第22話 悪魔の足
「ほう、これはいい。身体が軽くなった」
ホームズは膝の屈伸をしたあと、腕を振り回している。
「関節の歯車がかなり摩耗していたから交換しておいたぞ。あとは蒸気ピストンも軽くオーバーホールしたから、新品の頃に近いパワーが出るはずだ」
エイガー博士は満足げに頷いた。
「ご免なさいね、ロンドンでは満足なメンテナンスが出来なくて」
「いえ、ハドソンさん。おかげでまた事件に立ち向かう気力が湧きましたよ」
ホームズは元気よく笑った。
まあ、事件など、無ければそれに越したことはないのだが。
☆
それから数日は何事も無く平穏に過ぎた。
ホームズはこの地方独特の文化、言語についてじっくりと調査をすることが出来て喜んでいるようだった。
「ねえ、ワトソンくん。ぼくは探偵を引退したら、こうやって各地の文化の違いについて研究していきたいと思っているんだよ」
そう言うと、パイプの煙を吐き出した。
だが、そんなホームズの願いは当分叶えられそうになかった。
「博士、エイガー博士!」
ある朝、大声をあげて誰かが玄関に駆け込んできたのだ。
「ラウンドヘイ牧師じゃありませんか。どうしたんです、こんなに早くから」
博士はその男を部屋に招き入れた。
「それに、その方は?」
牧師の後ろに立つ男に目をやった。浅黒い肌に、陰気な表情をした男だった。
「彼は、牧師館の部屋を貸しているトリジェニスさんです。あれだけ広い建物の部屋を遊ばせておくのは勿体ないですから。それに教会の運営資金の足しにでもと思いましてね、
「ああ、なるほど。それはいいお考えです。いや、実は私もこの工房をですな……」
「それで、ご用の向きは」
これでは話しが先に進まないと考えたのだろう。ハドソンさんが声をかけた。
「おお、そうでした。ここに、かの高名なシャーロック・ホームズ氏が滞在されていると聞いて駆けつけたのでした。じつは」
牧師はトリジェニス氏を振り返った。
「この方のご兄弟とその友人が、殺害されたのです!」
だったら世間話などしている場合か。
わたしは呆れたが、これがこの辺りの住人の性質なのだろうか。だとしたら、えらく暢気なものだと思わざるを得ない。
「ほう、それは楽しみだ」
ホームズが小さく聞き捨てならないことを口走る。幸い他の人たちには聞こえなかったようだが。
「その現場へ案内していただいてもよろしいですか。トリジェニスさん」
しれっ、と真面目な様子を取り繕い、ホームズが促した。
☆
部屋の惨状を見たハドソンさんは息を呑み、目を逸らした。
それはわたしも同じだった。
「こ、これは……」
床に倒れた遺体は揃って目を剥き、何かを叫ぶように顔を歪ませていた。一人は床を掻き
他に大きな外傷がないところを見ると毒殺とも思えるが、部屋で何かを飲食した様子は覗えなかった。
「早朝、牧師館の周りを散歩をしていましたら、医師を乗せた馬車がこの屋敷に向かうというので、私も同行したのです」
動揺を抑えるように、低い声でトリジェニス氏は言った。
「一人は私の弟で、他はその友人達だと思います」
「では、ここは弟さんの屋敷なのですか」
「ええ。ホームズさん。本来は私が継ぐはずでしたが、訳あって弟が……」
その時トリジェニス氏は不思議な表情をうかべた。
いま、笑ったのではないか。わたしはもう一度彼の顔を見直したが、すでに、その名残は見当たらなかった。
「失礼ですが、弟さんのご職業は?」
「詳しくは知りませんが、政府の職員をしていたようです。これは、本人が言おうとしなかったのですよ」
ホームズは部屋の中を歩き回っていた。暖炉の中を覗き込んだり、落ちて割れた鉢植えを興味深そうに観察している。最後に卓上ランプの傘についた煤を少し削り落とし、封筒に入れた。
「なるほど、これは興味深い事件です。ですが、一旦ここは警察に任せましょう」
そう言うとホームズは部屋を出て行った。
☆
「あれは毒物に違いないよ、ワトソンくん」
エイガー博士の工房に戻ったホームズは断言した。
「人の精神を錯乱させる毒を、何らかの方法であの部屋に撒いたんだ。おそらくは、これと同じ方法でね」
そう言うとホームズはパイプの煙を盛大に吐き出した。
「暖炉では何かを燃やした跡があった。更にはランプの傘にも妙な色の煤が付着している。そう、毒ガスを発生させたのだよ」
「だが、それはなんだ、ホームズ。その鉢植えは」
私が指差したものは古い植木鉢に植えられた見知らぬ植物だった。こんな物はこの部屋には無かったはずだが。
「ああ、これかい。マンドラゴラ、別名マンドレークという植物だよ。あの屋敷の外に幾つも置いてあったから、ひとつ拝借して来たのさ」
「なぜ、こんな物を持ってくる必要があるんだ、ホームズ」
「おや、気付かなかったのかい。あの部屋で、被害者の一人が血文字で書いていたじゃないか」
『悪魔の足』と。
「このマンドラゴラの根は、まるで人か鳥の足のような形をしていて、それがまるで悪魔の足のように見えるらしいんだよ。あの部屋にも割れた植木鉢があっただろう」
ああ、確かにそうだった。
「へえ。じゃあ早速、抜いてみようじゃないか」
わたしはその植物に手をかけた。
「まあ、待ちたまえワトソンくん。このマンドラゴラには伝説があってね。これを引っこ抜くと、凄い叫び声を上げるというんだ」
「はあ?」
「そして、それを聞いた者は……死ぬ」
「冗談だろう、ホームズ。そんな、馬鹿げている」
だって、この19世紀も終わろうとしているこんな時代に、そんな……。
「うん。ぼくもこれは、ある魔法使いに聞いた話なのだけれどね。ただ、この話には矛盾があると思うんだ。叫び声を聞いた者がみんな死んでしまうなら、誰がこの話を伝えたのだろう、とね。そうだろう、ワトソンくん」
ん、そう言えばそうだな。
「ああ。その通りだ。確かにその通りだよ、ホームズ」
ちょっと安心したぞ。……ある魔法使い、というのは気になるが。
「だから、今からこれを抜いてみようと思うんだ」
本当にやるのかっ。
「少しでも疑わしい可能性は消していかないとね」
こうやって、ひとつずつ検証して可能性を消去していったなら、最後に残ったものは、それがどれだけあり得ないように見えても真実なんだよ。ホームズは自信たっぷりに言った。なんだか、煙に巻かれたような話だが。
「よし。では、抜くぞ」
ホームズはその葉っぱの付いた茎を一気に引き抜いた。
……わたしはどこか遠くで悲鳴のような音を聞きながら、意識を失った。
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