わたしと母の完璧なルール

うめ屋

*



 母はルールをつくりだすのが好きなひとだった。

 わたしの家には、法律でも校則でもない、母がとりきめた独自のルールがたくさんあった。

 たとえば、髪を肩よりも伸ばしてはいけない。

 スカートの丈は、膝より五センチメートル以上長くても短くてもいけない。

 服は母が買ってきたものを着ること。

 下着は白でそろえること。

 お稽古ごとをなまけないこと。

 おやつもご飯も、母がこしらえたもの以外は決して口にしないこと。

 そして、わたしが学校へ通いはじめると、母のルールはわたしの交友関係や行動にまで広がった。

 クラスメイトと遊びに行ってはいけない。怪我や事故のもとだから。

 みだりに男の子としゃべってはいけない。男の子は汚らわしい。

 学校帰りに寄り道をしてはいけない。そんな子どもは不良になる。

 買い食いをしてはいけない。健康にわるいから。

 いけない、いけない、いけない、と言われつづけ、同時にいつも、清くただしいむすめであることを求められる。

 わたしはテストで満点を取らなければならなかったし、お稽古のピアノも水泳もお花も英語も、誰よりもうまくできねばならなかった。学校では学級の委員長をつとめ、ボランティア活動や奉仕活動もいっしょうけんめいに参加した。

 なぜならば、それが我が家のルールだったから。わたしは母のルールに生まれたときから馴染んでいたし、父は仕事しか見ていなかった。家のことはすべて母にまかせており、また家のことから逃げたいようにも見えた。

 もしもわたしが口ごたえや怠慢をすれば、母は泣きわめいて怒り狂った。

 どうしてちゃんとできないの。お母さんの言うとおりにならないの。

 あなたがきちんとできないのなら、お母さんは今にも死んでやりますからね。

 そう叫んでほんとうに包丁を振り回すので、わたしは母に歯向かうことをやめた。そうして、わたしはわたしのルールをつくることに決めた。


 わたしは母に逆らわない。

 わたしはこれから、このうえなく完璧に母のルールを歩いてみせる。


 *


 ここで、すこし母の話をしよう。

 母は強いひとだった。母の母、つまりわたしの祖母も厳しいひとであったようで、母は高校を出ると同時に実家も出た。

 そして大手老舗百貨店の販売員として勤めはじめ、そこで初恋のひとと出会った。彼は御津みつはらという実業家のおうちの跡とりで、客として母のいる百貨店にやってきたのだ。

 彼にはすでに妻とふたりの息子がいたが、若くして自活する母のけなげさに惹かれたのだろう。やがてねんごろな仲となり、母はわたしを身ごもった。

 ところが母の妊娠がわかったとたん、彼はわたしの母を捨てた。たっぷりのお金とよい病院を紹介して、彼ひとりの中で母との関係をもみ消した。

 だが、母はわたしをあきらめなかった。独りででも産んでやるのだと歯を食いしばって立ちつづけた。

 その母を、いまのわたしの父が見初めた。父はもともと、母と同じ百貨店に勤める同僚だったのだという。父は母の窮状を見かね、また父自身の持つ欠陥を補うために、母に手を差し伸べた。

 すなわち、わたしの父は子を成せない体だったのだ。それでも妻子という存在が欲しかった父は、取引のように母と婚姻を結んだ。社会的な体面をたもつための結婚だったのだろうと、長じたわたしは考えている。

 そのうちに、母は祖母の因果がめぐったのか。

 それとも、初恋のひとに捨てられた傷があまりにも深かったのか。

 あなたのためなら死んでやるとむすめを脅す母となって、自分のすべてをわたしへ注ぎ込むようになった。


 *


 そのように育てられたわたしも、いまや二十五。

 わたしは都内の難関私立女子大を卒業したあと、丸の内にある大手総合商社の総合職として勤めはじめた。

 このように社会人となれたのも、母のルールと教育があったからこそだ。わたしは母があたえてくれた衣食住や環境には、深くおおいに感謝している。

 そして気の早い母は、わたしが就職したとたん、結婚の話を持ち出すようになった。母お得意の独自ルールだ。

 お相手は年収いくら以上でなければならない。

 最低でもK大卒以上の学歴があり、長男は不可。

 職種はこれとこれは駄目で、ご両親の経歴もこれこれ以上はなければならない。

 いけない、いけない、あるいはこうでなければならない。条件も駄目出しも天井がなく、容赦なく厳しい。とてつもなくたいへんなルールだったが、わたしは母に逆らわない。厳密な門限や交際制限のすき間を縫って、わたしはついに、わたしの大切なひとを見つけた。

 今夜は、そのひとと母とわたしの食事会がある。わたしが母に、わたしの大切なひとを紹介するのだ。

 母ごのみのお店を手配し、母ごのみのコースを頼み、わたしは母ごのみのシンプルなワンピースを身にまとう。髪は肩のあたりでそろえ、靴のヒールは五センチメートル以下。お化粧はうっすらと、母愛用のブランドでそろえたものを。

 そうしてお手洗いで紅を引き、わたしはこれから予約したお店に向かう。鏡に映ったわたしはほんのりと、幸福そうな空気をあふれさせていた。

 そう。

 だってわたしは、とびきりしあわせなものを授かったのだから。

 そうっとお腹に手をあてて、わたしはひとり微笑む。ここにはわたしと、わたしの大切なひとのかわいらしい赤ちゃんが宿っている。なによりもいとおしい、わたしの恋人の赤ちゃんが。

 彼の名前は、という。

 K大卒のエリートで、実業家たる御津原家の次男で、なにも知らないわたしの異母兄。けれども母の言い聞かせてきたルールをすべてクリアしている、優秀な男のひとだ。誰よりもわたしに甘い、やさしくかわいいわたしの恋人。

 わたしはふふっと小さく笑い、外に出た。きらびやかな街の夜景がわたしを出迎え、励ますようにきらきらと輝いている。わたしは無言の声援を背中に受けて、かろやかに雑踏へまぎれこんだ。

 お母さん。

 わたしもうすぐ、あたらしいお母さんになるよ。

 あなたが愛して憎んだ初恋のひとの息子さんと結ばれて、しあわせなお母さんになるんだよ。



 わたしは母に逆らわない。

 このうえなく完璧に母のルールを歩いてみせて、完璧な復讐を果たしてみせる。


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わたしと母の完璧なルール うめ屋 @takeharu811

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