試合中の覚醒はスポーツ漫画ではお約束です。

てこ/ひかり

だからルール違反ではありません。

 相手投手ピッチャーがホームベースに向かって、渾身の一球を投げ込んで来た。


(打てる……!)

 その瞬間、打席に立っていた唐沢はそう確信した。糸を引くように真っ直ぐストライクゾーンに伸びて来た直球目がめて、唐沢はバットを振り下ろした。その時唐沢は、世にも不思議な体験をした。



 


 2020年。泣いても笑っても、最後の夏。唐沢には、痛いほど分かっていた。

 9回裏、ツーアウト満塁。

 ホームランが出れば一打逆転である。

 さっきのフォークボールが外れて、これでツーボール・ワンストライク。

 相手投手はボール球が先行して、どうしてもストライクが欲しい場面……当然次に投げるコースは若干甘めになり、打ちごろの球が来やすい。いわゆる『バッティング・カウント』だ。次がになることが、打席の唐沢には痛いほど分かっていた。



(打てる……!)

 バットを切るように振り下ろしながら、唐沢はその時不思議な体験をした。


 周りの景色が徐々に見えなくなり……視界がだんだんと黒く染まっていった。

 しばらくすると、球場は完全に真っ暗になった。見えるのは、スローモーションで向かって来るボールと、それを今にも捉えようとするバットの先端だけ。

(まさかこれが……ということなのか……!?)

 唐沢は目を見開いた。一流の打者バッターにだけ感じられる、超感覚ゾーン。彼らは集中するとボールが止まって見えたり、つまり人とは違う独自の感覚で球を捉えているのだと言う。唐沢は最近読んだ野球漫画を思い出し、それが今自分の身に起こったことに驚いた。


(これが……!)

 一直線に向かって来たボールはだんだんとスピードを緩め、バットに当たる直前で完全に静止した。すると、突然投手の背中にある巨大な電光掲示板オーロラヴィジョンが輝きを放った。

「何だ……!?」

 唐沢はバットを構えたまま、呆然と映像ヴィジョンを見上げた。そこに映し出されたのは、優しげな目を浮かべた相手投手ピッチャーの顔と、ベッドに寝ている一人の少女の姿だった。


『お兄ちゃん……絶対優勝して来てね』

『ああ、千歳。約束するよ。だからお兄ちゃんが勝ったら、勇気を出して手術するんだぞ』

『うん……分かった』

 映像ヴィジョンの中で、やせ細った少女がにっこりと頷いた。

(ち……違う! これは超感覚ゾーンじゃないッ!!)

 唐沢は戦慄した。

 彼が今見ているのは打席を極めたが故の感覚ゾーンではなく……敵投手ピッチャーの回想シーンだった。


『……高田! ついに完成したな。魔球”ジャイロカーブ”』

『ああ。ありがとな、島根。これで全国で戦える……』

『千歳ちゃんも、勇気付けられるな』

『……そうだな』

 画面の中で、相手投手ピッチャー捕手キャッチャーが泥だらけの顔で笑い合った。


(こ……こんなッ!?)

 映像ヴィジョンはやがて相手高校の秘密特訓に切り替わり、やがて部員たちの衝突や監督の病気を乗り越え、部員たちが優勝に向けて決意を固めるシーンへと替わっていった。唐沢は真芯でジャストミートしたバットを構えたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。


 ……打ち辛い。

 非常に打ち辛かった。


 一体どんな原理かは知らないが、今唐沢は打席で相手の回想シーンを見せられている。

(こんな……! 妹の手術をかけた勝負だなんて……ッ!? ここで打ったら、まるで俺が悪者みたいじゃないかッ!?) 

 唐沢のバットを握る手に汗が滲んだ。確かにスポーツものの漫画やドラマでは試合中の回想シーンはお約束だが、それを試合相手に見せつけるなんて、あまりにもルール違反ではないだろうか。


 唐沢の今までの野球人生で、これほどの絶好球で、そしてこれほど打ち辛い球もなかった。


 今唐沢がバットを振り抜いてしまえば、巨大映像オーロラヴィジョンで光り輝く千歳ちゃんの笑顔は、悲しみの涙へと変わってしまうだろう。最初から知らなければ、これほど悩み苦しむこともなかったのに。


『お兄ちゃん。手術が終わったら、お好み焼きたんまりご馳走してね』

『ああ。任せとけ』

『ほんと!? 約束だよ!』

(う、うおおおおおおッ!?)


 仲睦まじい兄妹の映像を見上げたまま、唐沢は心の中で叫んでいた。

(だけど、だけど俺だって……今日この時を目指してやって来たんだッ!!)

 唐沢はバットを握りしめる手に力を込めた。

 この一球で、決着をつける。

 そう決心した途端、再び唐沢に不思議なことが起こった。


 真っ黒だった景色がだんだんと白みを帯び始め、やがて球場が真っ白に染まって行った。唖然とする唐沢の前で、今度は電光掲示板オーロラヴィジョンに唐沢自身の過去が映し出された。

(これは……俺の回想!?)

 唐沢は真っ白な世界で映像を食い入るように見つめた。


 自分の背より長いバットを抱きかかえている、幼い頃の自分。雨の日も風の日も、歯を食いしばって素振りを繰り返して来た小学校時代の自分。卒業文集には、『将来の夢はプロ野球選手』と書かれている。中学にはほんの少しスケールダウンして、『甲子園出場』になった。そして現在。夢を叶え、憧れの舞台に立っている自分。


(そうだ……! たとえ病気を抱えた妹がいなくたって……俺にだって、俺の過去があるんだッ!!)


 不意に涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、唐沢は改めてバットを強く握りしめた。そろそろ唐沢も限界だった。時間にしたらほんの数コンマ零秒に満たないかもしれない。だけど同じ格好でずっと構えていたせいで、手がプルプルと震え出していた。お互いの回想シーンがあまりにも長く、不本意ながら尿意も催していた。


 この一球で勝負を決めなければ。

 唐沢がそう決意した、その時だった。


 再び真っ白な世界が黒く染まり始め、今度は掲示板ヴィジョンに相手捕手の回想シーンが流れ始めた。

(バカな……!?)

 映像の横に並んだ、出場選手18名の名前を驚愕の表情で見つめ、唐沢はとうとうそこで気を失った……。

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