紙とペンと処方箋

てこ/ひかり

紙とペンと処方箋

「お大事に」


 受付のお姉さんの柔らかな声を背に受けながら、私はふらふらとした足取りで病院を後にした。昨日の夜からどうも頭痛がすると思っていたら、やはり風邪を引いていたようだ。ここのところ仕事漬けの毎日だったから、無理が祟ったのかもしれない。帰ったら薬を飲んで早く寝ようと、私は急いで自宅へと戻った。


 家に戻ると、私は昨日の洗濯物も風呂掃除も放っぽり出してベッドへと倒れ込んだ。別に動けないというわけでもないが、とにかく起き上がるのも怠くてしょうがない。こんな症状は生まれて初めてだった。私は床に転がったポーチに何とか手を伸ばし、毛布の中で先ほど調剤薬局からもらった白い紙包みを取り出した。

「……?」

 ぼんやりと霞んだ視界の中で、私は微かに呻き声を上げた。

 白い紙包みの中に入っていたのは……真っ白な紙と一本のボールペンだった。

 

 初めは熱にうなされて幻覚を見ているのかと思った。てっきり風邪薬が入っているものだと思っていたが、どこからどう見てもこれは紙とペンだ。何だか急に頭痛が酷くなった気がして、私は寝転んだまま顔をしかめた。

 これは一体どういうことなのだろう? 何かの間違いだろうか?

 まさかこれを飲み込めという意味でもあるまい。朦朧とする頭で紙とペンを握りしめつつ、私は診察の先生の顔を思い出し、ハッとなった。


 まさか……私の症状は本当は風邪なのではなく、もっと重たい病気だったんじゃないだろうか? 


 思えば先生は、ただの風邪にしてはやけに暗い、重たい顔色をしていた。まるで死人でも見つめるような悲痛な目で私を見て、「楽になりますから」とだけ言って私に処方箋を手渡した。

 その処方箋を元に出されたのがこの紙とペンだとしたら……。私はズキズキと痛む喉でゴクリと唾を飲み込んだ。


 癌などの大病は、本人には病状を知らされないケースが多いと聞く。もしかしたらこれは、私に取り返しのつかない病が見つかって、薬なんかでは助からないという先生からの無言のメッセージかもしれない。私の病気に必要なのは、薬よりも紙とペンだったのだ。


 だとするとこの紙とペンは、「遺書を書け」とか、そういう意味なのだろうか。あるいは「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出し、今のうちに終活の準備をしておけということだろうか。「楽になりますから」というのは、「この紙にできるだけ、生きているうちに自分の想いを全部吐き出しておきなさい」ということなのかもしれない。


 気がつくと、私は泣いていた。体の震えが止まらなかった。ポロポロと枕を濡らす涙もそのままに、私は震える指でボールペンのキャップを取った。ただ楽になりたい、その一心で、私は白い紙の上にペンを走らせた。何匹も何匹も、パンダの絵を描いた。気がつくと私は夢中になって、毛布の中でパンダの絵を描いていた。


 思えば私は子供の頃、絵を描くのが大好きだった。昔はこうやって布団の中で、寝る間も惜しんで広告の裏に落書きをしていたものだった。ゾウ、キリン、パンダ、ライオン……動物の絵を描くのが大好きだったのだ。


 どうして今の今まで忘れていたのだろう? 

 大きくなって成長していくにつれて、子供の頃に大事だったものが、いつの間にかとてもつまらないものに感じられるようになった。もっとキラキラして見えるもの……地位とか名誉とかお金とか、自分を大きく見せてくれるもの、みんなが欲しがってるものを私も欲しがった。


 だけど死ぬ間際になって、ようやく私は自分でも気がつかなかった自分の想いに気がついた。先生が渡してくれた”薬”で、思い出すことができたのだ。嗚呼、私はパンダの絵が描きたかったんだな、と。今更遅すぎるかもしれない。それでも私はパンダの絵を描き続けた。やがて真っ白な紙がパンダの絵で埋め尽くされたころ、私の枕はすっかり涙でビショビショになっていた。携帯電話に手を伸ばし、私は急いで病院の番号をプッシュした。


「はい、こちら桜病院です」

「先生……」

「どうされました?」

 受話器の向こうから受付のお姉さんの声が聞こえてきた。私は思わず涙ぐみながら、掠れた声を絞り出した。


「ありがとうございます。私……私のやりたいことはパンダだったんです」

「パンダ?」

「ようやく私、自分の気持ちに気がついたんです」

「え?」

「先生からもらった”薬”が、その、とても良く効いて……」

「ああ」

 すると、私の声を聞いて、受付のお姉さんが少しバツの悪そうな声を出した。

「すみません、その声田中さんでしょ? さっき風邪薬じゃなくて間違ってボールペン入れちゃって! どうしようかってこっちで大騒ぎしてたところだったんですよ。本当にごめんなさいね!」

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紙とペンと処方箋 てこ/ひかり @light317

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