあのときは間違って別の色を垂らしてしまっただけで、結局俺の人生は真っ白だ。
そんな色づいては消されるキャンバスは、突然白から黒に変わった。
今まで物語の中でしか見たことのなかったことがまさか現実に起こるとは、全世界の誰一人として考えなかっただろう。
それは今から一年前にさかのぼる。
ニートになってから一年が経とうとしていたころ、俺は何を思ったのか、ふと家を出て散歩し始めた。
近所の家電量販店に立ち寄ってぶらぶらと店内を歩き回っていると、テレビコーナーに人だかりができているのが目に留まった。
行くと人の数は予想よりも多いことに気づき、そこにいた人々は流れていたニュースを血眼になって見ている。
「どうしたんですか?」
「あ、ああ、いや、薬品が漏れ出したそうですよ」
「薬品、ですか」
それだけではよく分からなかった俺は、人混みの中へと分け入って最新テレビの高画質高精細なニュースに目を向ける。
『——の研究所で研究・開発が進められていたとされる薬品が、周囲の街に漏れ出したとの情報が——』
ニュースキャスターが忙しなく話していた。話している間にも何枚か新しい紙が渡され、緊迫した状況だということだけは分かった。
キャスターはなおも続ける。
『現地メディアによるとこの薬品は霧状のもので、詳しい成分などはまだ分かっていないということです。逮捕された犯人らに対し早急に取り調べを行うとともに、薬品の解析をしていくほか、近隣住民には一時避難を呼びかけています』
その報道の翌日、家で寝転がりながら同じニュースを見ていた俺は飛び起きる。
テレビはドローンが撮った映像を流している。海外のどこかの街と、そこに横たわる何人もの人々が映っていた。
昨日と同じニュースキャスターがまたも緊迫した様子で報じる。
『昨日漏れ出したとされる霧状の薬品は、感染すると一週間ほどで全身に回り、高い確率で死に至るということが、犯人らの供述で明らかになりました』
死に至る。ただ事ではないのは、俺でも理解できた。
『調べに対し犯人らは、この世界をリセットしたかった、などと供述し、容疑を認めており、ヨーロッパ諸国の政府はこれをテロと位置付けて対策をしていくということです』
ヨーロッパで起きたバイオテロ。
いずれ日本にも影響が出ると考えた俺は、珍しく自発的に外に飛び出して、非常食や水などを今までの貯金の半分以上を使って買い込んだ。
そのあとは道具や材料を買い、家の中にいればある程度感染の可能性が下がるように、自分の家を補強していった。
念のためネットで防護服とガスマスクも買い、老後まではいかなくとも寿命を少しだけ延ばす準備を進めた。
俺の予想は見事に的中した。
ヨーロッパでの一人目の死者を皮切りに、約半月をかけてウイルスはヨーロッパから周辺諸国に拡散し、ユーラシア大陸やアフリカ大陸、アメリカ大陸でも死者が出始める。
そこから数日後。
『ついに日本でも死者が確認されました。政府は緊急対策本部を設置しており、すでに今後の方針について協議しているということで、国民には不用意な外出は禁止することを呼びかけています』
他の国でも同様の処置が取られているものの、いまだにウイルスに対する抗体を作れてはいなかった。
治療や消毒を施すことができないまま人類は次々に数を減らし、今回の件を報道し続けてきたキャスターも感染したのか、いつの間にか違う人に変わっていた。
その後報道陣の身を案じてニュースは取りやめとなり、ついに人類はそれぞれが孤独と死に怯えるようになった。
それから一年の間、家族やかつての友人、同僚から感染したという知らせが徐々に入り、いよいよ俺は一人となった。
そして現在、食料が底を尽きそうになった俺は生きることを諦めかけ、最後の死への抵抗として防護服とガスマスクに身を包み近所の店を転々としていた。
人や動物がいなくなった街は荒れ果て閑散としている。光の漏れる家もあるが、そこに生き物がいる気配はまったくない。
「一人か」
孤独に嘆いた俺の声はいない誰かに届かせる勢いもなく、ただガスマスクの中だけで完結した。
コンビニで食料を手に取り、かごに入れていく。
電気は止まっているため、当然非常食になりそうなお菓子やパンだけしか食べることはできない。それも賞味期限が切れていないごくわずかなもの。最近は野菜らしい野菜を食べておらず、食べたとしてもせいぜいパンに乗っていた具だけ。
昔から真面目だけが取り柄だった俺は、受け取る人もいないのにカウンターに小銭を置いていき、店を出た。
外に出るともう日は沈みかけている。
例のウイルスは感染しても、映画のように人がゾンビになって襲ってくるような症状は出ない。ただ死ぬだけ。だから夜でも平気と言えば平気だが、孤独ゆえに夜は怖い。
ビニール袋をうるさく鳴らしながら駆け足で家へと戻り、そしてミスを犯したことに気づいた。
「玄関開けたから家の中もアウトか……」
密閉して多少安全だった家は、自分で外に出たことで危険なものへと変わり、結局本当に最後の抵抗になってしまった。
腹がぐーっと生を叫び、俺は仕方なくガスマスクを外した。
ウイルスに身をさらして死ぬ覚悟をし、生きるために食べるとは、なんとも皮肉なものである。
マッチで火をつけてろうそくに明かりを灯し、薄暗い闇の中でパンを頬張る。
ここ最近は乾パンばかりだったせいか、久しぶりの柔らかいパンは、それはもう最高に美味かった。
こんな世界になる前は何も考えずに食べていた食料たちが、今は何よりも温かい心の支えになっている。こいつらはこんなにも美味しかったのかと、感動するばかりだ。
しかしその感動も、あと一週間で終わりを告げる。
このウイルスの症状は、まずインフルエンザに似たものから始まる。
その一、二日後に症状はさらに悪化し、インフルエンザ特有の関節痛と高熱がより強烈なものになる。
三、四日後には嘔吐と幻覚を併発するほか、五感が一つずつ機能を失っていく。
五日から六日にかけて全身麻痺の植物人間となり、七日目には自分の意識と意志がゆっくりとフェードアウトしていく。
ウイルスに感染し犠牲になった人々はみな例外なく、この魂が抜かれるようなサイクルでこの世を去っている。
それは俺も同様で、四日目には最初に聴覚を奪われ、音は完全に遮断された。続けて片目が光を失い、さらに触れたことが分からなくなる。
死を悟ってからの俺の行動は決まっていた。
マッチで火を起こして湯を沸かし、その間に大好きで残していたカップ麺のふたを開ける。
文字通り不幸中の幸いだったのは、味覚と嗅覚をまだ失っていなかったこと。このカップ麺をちゃんと味わうことができる。
湧いたお湯を注ぎ、完成までの三分間をじっと待った。
いつ感覚を失ってもおかしくない。いつ麻痺で動けなくなってもおかしくない。その状態の中の一八〇秒は、永遠にも近かった。
残り二分。カップ麺の食欲をそそる香りが消え、せめて舌だけは生き残ってくれと死ぬ間際の俺は祈る。
残り一分。もう片方の視界も闇に飲まれ始め、俺は箸とふたの端を持って食べる準備をしておく。
そして三分が経過した。
待ちに待った、とても贅沢とは言い難い最後の晩餐。ふたを剥がし、もう口にすることはできないであろう「いただきます」に命を懸けて、麺をすすった。
その味と言ったら——。
——無だった。
手から箸とカップが滑り落ちる。感覚を失った今、実際には落ちたかどうかも曖昧で、こぼれた汁の熱さは一切感じない。
もう何も分からなくなった。食べている? 座っている? 倒れている?
——生きている?
周りから見たらまだ生きているかもしれない。だが、俺にとってはもはや死。
魂を抜かれ、あとは内臓が活動を停止するのを待つだけ。
ヨーロッパで起きたバイオテロ。ウイルス感染者は決まって一週間で死に至る。
真っ白だった俺の人生。色づいては消えていく俺の人生。
どす黒く染められた俺のキャンバスは、純白になって終わりを告げた。
最後の晩餐 寄鍋一人 @nabeu
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