第23話 最後の挨拶
「しっかりしろ、ワトソンくん。おい、ワトソン!」
ホームズの声が聞こえた。意識が急速に戻ってくる。
ごほっ、ごほっとむせた。
口の周りにブランデーの強い香りが残っている。ああ、これは気付け薬だろう。
そうか、わたしは気を失っていたのだ。
「良かった、ワトソンさん!」
ハドソンさんが泣きながらわたしに抱きついてきた。さすがにちょっと大げさではないだろうか。まあ、悪い気はしないけれども。
「やあ、ホームズ。これはどうした事だ。……まるでわたしが死んだみたいな騒ぎじゃないか」
冗談のつもりだったのだが、ハドソンさんを更に激しく泣かせてしまった。
慌てて謝ったが、本当に状況が分らない。
「ああ。それは仕方ないよ。だって、君はさっきまで死んでいたのだから」
わたしは完全に心臓が止まっていたが、ホームズとハドソンさんの必死の努力で蘇生したのだという。
どうやらマンドラゴラに関するあの伝説は本当だったらしい。わたしのように奇跡的に一命を取り留めた人間がそれを語り伝えたのだろう。
まったく、伝承だからといって馬鹿にするものではない。
「本当に申し訳ない。君をこんな危険な目に遭わせるなんて」
今にも目の光が消え入りそうに、ホームズは落ち込んでいた。よく見ると体内で生成された蒸気が冷えて、彼の目から水滴として流れ出していた。
「心配するなよホームズ。わたしは君の役に立てることを無上の喜びだと思っているんだから。そしてそれが、わたしの特権だとも、ね」
ホームズはわたしの肩に顔を押し当てた。それは、気のせいか震えているようだった。
☆
「ここは、マイクロフトに協力を要請すべきだろうな」
そのホームズの言葉にわたしは驚いた。
「だが、君のお兄さんはアドラーさんに逮捕されたのではなかったのかい」
「ああ。だがあの男を最も必要としているのは、イギリス政府自身なのだよ」
これには唖然とするしかなかった。
「あれ以来、政府が機能停止したらしいからね」
「そんなことで大丈夫なのか、わが大英帝国は」
さあね、ホームズは肩をすくめた。
間もなく、やたらと大きな馬車がコーンウォールに到着した。
「ほっ、ほっ、ほっ。やあシャーロック、久しぶりだね」
でっぷりと太った長身の男が馬車をおりた。
「お、このドアは狭いな」
家に入ろうとして、玄関でつっかえている。
「兄さん、そんな不摂生していては早死にしますよ」
あきれたようにホームズが言った。
なんとか室内に入り、ホームズ兄弟は握手を交わした。
「相変わらずお前は固いな。わかったよ、明日からダイエットするから、そんな怖い顔をするな」
マイクロフトにもホームズの表情が読み取れるらしい。
「兄さんは以前、得意そうに、ダイエットなど簡単だと言っていませんでしたか」
シャーロック・ホームズが言うと、マイクロフトはにやりと笑った。
「そうだな。あまりに簡単だから、もう百回はやっているぞ」
☆
「トリジェニスか。それなら軍の開発本部副部長だな。奴め、新兵器の設計図を盗みだし、他国に売り渡そうとしていたのだな」
最新兵器『ブルース・アッシュビー』の設計書が盗まれ、マイクロフト達が極秘に捜査していたらしい。
「なんだか、女ったらしの雰囲気がありますね、その名前」
ハドソンさんが眉をしかめた。
うん? とマイクロフトは考え込んだ。
「おお、失礼、間違いだ。『ブルース・パーティントン』だった」
「全然違うじゃないですか」
「その新兵器とは何なのです、兄さん」
「おいおい、シャーロック。そんな重要機密を軽々しく言う訳がないだろう。私を誰だと思っているのだね。甘く見てもらっては困るよ」
「そうだ、戦艦ですか」
わたしが声をあげる。
「違いまーす。この時期に隠匿するような新型戦艦はありませーん」
得意げにマイクロフトがだめ出しする。なんだか腹立たしいぞ、この兄弟。
「じゃあ潜水艦、っていうものじゃないですか。私聞いたことがあります」
ハドソンさんが身体を乗り出すと、マイクロフトの顔が輝いた。
「なんと、お嬢さん。潜水艦をご存知か。うーん、Uボートはね、我が軍も開発に血道を上げているんですよ。でも、それじゃあ無いんだな」
なんだかその内、大英帝国の秘密を全部喋ってくれそうだった。
「ヒント。ヒントをください」
「それじゃあ、仕方ないな」
そう言いながらマイクロフトは一枚の設計図をポケットから出した。
「これは全体図だからね。これを見て組み立てることなど出来ないけれどもね」
そこに書かれていたのは。
「これって、人間」
ハドソンさんが口許を押さえた。
それは確かに形は人間を模している。
だが、その設計書に記載された数値は、わたしの想像を遙かに超えていた。
「身長57メートル。想定重量、550トン」
私は呆然となった。
それは超巨大な人型兵器だった。
噂されている、あの国との戦争に向けたものだと云う事は容易に想像できた。
「成る程。これの設計図が盗まれたのですか。そしてスパイの手に渡ろうとした」
ホームズは頷いた。
弟が新兵器の設計図を他国のスパイに売り渡そうとしているのを知ったトリジェニスは毒ガスを使って弟もろともスパイを殺害したのだ。
だがそれは決して愛国心の為ではない。
弟に奪われた屋敷を取り返し、その設計図を自らの手でどこか他国に売りつけるつもりだったのだ。
「では、トリジェニスは今どこに」
トリジェニスは死体で発見された。
庭先で、引き抜いたマンドラゴラを持ったまま倒れていたのだ。
『設計図は鉢植えの中にある』
そう書いたメモが彼の傍らに落ちていた。
わたしには、その字がホームズのもののような気がしたが勘違いかもしれない。
結局、設計図は発見されなかった。
あんな物は造られない方がいいのだ。わたしは、心の奥で安堵した。
☆
毎日届く新聞が、戦争が近い事を伝えている。
わたしは久しぶりにベーカー街221番地を尋ねた。
ドアを開ける前からその音は聞こえていた。
低く唸るような音が。
「やあ、ワトソンくん。何年ぶりだろうね」
どこか、くぐもったホームズの声がわたしを迎えた。
そこに立っていたのは、なんだか茶色い固まりだった。
「ホームズ。これは一体?」
よく見ると、それは小さな蜂が集まったものだった。ホームズの身体にミツバチが巣を造ろうとしているのだ。
「困ったよ。窓を開けていたら女王蜂がやってきて、このプレゼントさ」
わたしは笑いをかみ殺していた。
「どうするんだ、ホームズ。殺虫剤でも買ってこようか」
「いや。良い機会だ。正式に探偵業は引退して、養蜂家を始めるよ」
ホームズは明るく笑った。
「ああ、それがいい」
わたしもつられて笑顔になった。
「ああっ、もう。ホームズさん。この部屋でペットを飼うのは禁止だって言ったじゃないですか」
その声にわたしは振り向いた。
わたしがこの部屋に初めてやって来たときのハドソンさんとそっくりな少女がそこに立っていた。
彼女はわたしを見てにっこり笑った。
「おじさま、いらっしゃい。フロリーおばさまは元気ですか」
この少女はわたしの妻、フロリー・ハドソンの姪だった。このアパートの大家さんを引き継いでいる。
わたしは彼ら二人を見て言った。
「ああ。元気だとも。今度、また二人で君たちに会いに来るよ」
END
同居人は迷探偵~機械探偵ホームズ 杉浦ヒナタ @gallia-3
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