ルールじいさん
凪野海里
ルールじいさん
「こぉらあ! 赤信号は止まらんかあっ!」
「やばっ!」
反対側の歩道の生け垣の向こうでハサミをぶんぶん振り回し、鬼のような形相で怒鳴るじいさんに、私は慌てて、自転車をUターンさせて道を引き返した。
ところがそれで終わりかと思いきや、じいさんはハサミを持ったまま家から飛び出してきたではないか。
「待たんかぁ!」
「ひぃ」
私は自転車をこれでもかと精一杯漕いだ。後ろを振り返らず、ただ前だけを見て。こんなところでじいさんに殺されるのだけはごめんだ。
角を曲がったところでようやく振り返ると、じいさんの姿はすでになかった。いや、そもそも信号は赤だったから追いかけられる心配もなかったんだけど。
「あっぶな~。殺されるかと思った」
あんなの、銃刀法違反だって!
私は額の汗をぬぐって少し体を落ち着けた。
「にしてもしくった~。まさかルールじいさんの家の前でやらかすとは……」
ルールじいさんは、近所で有名な老人のニックネームみたいなものだ。本名は知らない。だって興味ないもの。町のルールを守らない奴は、誰であろうと叱り飛ばす。歩きスマホをしていたり、さっき私がしたみたいに信号無視をやらかす人を大声で叱るのだ。だから「ルールじいさん」なんて、私たちのあいだでは呼ばれている。
見た目80くらいはいってそうなじいさんだけど、腰は曲がってないし、ボケてないし、一人暮らしだけどちゃんとしてる。頭はすっかり年相応にハゲあがってるけど。
「あんのじじい。信号ちょっと無視したくらいですぐ怒鳴るんだから」
それに信号は赤だったけど、車はいっさい通ってなかった。なら別に止まる必要なくない?
「ってやばやば! バイト遅れちゃうっ!」
スマホで時計を確認すると、もうすぐバイトの時間だった。
私はじいさんの家の近くを通らないように、あえて遠回りでバイトに向かった。
***
なんとかバイトには遅れずに済んだ。
私は更衣室で着替えをしながら、隣で同じく着替えをしている先輩に、ここまで来るのにどれだけ大変だったかを話した。
先輩は私に同情の目を向けた。
「あー、運が悪かったねぇ。まさかルールじいさんにつかまっちゃうとか」
「ほんと最悪ですよ。まあたしかに信号無視したのはこっちのせいですけど、何も怒鳴ることなくないですか? 優しく言ってくれたらこっちだってちょっとは申し訳ないなぁっていう気持ちになるのに」
「たしかにねぇ~。私もこの前、歩きながらスマホいじってただけで、『止まってやれ!』って怒鳴られたもん。ほんと、いい加減くたばれって感じ~」
「ほんとそれですよ」
私は先輩と一緒にゲラゲラ笑いあった。
***
ある日のことだった。
ママがバイト帰りの私に回覧板を差し出してきた。
「これ、野村さんのところに届けといて」
「誰、野村さんって」
そんな人、近所にいたっけ?
首をかしげる私に、ママはあきれた目を向けた。
「やぁね。野村さんって、あんたたちがいつも言ってる、ルールじいさんのことよ」
「そうなの? てか、やだ! ママが行ってよ」
「私今、揚げ物してるから忙しいのよ。どうせ道真っ直ぐ行って信号渡ったらすぐなんだからいいでしょ?」
「えー」
ところがママは私の胸に無理やり回覧板を押し付けると、「お願いね」と言ってさっさと奥に引っ込んでしまった。
ああもう、めんどくさいったら!
これが他の家だったら別にいいのに、なんでわざわざルールじいさんの家に行かなくちゃいけないのよ。
私はママを恨みながら、もう一度家を出た。
外はもうすっかり日が暮れていて、月もでていた。街灯も点き始めているから安全だけど、やっぱり夜の外は怖い。
相変わらず車の通りの少ない道路を、赤信号にも関わらず私は渡った。ルールじいさんもさすがにこんなに暗くなったら外にはいないだろうと思って。
横断歩道を渡りきると、ルールじいさんの玄関前にあるドアフォンを押した。
ビー、という耳障りな音が鳴る。
けれど中で反応はなかった。
もう一度鳴らすけど、やはり反応がない。もしかして寝てるのかな? 老人は夜寝るの早いって言うし。
仕方ない。帰るか。
えーっと回覧板は次の人が不在だった場合は、その次の人に回すのが決まりなんだっけ。次は……飯田さんだな。この家のすぐ隣だ。
私は隣の家に向かおうとして、おかしなことに気がついた。生け垣の向こうにわずかに光が見える。
なんだ、いるんじゃん。それとも昼寝でもしてたのかな。
私はほっとして、声を張り上げた。
「ルールじいさ……じゃなかった。野村さーん! 回覧板届けに来ましたあ! おーい、野村さんってばぁ!」
返事がない。
さては耳が遠いのかな。だとしたらドアフォンの音に反応しなかったのもうなずける。
悪いとは思ったけど、回覧板回さなきゃだし、私は家の敷地に足を踏み入れた。
えーっと、玄関から入るべきかな。いや鍵かかってるか。ならさっき光がもれてた窓のほうへ行こう。
光がもれていたのは、縁側に面した窓だった。
「野村さ」
ん、と言いそうになって言葉がつかえてしまった。
だってそこには、畳の上にうつぶせになって倒れているじいさんがいたんだから!
「ギャ――――――ッ!」
って、叫んでる場合じゃない。
私はすぐにポケットからスマホを取り出した。
警察――じゃなくて、救急車だ! えっと、救急車何番だっけ? 110番? いやそれは警察だよ。117? それは時報だって! てか私なんで時報は覚えてるのに救急車は覚えてないのよ!
慌てふためいていると、隣の家の塀の向こうから人の顔が見えた。
突然のことで外も暗いから、私は幽霊かと思って、「ヒッ」と声をあげて腰をぬかしてしまった。
よく見るとそのおばさんは、飯田さんだった。
「どうしたの?」
「あ、あ、た、大変なんです! 野村さんが倒れててっ!」
「まあ大変っ!」
飯田さんはすぐに家のなかに引き返した。
まもなく、救急車がサイレンが街中に響き渡った。
***
倒れたルールじいさんと、付き添いで同乗した私と飯田さんを乗せた救急車は、近くにある市民病院まで走った。
ルールじいさんはすぐに集中治療室に運ばれた。
私は病院に着くとママにすぐ電話をした。ママは数分足らずで病院に駆けつけてくれた。
待合室で椅子に座って待っていると、やがてお医者さんがやってきた。
「野村さんですが、一命はとりとめました。発見が遅ければ危なかったですよ。よく頑張りました」
「よかったぁ」
私は思わずほっとした。
そんな私を、飯田さんとママとお医者さんが微笑んで見ていた。
後日私は、入院しているルールじいさんの病室に向かった。
「野村さん、元気ですか?」
ちょっとのあいだ会わなかっただけだというのに、ルールじいさんはだいぶ老けた顔をしていた。でも元気そうだった。
「ああ。お前さんが救急車を呼んでくれたと、隣の家の飯田さんから聞いた。ありがとう」
「いえ、気にしないでください」
「信号無視はあれから、していないだろうな」
げ、またここでもルールじいさんかよ。
私はやれやれと思いつつ、「してませんよ」と答えた。
ルールじいさんは「そうか」と言い、それからぽつりぽつりと語り出した。
「私の娘はちょうどお前さんくらいの年頃で、亡くなってなぁ。いつもいつも信号無視やら横断歩道のないところで道路を横切るやらと、ルール違反なことばかりしていたんだ。で、ある日。交通事故に遭って帰らぬ人となった。ある意味で自業自得なことだったが、それ以来私は交通ルールを守らない人間がいなくなるようにって、願ってきたんだ。子どもたちのあいだじゃ、ルールじいさんなんて呼ばれているが、その呼び方も悪くない。そうやって私のことが記憶に残るってことは、そのぶん。みんな交通に気を付けるということだから」
そうしてルールじいさんは、「ちょっと寝る」と照れくさそうに言うと、その目を閉じた。
私は不思議と、温かい気持ちになれた気がした。
ルールじいさん 凪野海里 @nagiumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます