三十一文字
楠秋生
紙とペンと五七五七七
私が小学校の何年生だったか、確か三年生か四年生の頃だったと思う。近所の人に誘われておばあちゃんが公民館の短歌の会に参加してきた。
「おばあちゃんは学がないからねぇ。難しいと思ったんだけど、楽しかったよ。詠んでみたいっていう気持ちがまず大事なんだって。五七五七七にするだけでも頭の体操になるってさ」
私はよくわからなかったけど、おばあちゃんが楽しそうにしてるから嬉しかった。おじいちゃんが死んじゃってから、いつもにこにこしておしゃべりが大好きだったおばあちゃんが、言葉が減ってさみしそうにしていることが多くなっていたから。
「あやちゃん、散歩に行こうか」
おばあちゃんは紙とペンを持って散歩に誘ってくる。
ぷらりぷらりと歩いては、ふと立ち止まって何かを考えてるかと思うと、一句詠んで書き留める。そののんびりした散歩が、はじめの頃は嫌いだった。だってあんまりにもとろとろしてたから。
でもおばあちゃんに段々笑顔が戻ってきて、前みたいにおしゃべりが増えてきたから、それが嬉しくてつきあってあげていた。
「ね。あやちゃんも一句、詠んでみないかい?」
「えー? そんなの、どうやったらいいかわかんないもん」
「五七五七七の文字数に言葉をおさめていけばいいんだよ。上手じゃなくったっていいじゃない。二人で楽しもうよ」
口語体と文語体とかがあることも、色々教えてもらったけど、難し過ぎてわからない。
「おばあちゃんもね、実は難しくってよくわからないんだよ。だけど、どこかに発表するわけでもないんだから、楽しくできたらいいんじゃないかな?
たとえば……」
くるりと辺りを見回して、それから空を仰いでしばらく考え、おもむろに持っていた紙にさらさらと文字を綴った。
『雑草と いう名の花は ないと聞き
そりゃあそうだと 図鑑をめくる』
「ほら、これでも五七五七七になってるだろ?」
「そんなのもありなの? ここに図鑑ないのに?」
「ありもなしもないよ。二人で楽しむだけなんだから。」
「じゃあ、考えてみる!」
「想像したことだっていいだろうしね。でも、図鑑は帰ったら広げてみようかね。おばあちゃん、花の名前をもっと知りたいよ」
おばあちゃんがあんまり楽しそうに誘うので、私も短歌を詠んでみることにした。だけど、三十一文字におさめるのは中々難しい。
『春の原 集まり遊ぶ 子どもたち
ピーピー吹くよ からすのえんどう』
『春風が 孫の頭を そっと撫で
ふわりと揺れる 髪と微笑み』
立ち止まってはペンを走らせるおばあちゃん。
なんだか悔しい。えーっと、えっと。
ぐるりと辺りを見回す。
散歩している堤防の土手にタンポポがいっぱい咲いている。風がさーっとふいて、綿毛がふわふわ舞い上がっていった。
あ!
『タンポポの 綿毛みたいに 空高く
飛んでいけたら 嬉しいな』
「こんなのどう?」
「上手いじゃないか」
おばあちゃんが目を丸くして大袈裟に褒めてくれる。本当に驚いていたのかどうかはわからないけど、その時おばあちゃんがものすごく嬉しそうにしてくれたので、私は照れくさくて胸の奥がくすぐったくなって、また詠みたいなと思うようになった。
毎週日曜日の朝は、おばあちゃんと散歩に行くようになった。帰ると植物図鑑や鳥類図鑑をを開いて咲いていた花や見かけた鳥を調べた。色の名前や季節の空や雲の呼び名は、とても美しい言葉が多くて二人でそれについて話すのも楽しかった。
短歌がうまくなったかどうかは別にして、二人ともいろんな知識が増えたと思う。それは心が豊かになることだった。
普段の生活の中でも、周りの景色に目をやって小さな幸せを見つけることができるようになった。学校でいやなことがあったときや、お母さんに叱られたとき、落ち込んでしまった心を浮上させることが簡単にできるようになったのは、とても幸せなことだったと思う。
中学生になると、部活や友達との遊びが増えて日曜日の散歩は時々しか行かなくなった。おばあちゃんは一人でも行っていた。
高校生ではもっと減り、大学は地方に行ったので、お盆とお正月に帰ってきたときに一回ずつ行けたらいいくらいになってしまった。
👵 👵
いつの頃から呆けはじめていたのかわからないけど、明らかに痴呆と見てとれるようになっても、詠む歌はまともだった。上手下手は、やっぱり私にはわからないけど、ちゃんと五七五七七になっている。
見たままの景色の時もあるし、ちょっと凝ってるなと思うときもある。
そんな句を見ると、まともに会話のできなくなってきているおばあちゃんの中身が、きちんとおばあちゃんのままなんだなと思えた。
ある日、おばあちゃんがいなくなって大騒ぎになった。
「あや、おばあちゃんがまだ散歩から帰ってないんだけど、ちょっと遅くない?」
前の日飲み過ぎて、寝ぼけ眼でぼーっと起きてきた私に、出勤間際の母が心配そうに言ってきた。
「今までこんなに遅かったことなかったんだけど」
時計を見ると、もうすぐ九時になろうとしている。いつもは六時半に出かけて、七時半には帰っているのだ。遅いときでも八時くらい。これはかなり遅い。何かあったのかな。
「もっと早く起こしてくれたら良かったのに!」
「起こしたけど起きなかったのよ。その辺まで見に行ってみたけど、いつもどこを歩いているのか知らないから見つけられなくて」
「わかった。とりあえずいつものコースを探してみる」
「今日はお休みして家で待ってるわ。すれ違いで帰ってくるかもしれないし。見つかったらすぐに連絡ちょうだいね」
仕事人間でいつもしゃきしゃきしている母がおろおろしている。早く見つけて来なきゃ。
私は運動靴を履いて駆け出した。
冬の冷たい風がぴゅうっと髪をさらっていく。天気はいいので、風が止まるとそんなに寒くはないけれど、日陰に留まっていると冷えるだろう。
ちゃんとあったかい格好、してるかな。しまった。ストールか何かかけてあげられるもの、持ってくればよかった。
ピルルル
スマホが鳴り出す。
見つかったのかな!?
慌ててポケットから取り出すと、単身赴任している父からだ。
「おばあちゃん、いなくなったんだって? 父さん、帰った方がいいか?」
高速に乗れば三時間ほどで帰ってこれる距離だ。
「うーん。ちょっと探してみる。どうしても見つからなかったら電話するね」
電話を切ると、とりあえず一番よく行く公園を抜けるコースを回ってみる。周囲も見ながら走ったけど見つからない。河川敷のコースにも、駅の方を回るコースにもいない。
どうしよう。ホントにいない。
運動不足なので、息が切れてしまう。心臓がバクバクいっている。
迷子になっちゃったのかな。それとも事故?
悪いことを考えてしまうのを振り払うように首を振って両手でぺしぺしと自分の頬を叩く。
えーっと、他は?
ふーっと息を吐き出して空を仰いで考える。
その時、空高く鳥の渡るのが目に入った。
「あ! 運動公園だ!」
あそこには冬鳥が渡ってくる。それを見に行ったのかもしれない!
公園の池にはコハクチョウが来ていた。池の周囲にはおばあちゃんの姿は見えないけれど、周遊コースを回ってみる。
すると紙切れが一枚落ちているのを見つけた。拾ってみると『冬鳥の』とだけ書いてある。おばあちゃんの字だ! ここに来てる! でも歌になってない? ぐるりを見回してもいないので、先に進むと、また一枚落ちている。『渡りてきたる』の文字。いつもは句になったものを書き留めていたのに……。
胸騒ぎを覚えつつ、また走る。
『北の国から』『旅の終わりに』『コハクチョウ』
ヘンゼルとグレーテルが道標に石を落としていったように、おばあちゃんの歩いた後に歌になる前の言葉を書き留めた紙が落ちている。
それを追っておばあちゃんを探した。
「おばあちゃん‼️」
「おや、今日はあやちゃんも来たのかい」
おばあちゃんは、
その姿にほーっと胸を撫で下ろすも、ちょっと怖くなった。時間の感覚がおかしくなっているのかもしれない。
それでも無事は無事だったので、父と母にすぐに連絡する。おばあちゃんの体は冷えきっていたので、母が車で迎えに来てくれた。
その事があってから、おばあちゃんの散歩には必ずついていくことにした。どうしても行けないときは、「今日はお休みしようね」というと納得してくれた。
九十歳近くなっていたおばあちゃんは、そのままだんだん散歩に出る回数が減っていった。かわりに家の中でも紙とペンをずーっと持っているようになった。いつでもいつでも思いつく歌を書き留める。
だけどそのうちその紙切れの歌も、だんだん思いついた部分だけになってきた。あの公園のときのように。
庭の桜が満開になった朝。
「おばあちゃん、まだ冷えるからもうお
縁側でずいぶん長く花見をしているおばあちゃんを呼びに行った。
膝の上にはいつもの紙とペン。そして一首。
あ、久しぶりにちゃんと一首書けたんだ。
『縁側で 孫と一緒に 見る桜
幸い多き 我が命かな』
そして周りに散らばる紙切れには、たくさんの言葉たち。
『桜花や』
『満開の』
『我が人生の』
『みたされおりし』
『満開の 桜でみつる 我が心』
『幸い多き』
『孫の顔』
薄紅色の紙切れは桜の絨毯のようだ。
「おばあちゃん、桜の精霊みたいだよ」
👵 👵
桜を眺めながら、そのまま微笑みを浮かべて亡くなっていたおばあちゃん。最後まで紙とペンを持っていた。五七五七七を考えながら。
今ごろは、おじいちゃんに教えてあげてるかもしれない。
三十一文字 楠秋生 @yunikon
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