紅椿の幻視
うめ屋
*
僕が十八の晩冬、兄が死んだ。自死である。
兄は二十二、帝大で英文をやっていた。僕は一高をこころざし、この春から兄を頼って上京するつもりでいた。その矢先の凶報である。報せを受けた父は電報を握りつぶし、母はその場に卒倒した。
僕と父は、倒れた母とまだ幼い妹を残して夜汽車に飛び乗った。
*
「ごしゅうしょう様でございます」
東京に着いたのは明朝であった。
兄の下宿先をおとなうと、すでに大家の老婆が待ちかまえていた。目玉が大きく痩せぎすの、全体にぎょろぎょろとした女人である。戸口で腰低く礼をとり、僕と父を二階に連れる。どうぞ驚かれますなと前置きをして、襖を開けた。
とたん、大輪の紅椿が咲いたかと幻視した。
室へ入ると正面に障子窓があり、文机がある。その窓から机にかけ、まるで間欠泉でも噴いたように血糊がほとばしっているのである。父は呻いて後じさった。僕は息をのみ、しかしすぐさま室へ踏み入った。
「
兄は文机へ頭を向けて寝かされており、枕辺には線香も立っていた。僕はいま初めてその抹香に気づいたのだった。
父は僕に引きずられるように兄の元へまろび、崩れ落ちた。声を放って哭く父のうしろから、大家が来た。老婆は入れ歯でも直すように口をもごつかせ、室は兄を見つけたときのまま取ってあるのだと云った。
「一ぺん親御様にごらん頂きませんと、いかな障りがあるとも知れませんでしょう。ねえ、ネエ」
そうつづけて文机の上を見るのである。
それで僕は、そこに一冊の帳面とペンが転がっているのを見つけた。僕は大家をふりかえった。
老婆はまた口を皺つかせ、合間にニヤリと上目を使う。この大家が読み書きをできるのかは解らなかったが、老婆は帳面を見たのだと思った。帳面を見、なにがしか艶聞の匂いを嗅ぎつけたのだと思った。
僕は枕辺を離れ、血を踏まぬようにして帳面を手にとった。からくも帳面は汚れるのを免れており、読むに支障はなさそうだった。僕はそれを懐にしまった。
兄は小刀で首をかき切って死んでいた。ためらい傷などは一切なく、うつくしい絶命だったのだろうと父と二人
不謹慎なことであったが、死化粧をほどこした兄はそれほどに、うるわしかったのだ。血の気のうせた頬にうすく白粉をはたき、薄墨で紅を挿す。そうして身なりを整えた兄は清冽な顔をしていた。まるで嫁ぎゆく処女であった。首に巻いた晒しだけ血がにじみ、やはり紅い椿を咲かせたかに見えた。
そうして葬式を出したのち、僕は兄の下宿した室をそのまま引き継ぐことにした。
父母は厳然と反対したが、なかば出奔するようにして上京した。老婆は変わらず大家をいとなみ、あのぎょろついた目つきで僕を迎え入れた。
「弟御様がお住まいならば、さぞお
僕はかるく会釈し、二階へ上がった。
それから荷をほどき終えたころには、日が暮れかかっていた。僕はいったん町へ出かけ、戻ってきてから白い着物に着がえた。文机の前に座し、摘んできたなごりの紅椿を飾る。線香を立て、兄の遺した帳面を開いた。
兄は、道ならぬ情欲に憑かれていたらしい。
帳面は日記であった。日記であったが、中身はほとんど恋文である。兄は大学で同級の男に惚れこみ、彼への思いを連綿とつづっていたのだ。
日記の中の兄は目をみはるほど饒舌だった。ときに清らかな祈りを捧げ、ときに
読んでいると、己がペンの穂先で撫でられているような心もちになってくる。僕はぞろめく腕をさすり、顔をあげた。
もはや眼前の障子窓は張りかえられ、なんの痕跡も残っていない。しかしそこにはなおも紅椿の幻視があり、僕はその果てにいる兄へ向けて語りかけた。
「……
僕は、兄を愛していた。
家のものとしての愛ではない、淫猥なものをひそめての愛である。僕は兄の手に達せられる夢を見たし、兄の菊座を押しひらく夢想もした。初めて夢見たのは十三の時分であったか。それから僕は兄を兄でなく、弥さんと呼ぶようになった。
その兄には、男がいた。
兄がその身を明け渡したやもしれぬ男。兄の心をうばった男。僕がいくら兄の隣に立とうとして、その名を呼んでも一生叶いやしないというのに。
だのにその男は兄のいのちを攫い、いともたやすく対等な地位をえた。
僕は姿も知れぬ男を厭い、唇を噛みしめる。ねばつく血どろのような情念が、僕の心に沸々湧きあがっていた。
帳面の男がこの世にいないと知ったのは、半年ほどのちであった。
僕は九月に無事一高へ合格し、兄の友人だった田ノ倉という男を見つけだしていた。晩方ミルクホールにいるのを捕まえ、むりやりに相席をした。
「
田ノ倉は、
「お気遣い痛みいります。このたびは兄について、少々伺いたいことがあり」
「なんだい?」
僕は帳面に書かれていた男の名を出した。
田ノ倉は答えず、がぶりと牛乳を飲む。白い髭を拭ってから、獲物にとりかかる猫のような笑みを浮かべた。
「きみさ、労働ということばを知っているかい? 働かざる者食うべからず、人は糧をえるために死ぬまで働かねばならない。口に糊するも寒さをしのぐも、すべてこの世は金次第。もしくは釣りあう対価次第」
「……つまり、知りたくば身を売れと」
「理解が早くてたすかるよ」
田ノ倉は勘定をして立ちあがった。僕もその跡を追う。田ノ倉はミルクホールよりもっと場末の、《あらくれ》なる二階家に僕をいざなった。
どうやら名のとおり、軟派ものの巣窟らしい。喧々諤々と政治を論じる学生たちがいるかと思えば、着物をはだけて紫煙をふかしているものもいる。酒、煙草、珈琲や化粧の臭い。田ノ倉はころがる辞書やビラを蹴散らし、二階へ向かった。
そうしてさる室の襖を開けたとたん、唇を乗せられた。
「……硬いな、」
田ノ倉は合間につぶやき、舌を吸う。僕はその気息にあわせるだけで難儀した。絡みつくものを呑みこみ、啜り、噛みつくうちに頭に霞がかかっていた。
やがて目覚めると、煙草の香がした。
窓からうす明かりが漏れてくるので、早朝らしい。僕はうすぎたない布団に寝かされ、前には田ノ倉が背を向けて、あぐらを掻いている。
その手もとに紫煙があった。田ノ倉は僕が目覚めたことに気づき、よう、とふりむいて笑んだ。
「お前さん、まっさらの蕾だな。硬くて硬くてほぐれやしねえ。兄貴とは雲泥だった」
「兄はあなたと、このようなことを?」
「それを訊くのは野暮ってものじゃないか?」
田ノ倉は煙草を
「そういや、お前さんが知りたがっていた男だけどな。そんな男はうちの学年にはいないよ。ほかの学年でも聞いたことがない。どこかの女給と勘違いでもしているんじゃないかい?」
「……そんな、」
しかし、いくら問いつめても知らないものは知らない、のであった。
その後図書館で学生名の載る一覧をあさったが、たしかに帳面の男の名はどこにもなかった。近年のもののみならず、初代からすべてさらったにも関わらずである。僕は疲れはて、下宿に戻った。
はや暮れ方である。とむらいの白い着物に着がえ、摘んできた曼殊沙華を文机のうえに置く。線香を立てて前に座すと、また紅椿の幻視が立ちのぼった。僕はその紅を仰ぎ、兄を呼ぶ。
「
にいさん、あなたは何に焦がれていたのか。誰をそれほど恋うていたのか。
線香がゆらめき、かそけく
――
兄の声だ。
僕はこわばり、動けなくなる。兄は僕の腰に腕をまわし、顎をすくってふりむかせた。するとうつくしい兄がそこにいた。清冽な処女の顔で僕にほほえみ、覆いかぶさってくる。
――藤雄さん。……藤雄さん、
それは、あの帳面にあった男の名だ。兄はその名前をくりかえし、やわらかに僕の唇を吸う。
そのとたん、力が抜けた。
そうして悟った。
おそらく兄は、こうしてこの室で幻視を見たのだ。藤雄という男のまぼろしをその目に見、惚れこみ、ついに己自身が憑りこまれた。あの世とこの世の境をこえて、男のいる側に逝ってしまった。
ここは、そういう室なのだ。そしてつぎは、新たなる僕の番。
「……弥さん」
僕は目を閉じ、兄の背をまさぐった。骨の新芽めいた硬さをたどり、熱のないからだに熱を灯してゆく。
すると硬い芽はほぐれ、しだいに紅椿のたおやかさで開きはじめる。僕はその花のやわさを貪り、やがてひとつに融けあおうとするように、手足のすべてを絡みつかせた。
*
そうして、僕はまた今日も花をそなえる。
季節の紅い花を置き、線香を立て、白い着物で文机の前に座す。そうすると障子窓には、うるわしい紅椿の幻視があらわれる。線香がゆらめいて、黄泉路の香を連れてくる。
――藤雄さん。
兄は僕の背にかぶさり、うっそりとほほえんだ。僕も笑み、首にまわされた腕をなぞる。寄り添うおもかげを感じながら帳面を開き、ペンを執る。
こんどは僕が、兄に恋文をしたためるのだ。そしてそれが成ったあかつきには、きっと、僕が兄のもとへゆく。
僕はまなうらに幸福な夢想をえがき、最初のひと文字を紙に落とした。
紅椿の幻視 うめ屋 @takeharu811
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