¥51,638
――ひたすら歩き続けた。
何かから逃げるかのように、牧人は歩いた。
立ち止まれば、何かに追い付かれそうな気がした。
どれだけ歩いたのか。どこをどう通ったのか。もはやわからなかった。とにかく目の前の道を進んだ。
途中、自販機で水を買うのに立ち止まった以外は動き続けた。
日はとうに暮れており、夜のひんやりとした空気の中、歩いて、歩いた。
普段、こんなにも歩いたことはなかった。身体は悲鳴を上げており、特に足の裏は腫れているような気さえする。踵にできてしまった靴擦れが歩を進めるごとに痛んだ。歩き続けているせいか、羽織っているパーカーの下に着ているシャツは汗で湿っていて、特に背負っているリュックと接している背中はもうびっしょりだった。
さすがに限界だった。
ようやく牧人は足を止めた。立ち止まると、それまでの疲労が一気に押し寄せてきた。今日はこれ以上の移動は難しそうだった。
どこかで休みたくなり、牧人は自分の現在地を知ろうとする。すぐそばには周囲の建物よりも大きく明るい建物が建っており、その建物にぽつぽつと人が出入りしている。そしてその口には『調布駅』とシンプルな文字看板がある。辺りには電車はおろか線路すら見当たらないが、どうやらこの建物は駅らしかった。地下にホームがあるタイプの駅舎なのかもしれない。
ポケットからスマホを取り出して画面を照らす。表示された時刻を見ると、日付が変わって少し経っていた。こんな時間になっていたのか、と少々驚きつつも、牧人はロックを解除してブラウザを立ち上げる。駅前ならネカフェくらいはあるだろう、と『調布駅 ネカフェ』と検索すると、数件ヒットした。その中で一番近いネカフェへと痛む足を向ける。
歩き回ったおかげか、疲労が身体を支配しているためか、頭がカラッポだった。これなら今日は少しくらい眠れるかもしれない。と、同時に空腹感を覚えた。昼飯を戻してしまったので何も食べていないに等しい腹が、食べ物を要求していた。食欲が出てくる程度には気持ちが落ち着いたようだった。
ネカフェの隣にコンビニがあったので適当にパンを二つ買い、ネカフェへと入る。
初めて利用するチェーンの店舗だったので、会員カードを作って受付を済ませる。ナイトパックあり、フラット席あり、シャワーあり、と宿泊するには十分なシステムと設備があるネカフェで、牧人はそれらを全て選択して料金を支払い、与えられたブースへと向かう。ひとまず荷物を置いてからドリンクバーでメロンソーダを入れ、ブース内で腰を下ろすと、身体にじんわりとした痺れのようなものが広がっていくのを感じた。よほど疲れているらしかった。おかげで、危惧していた、ネカフェに泊まることへのトラウマのような物が浮上してこない。
メロンソーダを一口飲んで、一息吐いた。
シャワーは使用中で、順番待ちになっていた。自分の番まで少し待たないといけない。その間にパンを食べてしまおうと、牧人は薄暗いブースの中、もそもそと口を動かした。
食べ終えると手持ち無沙汰になった。横になって目を
何かしていよう、と牧人の意識がパソコンへと向く。
何か、といっても、やることは決まっていた。
牧人はパソコンを立ち上げると、ブラウザの検索窓にとあるサイトの名前を打ち込み、そのサイトへと飛んだ。そこはブラウザ上で基本無料で遊べる様々なゲームが集約されているポータルサイトで、牧人はログインを済ませると目的のゲームを起動させた。『麻雀』である。
――ありありルールの、ロビー11の14卓。
そこが、自分が参加しているグループがいつも使用している場所だった。今日もしているはずだ、と牧人は確信していた。それどころではなかったので、このところログインしていなかったが、以前は毎日のように参加していた。元々は某ネトゲのプレイヤーの集まりで、麻雀も目的ではあったが、どちらかというとグループのメンバーとチャットをしていることが多かった。あまり交友関係が広くなかった牧人にとって、貴重なコミュニケーションの場でもあった。
果たして、やはり卓は立っていた。
部外者を参加させないように設定してあるロックにお決まりのパスワードを打ち込
んで、その卓へと牧人は観戦者として参加する。
黒ペン:ういすー
と、牧人がキーボードを叩いてエンターを押すと、チャット欄に自分のアバターの名前で発言された。
マコト:ういすー
いいちこ☆:ういすー
Second:ういすー
ヨシ子ちゃん:ういすー
参加していた他のプレイヤーが一斉に同じ言葉を返してきた。ういすー、とはプレイしていたネトゲで使われていた挨拶の定型文で、それがそのままこのグループでも使われていた。麻雀真っ最中の四人以外に、卓に人はいなかった。特に意識はしていなかったが、日付が変わって月曜日、それも深夜一時近く。人が少なくて当たり前だった。
卓の様子を伺うと南三局で、もう少しで半荘が終わるところだった。点数は拮抗していて、まだ誰にでもトップの可能性がある、面白そうな場になっていた。
ゲームの進行を牧人がぼーっと眺めていると、
マコト:次、黒ペン入る?
カジュアルに着飾った男のアバターを使用しているマコトが訊ねてきた。普段なら喜んで頷くそれを、
黒ペン:今日はいいや
と、牧人は断った。シャワーの番がいつ来るかわからないのもあったが、単純に打つ気分ではなかった。ログインしてみたのは、ここに来れば誰かがいて寂しさや辛さを紛らわせてくれるだろう、との思ってのことだった。
マコトが綺麗な手で満貫を上がり、トップになってゲームはオーラスへ。
と、そこでブースの扉が控えめにノックされ、店員がシャワー使用の順番が来たことを教えてくれた。
黒ペン:シャワー浴びてくるー
ヨシ子ちゃん:いてらー
いいちこ☆:浴びてらー
Second:いってらー
マコト:いってらっしゃい
返事をしてくれる誰かがいるというのは、やっぱりいいものだ、と牧人は思った。
自分の発言への返事を見てから、牧人は荷物を持ってシャワー室へと向かった。
¥53,782 高月麻澄 @takatsuki-masumi
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