ルールの価値

しろもじ

第1話「ルールの価値」

「……が、欲しい……か?」


 まるで心を見透かされているかのような声。ゴクリとツバを飲み込んで、短く肯定する。彼はそれに嬉しそうな笑い声で答え、要求は快諾される。私はホッと胸を撫で下ろした。が、彼はそれすらも見透かしたかのように言葉を続ける。


「決められたルールを忘れるな……」



 *



 私と夫との間には、結婚したときに決めたひとつのルールがある。


「隠しごとはしないこと」


 一見、当たり前にも思えるルール。それでも私はこれを夫に提案し、彼もそれを受け入れてくれた。


 長い間このルールは守られてきた。でも結婚十五年目を迎えた今年。夫の様子がなんだかおかしい。


「舞弓、ちょっと出かけてくる」


 フリーの雑誌ライターをしている夫の幸太は、一般のサラリーマンに比べれば家にいることが多い方だ。それでも取材などで出かけることはあり、その場合一日単位で外出することもある。


 だけど、こんなふうにフラッと出かけて数時間で帰ってくるということが、ここ数週間に何回かある。始めのうちはたいして気にもしていなかったけど、そう何回も同じことが繰り返されると流石におかしいと思い始める。


 先日何気なく「ねぇ、最近ちょこちょこ出かけているけど、どこに行ってるの?」と訊いてみた。そのときはまだそれほど疑念を抱いていたわけではなかったのだけれど、夫が「え、あ、あぁ……ちょっと……そう、散歩にね。最近、運動不足だから」と動揺を隠しきれない様子で答える様子を見て、私は確信した。


 夫は何かを隠している。


 妻の私が言うのもおかしいけれど、夫は嘘をつけない。実直が服を着ているような性格で、私たちが付き合い始めたころ――ちょうど、今の娘の年齢のころ――からその性格は変わっていない。


 彼は何でも素直に話したし、私に嘘をつくことも一切なかった。でも彼には「悩みごとを一人で抱え込む」という性格もある。


 それが彼の「私に心配させたくない」という優しさを現しているとも言えるんだけど、私は結婚を前にして彼のその部分だけが、将来私たちの間に溝を作ることになるんじゃないかと心配した。


 だからそのルールを敢えて提案したわけで、何度かそれを盾に彼に詰め寄ったこともあった。今までの彼はそれで素直に打ち明けてくれた。でも、今回はそうはいかなかった。


「何か隠してることがあるんじゃないの?」


 そう訊いてみたが、しばらく黙ったまま「別に……ないよ」と答える。


 分かりやすい。


 でも、夫にそう言われると私もそれ以上は追求しにくくなる。友達に相談したときに「ガンガン問い詰めればいいじゃない」と言われたけど、私にはそれができない。それは何が理由があるというわけじゃなく、ただ単に私の性格上の問題だけだ。


 私は誰に対しても、強い口調で詰め寄ったり、何かを強要することが苦手だ。だから、このルールは彼のためであると同時に、私のためのものでもある。


「ただいまー」


 夫が出かけてしまったその日の昼下がり。娘の結月が帰ってきた。今日は期末試験の最終日だっけ。


「おかえり。ごめんね、まだお昼ご飯作ってないの。急いで作るから」

「あ、いいよいいよ。お腹空いてないし」


 結月はさっさと階段を登って行ってしまう。おかしいと言えば、結月の様子もなんだかおかしい。中学に入ったころから反抗期、と言うほどでもないけど、主に夫に対しての嫌悪感を募らせてて「お父さんの後のお風呂はヤダ」とか「洗濯ものは別々にして」とか言い始めた。


 まぁ、その気持はちょっと分かるんだけど、年々露骨になっていく言動と、それに夫が傷ついている様子を見ていた私は「どうにかならないものか」と心配していた。


 ところが、この夏くらいから二人の関係が変わってきているのが分かった。以前は食事のときでも目も合わせなかったくせに、今では一緒になってテレビを見て笑っていたりする。夫と娘の関係が良くなったことは悪いことじゃない。でも、正直なところ何がきっかけでそうなったのかが私には理解できない。


 強いて言えば、8月の結月の誕生日に夫がフクロウのぬいぐるみを送ったこと……なのだろうか? 腰の高さほどもある大きなフクロウのぬいぐるみを抱えて帰ってきた夫に「高校生にもなって、ぬいぐるみなんて」と、私は苦言を呈した。


「だって、女の子はぬいぐるみ大好きだろ?」


 そう反論していたが、それにしてもフクロウって……。


 ところが、結月は私の予想に反して、それをとても大切にしている。昼は床に座らせて、夜にはベッドで添い寝していた。最近の女の子の気持ちは分からないものね。私も歳を取ったのかな……?


 簡単に昼食を済ませ、ワイドショーを眺めながらぼんやりと考えていると、トントンと階段を降りてくる音がする。


「お母さん、ちょっと出かけてくるね」

「どこ行くの?」

「んー、ちょっと本屋さん」


 「遅くならないようにね」私の言葉に答えず、結月はとっとと玄関から出ていってしまう。


 一人取り残された家。もちろん、普通の主婦にとっては当たり前とも言える状態なんだろうけど、なんだか少し寂しさを感じていた。それを紛らわせるように、いつも通り掃除をすませ、洗濯物を取り入れる。いつもは夕方には一息ついて、のんびりお茶を飲んだりするのだけど、今日はそんな気にもなれず一心不乱に家事をこなす。


 気がつくと、窓の外はうっすらと暗くなり始めていた。夕食の準備をしながら「いつまで出かけてるのよ」と夫への不満を募らせた。脳裏にずっと封印していた言葉がふっとよぎる。


「あんた、そりゃ不倫じゃないの?」


 友人が茶化して言った一言が何度もリピートする。夫に限って……ずっとそう思ってきたが、流石にこう何度も繰り返し家を空けることがあると「もしかして」という気持ちが膨らんでくる。


 料理の手を止め、窓から沈んでいく夕日を眺めた。あのときも、こんな時間帯だったかなぁ……。


『だから……付き合って下さい!』


 しどろもどろにになりながらも、必死で私への思いを語ってくれたひとつ歳上の先輩。彼のことは家が近かったこともあり、少し気になっていた。でも、私から話しかけたりはできなかった。今とは違って、当時は「女の子から告白する」のは、それほど当たり前ではなかったからだ。


 だから、彼が言ってくれた一言は本当に嬉しかった。


 まぁでも、あれからもう二十年も経つんだもんなぁ……。愛だの恋だの言う歳ではなくなったのかもしれない。夫との関係は、最近の出来事を除けば、概ね上手くいっている。喧嘩もしないし、彼に何か不満があるわけじゃない。


 娘が生まれ、彼女が順調に育ってくれていることが幸せなのだ、とずっと思ってきた。日々の生活が何の問題もなく過ぎていることが幸せなんだと信じてきた。


 でも、ちょっとだけ悲しくなることもある。


 高校時代の甘酸っぱい恋の話。夫、幸太と二人で過ごしてきた日々を思い出すと、少しだけ感傷的になったりもする。


 いい歳したおばさんが、何を言ってるんだか。


 あらかた料理を済ませたころ。玄関のドアがガチャっと開く音がする。続いて「ただいま」という夫の声。やっと帰ってきた。


 もう一度だけ訊いてみよう。


 私はそう決意する。夫が何か隠しごとをしているのなら、やっぱりちゃんと聞かないといけない。「親子は血が繋がっているけど、夫婦は所詮他人同士」という言葉がある。他人だからこそ、はっきりさせておかなくちゃいけないこともある。他人だからこそ、言葉できちんと語り合わなくちゃいけないこともある。


「話があるんだけど」


 そのセリフを何度か頭の中で繰り返す。廊下を歩く音が聞こえる。立ち止まり、リビングのドアノブの回る音。すぅっと静かにそのドアが開く。「話が……」


 詰め寄ろうとする私の顔の前に、大きな花束が突き出される。その脇から、チラッと夫が顔を覗かせ「これ……」と差し出してきた。花? 何で? 誕生日……は違うし、結婚記念日でもない。


 意味が分からないまま花束を受け取る。あっけにとられている私に、夫は「ええっと、だから、あの……」と言葉を濁している。夫が立っている背後、ドアの枠からにょきっと手が出てきて、彼の腕をつつきながら「ほら、お父さん。早く」と声が聞こえてきた。結月の声だ。


「あ、うん。ええと……二十年間……ありがとう」


 訳が分からず立ち尽くしている私に、夫が耳まで赤くしながら言う。二十年……?


「あー、もう! お父さん、練習したのに全然ダメ」


 結月が不満そうな顔で、夫の脇から出てくる。


「今日ね。お父さんがお母さんに告った日なんだよ」


 え……。


「お母さん、覚えてないの?」


 唖然としている私に結月が問いかける。結婚記念日、お互いの誕生日などはもちろん覚えている。でもあの日、彼が私に『付き合って下さい』と言ってくれた日。その日って今日なんだ……?


「なーんだ。お母さん、覚えてないじゃない」

「おかしいなぁ。お父さんはしっかり覚えてたんだけどな」


 結月が話してくれたことには、ここ数週間夫と娘はこの日のために準備を進めてきたらしい。付き合いだした記念日に花束を、そして一週間の旅行。どうやら、私との馴れ初めを娘に話し、それに感動した彼女がこれを計画したらしい。


「旅行は来週から一週間。楽しんできてね」


 結月が嬉しそうに言う。私は夫と娘に感謝した。結果として夫はルールを破ったわけだけど、まぁ今回だけは多目に見てあげよう。


 でも、一週間の休暇って、お仕事は大丈夫なの?



*



「休暇が欲しいか?」


 受話器越しに編集長のダミ声が響く。フリーのライターと言っても、実際には出版社との専属契約をしているわけで、自由に休みが取れるわけじゃない。長期間の休みを取るときには、こうやって事前のお伺いが必要なことも多い。


「そうか、付き合いだして二十年記念ね。お前も、奥さん思いだなぁ」


 編集長は豪快に笑いながら、私の申し出を快諾してくれた。


「だがな、行く前にちゃんと原稿はあげてけよ。そのルールは忘れるな」

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