「紙とペンとインク」→(翻訳)→「手の平と指と血」
沢田和早
紙とペンとインク
私は旅人だ。
漂泊の日々に身を置いてかれこれ三十年。それでもまだ道半ばと言ったところだ。
惑星ボンウコは半径十万キロメートルの巨大な星。しかも大地は全て陸続きなので乗り物は使わず徒歩で旅をしている。世界一周を成し遂げる前に私の寿命が尽きるのは間違いなさそうだ。
惑星ボンウコには多くの民族が生息している。風習も人種も宗教もそして言語も様々だ。だがさほど不自由は感じない。万能の自動翻訳機を持っているからだ。これがあればどの土地でも容易に意思疎通ができる。私の心強い旅の相棒だ。
「ふむ、これはかなり古い型だな」
先日訪れた貿易都市ガムラで修理屋の親爺が無愛想に言った。
「画像センサの解像度がかなり低く旧式だ。これでは細かい文字も乱雑な文章も読み取れん。交換したらどうかね」
「いや、別に訪れた土地で読書をする予定はない。町の看板や飯屋のメニューは問題なく読み取れているんだ。交換の必要はないよ」
自動翻訳機は音声入出力機能の他に、書かれた文字を読み込んで翻訳する機能も持っている。ただし、そちらの機能はあまり使ったことがない。言葉で話せばほとんどの用事を済ませられるからだ。
「そうかい。なら無理には勧めん。わしが言うより実際に自分で体験したほうが納得できるだろうしな。この惑星には変わった種族がたくさん生息している。装備は充実させておいたほうがいいぞ。ホラ、充電完了だ。持ってけ」
「そうだな。肝に銘じておくよ」
メンテナンスが終了した翻訳機と親爺の忠告だけを受取って私は店を出た。
次の目的地はムゴンという辺境地だ。
私は訪れる土地の下調べを極力しないことにしている。治安危険レベルや物価水準など、旅人として最低の情報は収集しておくが、それ以外は敢えて知ろうとしない。何の先入観も持たずに見知らぬ土地の風景や人々に触れたいのだ。
「落ち着いて穏やかな良い場所じゃないか」
ムゴンはこの惑星でよく見掛ける何の変哲もない土地だった。整然と並ぶ人家、整備された道路、そこを歩くムゴン人たち。その外見は私とよく似ていた。ただ、一カ所、大きく違う点があった。どのムゴン人も左手が異様に大きいのだ。
「親爺の言葉通りだな。実に変わっている」
通りを歩くムゴン人は誰も無駄口を叩かない。二人連れ、三人連れでさえもお喋りを楽しんでいる者は一人もいない。ただ彼らは左手を上げて互いに手の平を見せ合ったり、これもまた異様に長い右手の人差し指を左の手の平に押し当てたりしているだけだった。
「疲れたな。何か飲むか」
カップの絵の看板を掲げた
中に入ると店員らしき女性が無言で左手を上げた。そこには赤い文字で何か書かれていた。翻訳するまでもない。きっと「いらっしゃいませ」とでも書いてあるのだろう。
案内されたテーブルにつき、翻訳機をメニューにかざす。翻訳されたメニューが画面に表示された。
「コフィがあるな。これにしよう」
コフィは惑星ボンウコで人気のある飲料のひとつだ。ほとんどの土地の店に置いてある。迷った時はこれを頼めば外れることは滅多にない。
先ほどの店員が水を持ってやって来た。私は翻訳機を口に当てた。
「コフィひとつ」
直ちに翻訳機がムゴン語に訳してくれるはずだった。が、どうしたことか翻訳機は何も喋らない。店員は首を傾げている。
「コフィ、ひとつ」
ゆっくりと言葉を切って発音する。駄目だ。やはり翻訳機は何も喋らない。
店員は困った顔をしてこちらに左手を向けている。変だな、こんなことは初めてだ。先日修理屋でメンテナンスしたばかりなのにもう壊れたのか。それにしてもその左手は何だ。なぜ私に手の平を見せるのだ。
「仕方ない」
私はメニューを取ると翻訳機がコフィと訳した項目を指で示した。それでようやく理解できたようだ。店員は大きく頷くと去っていった。
「あの親爺、画像センサの交換を断った腹いせに何か細工をしたんじゃないだろうな」
証拠もなく人を疑いたくはないが、それ以外に考えられない。いずれにしても修理が必要だ。この土地に腕のいい修理屋はあるだろうか。
「それにしても静かだな」
店内には客が十人近くいる。だが喋っている者は一人もいない。通りでみた光景と同じだ。連れのある者はみんな左手を掲げたり、右の人差し指を手の平に押し当てたりしている。
「あの行為に何か意味があるのか」
私はコフィを飲みながらじっくりと彼らを観察した。すぐにわかった。彼らは右の人差し指を使って左の手の平に文字を書いているのだ。人差し指をペンにして、紙に見立てた左の手の平に赤い文字を綴り、それを見せ合いながら意思疎通をしているらしかった。
「どうしてわざわざあんなことを。直接喋ればいいのに……んっ」
右肩に何かが触れた。振り向くと少年が立っていた。店員と同じく異様に大きな左手を私に向けている。そこには三行の赤い文字が書かれていた。初めて見る文字だ。きっとムゴン語だろう。
「何か用か」
翻訳機に向かって話す。駄目だ。やはり翻訳機は何も喋らない。
と、少年が翻訳機に向かって何かを言った。ここに来て初めて聞くムゴン語だった。先日立ち寄ったガムラの言葉に似ている。
『おじさん困っているみたいだね。よかったら助けてあげるよ』
翻訳機が冷たい言葉で訳してくれた。同時に少し驚いた。少年が喋ったのはムゴン語ではなくガムラ語であると、翻訳機の画面に表示されていたからだ。どうりで似ているはずだ。
「それは助かる。実は翻訳機の調子が悪くてな。この辺りに修理屋があったら教えて欲しい」
テーブルを挟んで私の正面に座った少年はいかにも残念という顔をした。
『ここにはないよ。貿易都市ガムラにでも行かなきゃ無理。でも心配は要らないよ。その翻訳機は壊れてないから』
「いや、壊れている。ムゴン語の翻訳ができないのだ。それよりどうして君はガムラ語を喋るのだ。ムゴン人ならムゴン語を喋ればいいだろう」
その言葉を待っていたと言わんばかりに少年がにっこりと笑った。
『おじさんは何も知らずにここへ来たんだね。ムゴン語は音を持たないんだ。文字だけの言語。言葉に対応する発音がないんだ。だから翻訳機も喋れなかったんだよ。ボクがガムラ語で話すのは、そうしないと翻訳機が機能しないからなんだ』
「なんだと!」
驚かざるを得なかった。まさか音を持たない言語が存在するとは夢にも思わなかった。
逆ならわかる。文字を持たず、口から発する言葉だけで意思疎通をする種族は大勢いた。彼らは紙に書いて記録することができないので、口承だけで文化を伝えている。
だがその逆、文字言葉は持つが音声言葉を持たない種族に会うのは初めてだ。
『ボクたちは音で言葉を伝えない。文字のみで言葉を伝える。左の手の平が紙。右の人差し指がペン。この紙とペンを使って文字を書き、意思疎通を図っているのさ。数万年の間続けられてきたこの営みによって、左手は肥大化し、右の人差し指はとても長くなった。進化の一例と言えるだろうね』
「いや、待て。紙とペンだけでは文字は書けん。インクが必要だろう」
『うん、要る。ムゴン人のインクは血だよ。文字を書こう、そう意識した途端、右人差し指の先端から血を滲み出させる機構が、ムゴン人の肉体には備わっているんだ。これもまた数万年の進化のうちに獲得した体質と言えるだろうね』
それで納得した。店員の手の平の文字は赤かった。通行人や店内の客の手の平の文字も赤かった。あれは自分の血を使って書いていたからなのか。
「君たちの文化はよくわかった。だがそれはもう時代遅れではないか。紙やインクのない大昔ならいざ知らず。今は筆記具も電子デバイスもある。わざわざ手や指や血を使わずとも、文字で遣り取りできるじゃないか」
『そうさ。だから公的な意思疎通には道具を使っている。だけど私的なこと、例えば他愛もない井戸端会議、内緒話、それから恋人同士の愛の囁きなんかは、これまでと同じ、手と指と血を使わずにはいられないんだよ』
「なぜだ」
『おじさんは翻訳機の合成音声をどう感じる? 機械的で感情のない音声だと思わない。そう、それは声ではなくただの音。意味を持った耳障りな雑音でしょ。それと同じだよ。紙に書かれた文字、画面に表示された文字、それらはムゴン人にとっては言葉でなく、無機質な画像に過ぎないのさ。機械じゃなく口から発せられた声でなくては真の言葉を伝えられないように、道具じゃない手と指と血で書かれた文字でなくては真の言葉を伝えられない、ムゴン人はそう考えているんだ』
もはや何も言い返せなかった。紙とペンとインク、私たちにとっては単なる道具だ。しかしムゴン人にとって、それは自分の肉体の一部である手と指と血、そして本当の気持ちを伝えるための唯一の方法なのだ。
「ありがとう。君のおかげで翻訳機を修理に出さずに済んだ。ところで君の左手の文字、それはムゴン語か」
『うん。そうだよ』
「何と書いてあるのだ」
『これは……ううん、ボクの口からじゃなく翻訳機を使って読んでみれば』
私は少年の手の平に翻訳機を近付けた。軽い警告音と共にエラーが表示された。読み取れなかったらしい。
「やはり修理が必要だな。明日にでもここを発ち、ガムラへ戻って画像センサを交換してもらおう」
年寄りの忠告には素直に従うべきだった。それから疑って悪かったな、親爺。
「紙とペンとインク」→(翻訳)→「手の平と指と血」 沢田和早 @123456789
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