机上の空論
古月
机上の空論
「もうさぁ、諦めちゃったら?」
三月も中旬を過ぎたころ。人もまばらになった学生食堂で
恵美子はサークルの同期だ。一緒に入部した一回生のころは眼鏡をかけた野暮ったい雰囲気の女だったのに、今はコンタクトレンズに変えて服装もちょっと華やかになっている。
「私が言うのもなんだけど、今どき武術に興味を持つ人間自体が少ないんだよ」
「ここにいるじゃないか、二人も」
「いやそういう意味じゃないってば」
手にしたお冷のグラスを傾ける恵美子。ちらりと窓ガラス越しに外を見る。春休み中だというのにそこには多くの学生の姿があった。もちろん、勉学のためではない。
この時期、四月に入学する新入生たちが引越しを終えて大学キャンパスに顔を出し始める。それは大学への諸々の書類を提出したり、あるいはこれから大学生活を過ごす場所にいち早く慣れておこうとのことなのだが、在校生にとってはそこがまさに狙い時。自身が所属するサークルに一人でも多くの新入生を入れようとあの手この手を尽くす。
大部分のサークルはまずベニヤ板と模造紙で作った看板を立てる。次に、その横にキャンプ用品の机と椅子を持ち出して植木の側などに陣を築く。しかる後に遊撃隊が大量のビラを持って道行く新入生に手あたり次第に声をかけまくるのだ。一度足を止めさせれば一分の確度、陣地の椅子に座らせれば五分にも上がり、二度三度と足を運ぶようになれば入部はほぼ確実となる。
が、それを実行できるのはすでに大勢のメンバーを抱える一大サークルのみ。マイナーなサークルは自身の存在感をアピールするのにも精一杯、中にはとうとう一人の新入生も獲得できないサークルもあった。
二人が所属しているのもそんなマイナーサークルの一つだ。名称は「中国武術研究会」、略して「
この日、二人はすでに遅きに失した感のある新入生勧誘作戦を練っていた。
亮一はテーブル上に広げたルーズリーフにペンを走らせ、これまでの議論の内容をまとめている。
――立て看板。
これは勧誘活動の基本なので、すでに作って設置はしてある。だが人員不足のため作ったのは一つのみ、また画力がないため文字情報ばかりで目立たない。
――テーブル出し。
多くのサークルがやっている手法だが、実施には人員がいる。恵美子は別キャンパスかつ多忙極まる医歯薬学部生なので無理。亮一も卒論の実験があるため、たった二人では到底無理な作戦だ。
――ポスター。
講義棟内の掲示板に貼る立て看板の縮小版だ。こちらは看板と違ってパソコン上でイラストの切り貼りしたものを印刷できるため、亮一も頑張った。だがいざ掲示板に向かってみるとあらゆるサークルが隙間という隙間を埋め尽くし、混沌と化していた。もはや中武研のそれを貼り出す隙間など存在しなかった。
――サークル紹介イベント。
学友会かどこかが主催している、教室の一つを借り切って実施されるイベントのことだ。各サークル五分の持ち時間で自分たちのアピールができる。だがこの日も恵美子は時間を作れない。武術サークルが組み手を見せられないのでは何にもならない。とりあえず亮一一人でやってはみることにしたが、効果は期待薄だ。
ここまで話し合った末に、恵美子の口から飛び出したのが先の「諦めちゃったら?」発言である。
亮一は頭を振った。
「諦められないよ。中武研を僕の代で終わらせたくないんだ。そんなことになれば、OBの人たちに申し訳が立たないもの」
「そりゃあ、何気に二十年以上の歴史があるって話だものね。君がその歴史を終わらせちゃったら、多分裸踊りぐらいは命じられると思うけど」
あのOBたちならやりかねないのが頭の痛いところだ。
「あとは、あれは? ビラ配り」
道行く新入生は大抵がその手に大学の資料を詰めた紙袋を抱えている。彼らを狙いすまして手渡しで勧誘のビラを渡し、少しでも認知度を上げる。亮一ももはやその程度しかやれることはないと思っていた。思ってはいたが。
亮一はクリアファイルからまたA4用紙を一枚取り出した。一枚当たり四枚分のビラが印刷してある。立て看板やポスターとほぼ同じ同じ文字情報が手書きしてあった。
「作ってはある。作ってはあるんだけど……」
「だけど、何よ?」
「……僕、人見知り」
「いつまでもそれを言い訳にしない!」
怒られた。
恵美子の言う通り、亮一は極度の人見知りだ。まったくの初対面の相手にいきなり話しかけるなどできるわけがない。精神的疲労がとてつもないことになってしまう。先のサークル紹介イベントも、本当はやりたくないのだ。
しょぼくれる亮一の姿に恵美子もちょっと言いすぎたと思ったのだろう。咳払いを一つ、そのビラの原本を拾って自身のカバンに詰めた。
「これ、一応もらっておくね。こっちでコピーして、時間があったらこっちのキャンパスでも配ってみる。ダメ出しばっかりじゃ申し訳ないもの。でもあんまり期待はしないで」
亮一の顔がぱっと輝く。
「君っていい奴だったんだね!」
「今さら気づいたの? 殺すよ?」
褒めたつもりが死刑宣告されるとはこれ如何に。
「まあ、とりあえずは、やるだけやってみようか。諦めろってさっきは言ったけど、やっぱり私も所属したサークルが消えるってなんだか嫌だし。それに」
「……それに?」
言い差した言葉を、しかし恵美子は呑み込んだ。
「何でもない。それじゃ、誰か見学に来たら教えてね」
*****
四月、入学式もとっくに終わり、また講義が始まったころ。
亮一は今日も一人で練習していた。場所は人気の少ない講義棟裏。そもそもこんな場所で活動しているから存在すら認知されないのだと亮一も理解はしているが、かつて人目に付きやすい場所で練習していたOBが「UFOを呼んでいる」との通報を受けたことがあるらしく、以来人目を避けて活動することが鉄則となっていたのだ。亮一としても不審者扱いはされたくないので、その教訓を無視することはできなかった。
亮一は落ち込んでいた。恵美子と作戦会議をしたあの日以来、亮一は一念発起してビラ配りに乗り出していた。実験の合間を縫って人通りの多い場所へ行き、それこそ入学式の会場前では大勢の他サークル勧誘者と混じってビラ配りに参加した。
多分、百枚以上は配ったはずだ。人見知りの亮一にしては十分な成果と言えよう。あまりにも印刷しすぎたために大学の情報処理センターからはしばらく印刷機の利用禁止を言い渡され、自宅プリンターで自費印刷するハメになりもしたが。
努力は報われるというが、やはり現実はそうも甘くない。
この日、亮一は見てしまった。ポスターを貼り出す場所はまだ残っていないか、どこかのサークルが場所を開けてくれてはいないかと講義棟を見て回った。
その廊下に、亮一が配ったビラが落ちていたのだ。
それは折れ曲がり、誰かに踏まれて足跡まで付いていた。まったく興味を持ってもらえなかった。一顧だにする価値も見出されなかった。その事実をありありと物語る姿でそこにあった。
亮一は踵を返して逃げ去りたいのを堪え、それを拾ってゴミ箱に入れた。自分が作って配ったビラで、構内を汚すわけにはいかないと思ったからだ。
誰が何に興味を持つかはその人次第だ。恵美子も言った通り、中国武術に興味を持つ人間の方がはるかに少ないはずなのだ。だから、ビラを捨てた誰かを恨みはしない。しないが、やはりショックであったのは確かだった。
亮一はひたすらに基本の型を繰り返していた。だがいつまで経っても、昼に見たあの光景が頭から離れない。
武術の何が面白いのか、そう問われて亮一はうまく答えることはできない。誰かをぶん殴ってやりたいと思ったわけではない。カンフースターになりたいと思ったわけでもない。偶然、道に迷ってこの練習場に踏み入った。そこで練習していた先輩たちの姿が、なんとなく楽しそうに思えたのだ。
あの時の気持ちをもう一度思い出したい――そんな思いがどこかにあったのかも知れない。中武研が消えたとしても亮一自身の学業や就職に何か影響があるわけでもない。なのにこんなにも新入生獲得に奔走したのは、一緒に練習してくれる仲間が欲しかったからだ。あの時感じた楽しさを、他の誰かにも知ってもらいたかったからだ。まさしく同好の士を得たかったからに他ならない。
だから諦めきれなかった。このサークルが、武術が、どうしようもなく好きだからだ。自分の好きを、もっと知ってもらいたい。そんな思いを、紙とペンに乗せて綴った看板やポスターやビラだった。
なのに、それらは歯牙にもかからぬ扱いをされてしまった。もう、亮一の心は折れてしまっていた。
また、型を一巡してしまった。これ以上はもう体が動きそうにない。看板やビラに書いた練習時間はまだ半分も過ぎていないが、もう周りは暗くなっている。他のサークルはもうテーブルを片付けて新入生を引き連れ飲み会へ向かった。キャンパス内にはもうほとんど人影は残っていない。
気づけば亮一は携帯電話を手に、恵美子の連絡先を開いていた。あとほんの数操作で彼女に電話を掛けられる。そして言ってしまおう。「もう諦める」と。そうして、楽になってしまおう。バカなあがきはもうやめだ。今この瞬間をもって、中国武術研究会の歴史に幕を下ろそう。
「……あの」
恐る恐る、その表現がぴったりの声音で、誰かが亮一の背後から声をかけた。振り返ってみれば、やや童顔の学生が一人。手には大学の紙袋と、一枚の紙きれ。見覚えのある、その紙切れ。
「中国武術研究会、の方……ですよね? もう練習は終わりですか? その、見学をしてみたいな、と」
亮一はしばらく動けなかった。あまつさえ、声も出なかった。
(了)
机上の空論 古月 @Kogetsu
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