◆ ぼくのゆうれい : ツガル
その草叢は、バス停から歩いて数十分の距離にある。
「―――― ハコネ」
ばかにならない交通費と時間を掛けてようやく辿り着いた草叢で、先に来ていたツガルの挨拶に返事もせず、ハコネはぼんやりと空を見上げていた。
つられて顔を上げてみれば、白い筋雲が薄青い空を真横に通り過ぎていくのが目に入る。
どうやら空高くに響く、鳥の囀りが気になったらしい。あの鳴き声は多分ひばりだ。ここから遠い地に住んでいた祖父に、幼い頃そう教わった。
草原にはもう春が訪れ始めていた。
手入れもされずに生い茂る草叢の一部に、ぽつぽつと白や黄色の花が咲き始めている。どこからか種が飛んできたのだろう。きっと後数年もすれば、焼け焦げた瓦礫の山を覆いつくす花畑が出来上がるに違いない。
「―――――平和だなぁ」
「うん」
溜め息交じりに思わずといった調子で呟いたハコネの横で、ツガルも草叢の花を眺めながら頷いてみせた。
頭上高くでひばりの声が、また青白い空を通り過ぎていく。
全く以て、平和な光景だ。
草叢の所々に散らばる、かつて車やバリケードや建物の一部だった瓦礫の山だけが、辛うじてあの大惨事の爪痕を思い出させてくれる。それさえなければ、ただの人の寄り付かない草叢としか、誰も思わなかっただろう。
かつてここに町があり、ハコネやツガルが仲間たちと過ごしたラボがあった頃の面影はどこにも無い。
その町が突如広まったウイルスによる大パニックに陥ったことも、その感染症で次々と狂暴化した人々が他の人を襲い始めたことも、白や黄色の花々からは察せない。
最後は被害のひどかったというこの町を含む地域一帯を、政府が爆弾を落として焼き払ったことすらも初めから無かったのではないかと錯覚させるほどの、ひどく平和な光景だった。
「―――よいしょっ、と」
妙にお道化た調子の掛け声と共に、ハコネが背負っていた荷物を下ろした。フシオ辺りが生きていたら、年寄りくさいぞと茶々を入れるところだ。
ビニールシートを広げ終わったところで、荷物から取り出されたラップトップと小型の投影機を見たツガルは、眉を顰めて小さく溜め息を吐いた。
「……また、持ってきたんだ――――それ」
不満を隠さないツガルの声など気にも留めず、ハコネは手際よく持ってきた荷物を広げて組み立て続ける。
それに眉間の皺を深くしたツガルとは逆に、ハコネの方は鼻歌混じりでご機嫌だった。大きく広げられた、折り畳み式のパラボラアンテナの日陰にしゃがみ込みながら、クスクスと一人笑い声を抑えることすらしない。ツガルの方の溜め息が、ますます重くなるのにもお構いなしだ。
分かっていたことだった。
月に一度、ハコネがここに来るのは、十一ヶ月前からいつも決まってこの装置が目的なのだ。
いつの間にか装置の組み立てを終えたハコネは、背負っていた荷物とは別に手で引いていたキャスターからソーダを取り出して飲んでいた。ご丁寧にカップアイスまで持ってきている。件の大災害から大分落ち着いたとはいえ、まだ手に入らないことも多いアイスクリームをわざわざ今日のために用意したのかと呆れ半分、感心半分の気持ちで少しだけ笑ってしまった。
空ではまた、ひばりが鳴いている。
プラスチックカップの中の水位が半分になったところで、ハコネはラップトップのスイッチを入れた。
微かなモーターの機動音と共に、パラボラアンテナが首を左右に振り始める。
それに合わせて投影機が、少しずつ靄のようなぼんやりとした映像を幾つも宙に写し始めた。靄は少しずつ濃度を増していき、やがてパステルカラーの人型の雲がぽつりぽつりと浮かび始める。
その数、ちょうど六人分。
――――― 先月よりも、二人分増えている。
色とりどりの綿雲の横にそれぞれ浮かぶ文字は、今はもうこの世に居ない人物の名前だ。
やがて動き出した綿雲は、装置のスピーカー越しに口々にハコネに向かって話し始めた。それを満足そうに眺めながら、綿雲の言葉に嬉しそうに相槌を打つハコネの姿と反比例して、ツガルの表情はますます曇っていく。
ハコネの作ったこの装置にも、それを信じているハコネにも、ツガルには未だに納得が出来ていない。
―――――ハコネは、ばかだ。
かつて、あの感染症による大災害で次々と死んでいった仲間たち。
その『幽霊』を、こんな装置で呼び出せると―――― 呼び出せているのだと、ハコネは本気で信じているのだ。
イタコ・システム=八十七号。
十一ヶ月前、久々に会ったツガルに初めて披露した時、ハコネは誇らし気にその装置の名をそう呼んだ。
――――― このパラボラアンテナでさ、電磁波による死者の思念の波長をキャッチして、ね。それを個人の生前の発言や情報アクセス記録なんかのデータを元に、言葉や映像に変換させる。
――――そう。言うなれば、生者の言葉に『翻訳』するんだ。
そう嬉々として語るハコネの言葉は、確かに装置の名前を含め、ラボで生前の仲間たちが話していたアイディアや研究の成果が所々に見られるものではあったけれども。
それでもその装置は、ツガルがラボで思い描いていた着地点とはあまりにもかけ離れているように感じられてならなかった。
尤もらしく起動する装置は、確かに何かを拾って変換しているようではあった。
だが、それが果たして本当に彼らの幽霊の言葉なのかという点については、大いに疑問が残るとツガルは考えている。
第一に、生前のデータがある程度揃っていれば、そこに死者の思念などというものが無くてもある程度は故人の再現は可能なはずだ。
第二に、仮に死者の思念とやらがこの世に存在するとしても、あの大災害で喪われた仲間たちの多くにそれが通用するのかは怪しかった。
周りも自分も分からなくなり、ただのろのろと動き回りながら誰彼構わず噛み付き、襲い掛かってくるようになった彼らを、一体どの時点で死んでいたとするのか。
仮にウイルスによる変異を遂げたその時を死と仮定するとして、その時点で既に心は壊されているというのに、一体どうやってその思念を呼べるというのだろうか。
そして ―――――――
『ハコネ、どうした? どっか痛いのか?』
談笑していたはずの人型の雲たちの一つが心配そうな声を上げたのがふと耳に入り、考え事から引き戻される。
そのまま呼ばれた方へと頭を向けたツガルは、予想外の景色を目にしてぎょっとした。
つい先程まではツガルと対照的なまでの上機嫌で、ニコニコと幽霊の映像と話をしていたはずのハコネの顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。
その両目には、今にも決壊しそうなほどに涙が溢れている。
そのまま顔を腕に沈めてしまったハコネの周りで、綿雲たちから口々に心配そうな音声が流れてくるのを少し離れた場所で眺めながら、ツガルの口元は思わず「なんで」という形に動いていた。
――――― あれほど皆の「幽霊」を呼べるようになったと喜んでいたのに、何故。
ツガルの言葉など聞きやしないで、五年もの年月の熱量を装置を改良させることにばかり注いできたくせに。
そう思いながらも、心の何処かではその表情に、納得と安堵を感じていたのも事実だった。
ハコネはちゃんと分かっていたのだ。
彼らがもうこの世に居ないことなど百も承知で、それでも少しでも彼らともっと話がしたかったのだ。
もう一度、ツガルの口が、今度は明確な意思をもって動いた。
『―――――― ハコネ』
しかしその声は、同時に響いたスピーカー越しの音声によって上書きされてしまった。
「……ツガル」
顔を上げたハコネの目から遂に溢れ出た大粒の涙が、頬をぼろぼろと流れていく。
その視線の先はツガルではなく、薄い緑の綿雲の映像の方に向けられていた。
「何で死んじゃったの」
嗚咽と共にハコネが語り掛けるその綿雲の下には、最もありふれた面白味のないフォントで「ツガル」と書かれた名前が浮かんでいた。
―――――ハコネは、ばかだ。
ツガルは自分の顔が、微かに歪んだのを感じた。
感染者になって死んでいった仲間たちに、幽霊になる程の心がまだ残っているのか、ツガルは知らない。
だが、あの中で幽霊として現れることが出来るのが一人だけだとしたら、それは自分だろうとは思っていた。
五年より少し前に起きたあの大災害で、感染者の脅威に追われながら唯一生き残ったのは、ハコネとツガルの二人だけだったのだから。
このラボの跡地で自ら命を絶つという選択をした自分だけが、現にこうして一人遺された仲間に語り掛けることも出来ずに立ち尽くしている。
そしてハコネは綿雲のアバターで幽霊を再生する装置を作り、本物の幽霊には気付きもしないのだ。
「皆、何で死んじゃったんだよ」
ハコネの嗚咽混じりの声を聞きながら、ツガルは静かに目を閉じた。
災害で死んだ他の仲間たちが皆あの綿雲の中にいるだなんて、そんなことがある訳が無いのに。
綿雲の中にまぼろしの幽霊を封じ込めて、ハコネは毎月この草叢へとやって来る。
―――――ハコネは、ばかだ。
大声を出せば自分はここにいると伝えられるのなら、最早実体もないこの喉が潰れてしまっても構わないのに。
今日もハコネに自分の姿は見えず、ツガルは綿雲の中に入って話をすることも出来ず、ただデータと装置によって成り立った幽霊と話すハコネを横から眺めるだけなのだ。
それでも、毎月ここに来ると知っているから。
例え語らうことが出来ずとも、こうして会いに来てしまう。
そしてきっと、それは来月も繰り返されるのだ。
―――― ハコネ。
こうして傍に居るのに、綿雲たちと違って声を掛けることも出来なくて、ごめん。
あの大災害の後、生きることをやめてしまって、ごめん。
置いて逝ってしまって、ごめん。
『―――― ごめんね』
もう一度ハコネに向かって呟いた言葉は、やはりスピーカー越しの綿雲の幽霊に掻き消されてしまった。
「また会いに来たよ」 善吉_B @zenkichi_b
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