紙とペンとひとさじの勇気
若槻 風亜
第1話
「もういいよ! おばあちゃんなんて大っ嫌い!!」
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、
「佳代ちゃん、待って! 違うのよ、おばあちゃんはね」
机を挟んで向かい合っていた祖母・
途端に腕に走る激痛に、美郷は短い悲鳴を上げる。二階まで駆け上がった佳代は、階下から聞こえた転倒音と悲鳴に思わず足を止めて振り返った。見に行くべき、と頭は理解しているが、喧嘩したばかりの相手を素直に心配したがらない心が足を縫い付ける。
「ねえ、今の音何?」
怪訝な顔で姉・
「……お、ばあ、ちゃんが、転んだの、かも……」
告げられた内容にぎょっとすると、紗矢は青い顔をして動けないでいる佳代の脇を通り慌てて階段を駆け下りて行った。
「おばあちゃん大丈夫!? おばあちゃん!」
リビングに入った瞬間、いつも冷静な姉が聞いたこともないような声を上げる。それが怖くて、佳代は震える足で自分の部屋に逃げ込んだ。サイレンを鳴らす救急車が家の前に停まっても、美郷が家から連れ出されても、紗矢に病院に行ってくると声をかけられても、佳代は布団にくるまれたまま身じろぎも出来なかった。
* * *
祖母が骨折だった、と聞かされたのは、その日の夜だ。仕事先にかかってきた電話を受け慌てて病院に行った、と声に怒りを滲ませる父から聞かされ、今も佳代は父の前に正座させられている。
「もう一回聞くぞ? 何でおばあちゃんが転ぶようなことになったんだ?」
自分も正座しながら父が厳しい声で問いかけてきた。しかし、視線を落とす佳代は唇を真一文字に引き伸ばし何も答えようとしない。
「佳代! いい加減にしなさい!」
三度訊いても答えない娘にしびれを切らせて、父は佳代を怒鳴りつける。一瞬体を震わせる佳代だったが、それでも唇は揺るぎもしなかった。父は疲れたように溜息を吐き出し、こめかみを揉む。
「お前は冷たい子だね。おばあちゃんは腕を折ってとっても痛い思いをしたのに、様子も見に来なかったんだろう? おばあちゃんが可哀想だよ。お母さんもそうだ。お母さんはお仕事があってもいつもおうちのことをしてくれてるのに、おばあちゃんの面倒も看ないといけない。おばあちゃんがいつもお母さんの手伝いをしてくれてたみたいに出来ないだろ? 佳代はいつも手伝わないから」
責めるような、憐れむような、そんな声と言い草。佳代の目の前はどんどん真っ赤になっていく。あらゆる反論が激情となり頭の中が埋め尽くされていた。
それをうまく表現出来る言葉が出てこず、ジワリと浮かぶ涙。耐えきれなくなってきたその時、動向を見守っていた姉が「お父さんさぁ」と口を挟んでくる。
「論点ずれてるんだけど。普段がどうこうとか今関係ないよね? それに、確かに私佳代と喋ってた後だともその後佳代が降りてこなかったとも言ったけど、怖くなっちゃったみたい、って言ったよね? ねえお母さん」
同意を求められ、おろおろしていた母はほっとしたように微笑んだ。
「ええ、お姉ちゃんの言う通りよお父さん。私が帰った時、佳代真っ青だったんだから。駄目だったって分かってるのよ。それに、ちゃんといつもお手伝いしてくれてるもんね、佳代」
優しく母が声をかけてくれるが、佳代は俯いたまま何も答えない。その反応が父としては納得出来なかったらしく、「あんまり佳代を甘やかすんじゃない」と姉と母を叱りつける。姉がさらに反論しかけた時、佳代の我慢はついに限界を迎えた。無言で立ち上がると、何も言わずに父に背を向ける。
「佳代待ちなさい! 話は終わってない!」
立ち上がって追いかけてこようとする父を、佳代は涙の浮かんだ目で厳しく睨み、勢いよく突き飛ばした。紗矢が「あっ」と声を上げ、母が絶句する。
「うるさい!! 自分は何もしないで全部お母さんたちに任せっぱなしのくせに! 自分が都合がいい時にしか私たちに構わないくせに! 冷たいのはどっちだ! 何もしない奴が偉そうに説教するな!!」
絶えず涙を零しながら佳代はリビングから駆け出て行った。階段を上って行く途中、呆気に取られていた父がようやく正気に戻り「待ちなさい」と怒鳴ってくる。佳代は無視して部屋に入り大きな音を立てて扉を閉めた。鍵をかけベッドに飛び込むと、悔しくて辛くて、涙が次から次へと浮かんでは零れて枕が濡れていく。
それからしばらくして、少しだけ心が落ち着いた。袖で残っていた涙を拭い詰まってしまった鼻をティッシュでかむ。今日は楽しい気持ちで帰ってきたはずなのに、何でこんな辛い思いをしているんだろう。段々自分がみじめに思えて来て、佳代の目にはまた涙が浮かんできた。
その時だ。扉が控えめにノックされる。反射で体を強張らせるが、扉の向こうの相手は特に何か言うわけでもなく、扉の下から何かを差し込んできた。
何だろう、と鼻をすすりながら佳代はそっとベッドを折り、差し込まれた物を拾い上げる。それは、二回折りたたまれた白いルーズリーフだった。
「……手紙……?」
広げると、中には一面の文面と、頭に「佳代へ」の宛名。姉の字だ。佳代はベッドに腰を掛け、改めてそれに目を通す。
『佳代へ
今日はとても大変でしたね。おばあちゃんですが、私は詳しく聞いていないのですが、佳代を傷つけてしまったと、とても後悔していました。折角夢の話をしてくれたのに、咄嗟に否定してしまった、と。』
書かれている文章を読み、佳代はぐっと唇の内側を噛んだ。
そう、佳代は今日、祖母に夢の話をした。その夢とは、パルクールという、道具を使わずに障害物を乗り越えたり素早く移動したりするスポーツでプロになる、というもの。学校で友人が見せてくれた動画がきっかけで、男女の友人たちと試して遊んだところ、佳代が一番上手かったのだ。身体能力に自信があった佳代は、初めての動作を楽々こなせたこと、友人たちの「プロになれる」という喝采を受けすっかりその気になっていた。
だから、美郷も褒めてくれる、応援してくれると思っていたのだ。けれど結果は真逆。祖母は「そんな危ないことやめなさい」と頭ごなしに否定してきた。予想とまるで違う結果がショックで、咄嗟に祖母を傷付けることを言ってしまったのだ。今なら、祖母が心配して言ったのだと理解出来るのに。
夕方のことを思い出し、佳代は苦い顔をする。気を紛らわせようと、視線は手紙の続きを追った。
『でも、優しい佳代はきっとおばあちゃんの気持ちを分かっているし、同じようにおばあちゃんを傷付けてしまったことを後悔していると思います。』
そう、後悔している。とてつもなく後悔している。けれど、佳代の口は、心は、素直に謝罪することを全力で拒否してくるのだ。どうしたらいいんだろう。縋るように文章を追うと、姉の手紙にはそれに答えるような内容が綴られていた。
『だから、お姉ちゃんから提案です。佳代もお手紙を書いてみたらどうでしょう?』
「手紙を書く……?」
『文字で書くと、言葉よりもずっと落ち着いて伝えられます。本当はこういう話も面と向かってしたかったけど、今日の騒ぎで私もお父さんみたいに心が疲れています。だから、もしかしたらお父さんみたいに佳代を傷付けてしまうかもしれないので、手紙にしました。』
さり気なく父のフォローまで入れられる。一瞬むっとしたが、優しい姉とまでは喧嘩をしたくないので、佳代は我慢して先を読み進めた。
『手紙を受けた側も、言葉で言われるより冷静に受け止められるものです。佳代はどうでしたか? この手紙を冷静に読むことが出来ましたか?
もし出来たのであれば、今日が無理なら明日でもいいので、おばあちゃんに手紙を書いてあげてください。どう思ったのか、どう感じたのか、今どう思っているのか。
佳代はおばあちゃんと仲良しなので、きっと仲直りしたいですよね。そういう時は、素直に謝った方がいいです。
佳代はまだ幼稚園児だったけど、おじいちゃんを覚えていますか? 私はおじいちゃんと凄く仲良しでした。でも、ある日喧嘩をしてしまい、それからほとんど話をしませんでした。おじいちゃんが事故で亡くなったのはその数日後で、意地になっていた私は、おじいちゃんと仲直りすることが出来ませんでした。そのことを、今でもとってもとっても後悔しています。もちろんおばあちゃんが今日明日亡くなるわけではないけど、大切な人といつお別れすることになるかは分かりません。なるべく早く仲直りして、佳代が私みたいな思いをしないで済むようにして欲しいです。
考えがまとまらなくて相談したいことがあったらお姉ちゃんの部屋に来てください。一緒に考えましょう。
紗矢』
全てを読み終わる頃には、手紙はぐしゃりと歪んでいた。白い紙面には水滴がぽつぽつと零れ、濃いシミに変わっていく。佳代は祖父をちゃんとは覚えていない。けれど、小学生だった姉ととても仲良しで、姉が祖父の葬式で大泣きしていたのは覚えている。
一体、どんな気持ちで今日を過ごしていたのだろう。考え出すとまた涙が止まらなくなっていた。
しばらくの間泣いていた佳代は、すっかり濡れ切っている袖でまた目元を拭い、真っ赤な顔で勉強机に向き合う。用意するのは、紙とペン、それとひとさじの勇気。ごめんなさいと大好きを伝えるための、最大の装備だ。
翌日、とある男性会社員ととある女性入院患者がそれぞれ職場と病院で涙している姿が見かけられ、夜にはとある中学生女子が二通の手紙を持って姉の胸に飛び込む姿が確認された。
紙とペンとひとさじの勇気 若槻 風亜 @Fua_W
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