逆さ時計の顛末

胤田一成

逆さ時計の顛末

 逆さ腕時計にお悩みのあなたへ、ボーダライン社!

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 訪問販売員のエル氏は地下に張り巡らされた高速パイプラインに乗りながら、次の訪問宅の資料を捲った。そろそろ逆さ腕時計の買い替え時のはずである。

 しかし、ライバル会社は今や、ゴマンといる。正直にいって、エル氏の勤めている会社であるボーダライン社製の逆さ時計を購入してくれる可能性は決して高くはない。エル氏はまた、上司の小言に付き合わなくてはならないのか、と考えると気が滅入ってしまった。無駄な時間はなるだけ使いたくない。

 ブザーが鳴った。どうやら高速パイプラインが目的利に到着したようである。エル氏はベルトコンベアから降りると、自身の腕に巻き付けられた逆さ時計を一瞥した。時計の数字は、まだ四十五年を指し示している。しかし、自分に残された時間はあと、四十五年で尽きるとも捉えられる。エル氏は自分に残された余命のことを考えると、何かに急かされるように、自然と足早になるのを抑えきれなかった。

 エル氏は自身の勤めている会社が発明した新機種型逆さ時計の精巧さに、絶対の信頼を置いていた。でなければ、訪問販売員などという職業はやっていけない。まず、自社の製品を信頼するところから全てが始まるのだ。今からこのボーダライン社製の逆さ腕時計を一人でも多くの人々に販売しなくてはならない。気が付けば、エル氏はいまだ所有者を見つけられずに眠っている逆さ腕時計の入れられた鞄を脇に抱えながら走っていた。

 訪問宅へと辿り着いたときには息が上がっていた。エル氏はこの時ばかりは時間を惜しまずに、乱れたネクタイを整え、髪を撫でつけ、マウスウォッシュをし、営業用の笑顔を繕うと、ようやくベルを鳴らした。訪問販売の成功は第一印象で決定する。エル氏は普段からなるだけ相手に好感を持たれるように努めていた。

 三十秒とかからないうちに一人の婦人が玄関のドアを開けた。いかにも温室で育てられたといったような品の良い感じのする女性である。

 エル氏は素早く、婦人の腕に巻き付けられている時計を見て取った。そして頭の中に押し込められた膨大な量のカタログを紐解いた。婦人の腕につけられているのはボーダライン社製の女性用逆さ時計であった。それも一世代前の型の物である。

「貴重なお時間を割いていただき誠にありがとうございます。実は私、ボーダライン社から来たものでして、この度は新機種型の逆さ時計をご紹介すべく訪問させていただきました」

 エル氏はにこやかな笑顔を浮かべて流暢に、しかし口早に自社の新機種型逆さ腕時計の宣伝を始めた。自分に残された時間を示される時代にあっては、活舌よく流暢に、しかし早口に話すことは一種の美徳として世間に認められていた。

「まあ、ちょうど良かったわ。そろそろ新しい逆さ時計を買おうか迷っていたところなの。ボーダライン社の逆さ時計は長いこと愛用していたからありがたいわ」

 どうやら今日は上司の眠たくなるような小言に時間を割く必要はなさそうだった。エル氏は早速、鞄の中で眠っている新機種の逆さ時計を披露すべく屋内へと上がっていった。


 ラベンダーの香りに包まれてエル氏は目を覚ました。このラベンダーの香りは合法覚醒剤であり、今や皆が快適な朝を迎えるために愛用されているものである。

 エル氏はベッドの上で大きく伸びをすると、スリッパを履いて食卓へと軽快に足を運んだ。食卓には一錠のカプセルが用意されていた。朝食である。エル氏はいつも通りコップになみなみと水を注ぐと一息にカプセルを飲み込んだ。時間が重宝される時代にあって、朝食を一から調理する者など誰もいなかった。エル氏の場合もそうである。カプセルにはその日、一日を快適に過ごすための栄養剤とともに脳に満腹感を与える薬も含まれている。

 エル氏はスチームでシャツの皺を伸ばし、スーツに身を纏うと靴を履き替えて、定時通りに出社した。何もかもがスムースであり、驚くほどスマートである。エル氏は目を覚ましてから十五分とかからないうちに、今日いちにちの仕事に赴くために高速パイプラインの走る地下へと続く階段を駆け下りていった。

 高速パイプラインのベルトコンベアの上で、エル氏は自身の腕に巻かれた逆さ時計に何気なく眼をやった。そこでエル氏は思わず傍目もはばからず声を上げてしまった。


 逆さ時計の数字は三十年を示していた。三十年!


 エル氏は自身の会社が開発した製品に絶対の自信を持っていた。昨日まで四十五年を示していた数字が、一日にしてこうも大きく左右されるはずがない。逆さ時計に組み込まれている最新式の運命測定器が壊れているとは考えづらい。すると、一晩にして十五年分も老化してしまったというのか。ありえない。いつも通り帰社して、いつも通りのカプセルを飲み、いつも通りに床についたではないか。

 エル氏の背中を一筋の冷たい汗が伝った。思いあたる節が全くなかったからである。するとやはり、計器の故障だろうか。万に一つでもありないことではない。少なくとも一晩にして十五年分も年老いてしまったという仮説よりかは幾分、妥当性があるように思えた。なんにせよ、会社に急がなければならぬ、とエル氏は考えを巡らせた。速やかに会社に出社して、運命測定器を作製した技術者の胸ぐらを掴んででも、理由を導き出さなければならない。出ないとエル氏は三十年後には死んでしまう運命にあるということになるからであった。


 エル氏が会社に到着したとき、社内の電話は鳴りっぱなしの状態であった。職員はパニック寸前である。どうやら方々から逆さ時計の不備についてのクレームの電話が押し寄せているらしい。エル氏は走り回っクレームの応対をしている青い顔をした部下のエス君をやっとのことで捕まえて問い詰めた。

「おい、どうした。何があった」

「運命測定器ですよ。僕にもまださっぱり分からないのですけど、どうやら開発に失敗したらしい。ご覧の通り、朝から電話は鳴りっぱなしですよ」

「それは知っている。なにせ僕の運命測定器も故障しているようだからな。この計器によると俺は一晩にして十五年も年老いてしまったということになる」

 エル氏は内心、密かに安堵した。やはり運命測定器の故障であったのだ。とにかく、まだまだ余命はまだまだ残されているらしいぞ。そうやすやすと死んでたまるか。しかし、エス君は続けて言う。

「でも、おかしいんです。開発した技術者たちは測定器にはなにも問題がないと言い張って止まないんですよ。逆さ時計に示されているのなら、それがその人に残された余命に他ならないと断言しているんです。それに、僕の逆さ時計の調子もどうやらおかしいみたいなんです…。昨日まで二十年だったのが三十五年に伸びているんですから」

 

 もっともこの問題はボーダライン社の中に留まらなかった。調査の結果、世界各国の逆さ時計が狂い始めていることが昼の報道によって明らかにされた。逆さ時計を手掛ける数多くの時計メーカーが、同時多発的に計器に不具合を生じたとのことである。ボーダライン社、クライメックス社、メメント社…。

 昨日まで余命を表す数字が一変し、エル氏のように寿命が短くなる者、エス君のように長らえる者らが世界中で続出していた。すぐさま、世界各国メーカーの逆さ時計が集められ、権威ある博士らのもとで解体され、測定器に異常がないか調査された。しかし、残念ながら、これといった成果はとうとう上がらずじまいに終わってしまった。博士らは首をかしげるばかりである。

 ここまでくると、運命測定器なるもの自体が問題なのではないかという声も出てきた。世に出回っている紛い物の逆さ時計を中心に糾弾する運動さえ起こり始めた。実際、きちんとした科学的論拠のないまま販売された逆さ時計シリーズも多々発見されさえした。そして逆さ時計の地位と株価は底辺まで落ち込んだ。

 あれほど熱を上げていたエル氏も会社を辞め、新たにボート修理の職に就いた。幸い、エル氏は手先が器用であったので、食いぶちに困ることはなかった。青く透き通るような海、夕暮れ時に髪を撫でる潮風、そして美味い魚料理がエル氏の心の支えとなった。逆さ時計に左右されていたときとは見違えるほど、エル氏は今までにない充実した日々を送るようになっていた。

 

 しかし、人々はまだ知らない。

 宇宙の彼方から一筋の線を描くように、ゆっくりと、だが確実に巨大な彗星が地球めがけて一直線に飛来していることを。

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