【KAC3】セフレ関係はラブコメになりますか?

星海 航平

第1話

 ――ピピピ、ピピピ。

 いつの間にか、うつらうつらと寝こけてかけていたらしい。

 ベッドサイドで鳴り出した電話の呼び出し音に、意識が現実へと浮かび上がってくる。

 腕を伸ばして、受話器を手に取った。

「ふぁい?」

 思い切り寝ぼけた声が出てしまった。

 電話の相手はホテルのフロントだった。

 ほんの二、三言、言葉を交わし、すぐに受話器を置く。

 それから、背後を振り返った。

「灯里。ご休憩なら、あと残り十五分だってさ」

「……うみゅう~」

 布団の中から寝込みに巣穴を襲われた、どっかの動物みたいな声が聞こえた。灯里はもそもそと、頭の天辺までかけ布団を引っかぶろうとする。

「おい、どうすんだよ? ご宿泊に切り替えるのか?」

 重ねて訊いた。

「……」

 およそ七秒間の黙考の後、灯里はやはりもそもそとした動きでベッドから這い出した。

「……帰る」

 灯里は何も身にまとわず、裸のままだった。照明を必要最低限に落とした部屋の中で、むき出しになった灯里の背中だけが白く見えた。裸足のまま、ぺたぺたとシャワールームへと消えてゆく。

 そもそも悩むまでもなく、実家暮らしの灯里には外泊のハードルが高い。

 シャワールームから水音が僅かに聞こえてきた。

「あんまり時間をかけるなよー」

 そちらに声をかけつつ、こちらもベットの上に身体を起こす。

「そんなこと言ったって、外に出るのにすっぴんってわけにはいかないでしょお」

 灯里がぶうたれる声がエコーがかって聞こえた。

「俺もシャワーを浴びたいんだよ。残り時間、あんまりないし」

「だからって、シャワー室に乱入してこないでよね」

 言われるまでもなく、そんなつもりはなかった。灯里の裸なら、ついさっきまでさんざん堪能した。

「すぐに身支度するから、もう少し待ってて」

 シャワールームから聞こえてくる言い訳を聞き流しながら、ベッドサイドに置いていたスマホを手に取った。電源を入れて、液晶画面で時刻を確認する。

 大方の予想通り、『すぐの身支度』とやらにはかなりの時間がかかった。灯里と入れ替わりで、慌ててシャワールームに飛び込む。

「あとは家に帰って寝るだけなんだから、そんなに気張って化粧を直すことないだろ」

 シャワーのお湯を出しながら、ついついいつもの文句を言ってしまう。

「オトナの女はそうもいかないのよ」

 スカートのホックと格闘しているらしい灯里の反論が聞こえた。大人の女なら、無理してウエストサイズの合わないタイトスカートなんか着なきゃいいのに。

 本当にざっとお湯を浴びただけで、シャワールームを出た。灯里と姿見を取り合いながら、服を着替える。何とかタイムリミットまでに二人とも一応の身だしなみが整った。

 無人精算機でチェックアウトして、ホテルの外に出る。

 街はもちろん、とっぷりと夜だった。

「ううう、終電に間に合わないかも」

 細い左手首を返して、小さな銀色の腕時計を確認した灯里が愚痴った。

「無理に今晩、逢う必要はなかったんじゃないか?」

 こちらには若干の精神的余裕がある。我が家に最寄りの駅を通る路線は明かりの実家に向かう路線より、終電の時刻が一時間近く遅いのだ。

「だって、貴方に抱いて欲しかったんだもの。セフレとして、当然でしょ」

 俺と腕を組んで歩きながら、灯里はまだぶうたれていた。


 俺、佐久利さくり文将ふみまさと灯里――三津島みつしま灯里あかりとが会社の外で逢うようになってから、もう三か月になる。同じ総務課に勤めていた頃には、所属する係違いの単なる同僚の一人にすぎなかった。それが、俺に営業一課への転属が決まり、その送別会があった晩に、深い仲になってしまったのだ。

 その夜はふだん酒を飲むなんてちっとも聞いていなかった灯里がぐでんぐでんに酔っぱらってしまった。そのまま、二軒三軒と飲み屋のハシゴにつき合わされているうちに、二人きりになってしまったことまでは俺も覚えていた。ところが、翌朝目覚めてみたら、二人とも裸のまま、ラブホテルのベッドの上だったというわけだ。

 当然、土下座して、こんなことになってしまったことを灯里に謝った。男として当然のことだ。

 ところが、素肌にシーツを巻き付けただけの灯里はちょっと眉尻を下げながら、へらっと笑っただけだった。

「謝らないといけないのはわたしの方かも。佐久利さんの彼女さんに悪いことしちゃった」

 当時の俺には、付き合い始めたばかりの恋人がいることになっていた。お相手は転属する先の営業一課に於いて、一番の美貌と敏腕さとを会社の内外に知られた五十嵐いがらし陽子ようこだった。花形部署である営業一課への栄転と合わせて、よく『逆・玉の輿』などと言われた。

 ところが、その実態は全然違った。五十嵐陽子はずっと以前から、同じ営業一課の朽木くつき慎一郎しんいちろうと交際していた。そして、この朽木慎一郎というヤツがとんでもないクズ男だった。美人の才媛、五十嵐陽子を恋人としていながら、その彼女に隠れて、なんと四つ又の浮気をしていたのだ。陽子にしてみれば、ほっぺたにビンタをぶちかましてとっとと手切れしてしまえば、せいせいしたことだろう。

 もっとも、表立ってそんなことはできなかった。慎一郎は我が社のナンバー3である朽木常務の長男で、将来の栄達が約束されたサラブレッドだった。そんな相手にビンタをぶちかませば、即日解雇間違いなしに決まっている。

 人気のない会議室で二人が繰り広げていた修羅場に運悪く出くわした俺は、知りたくもないそんな秘密を知ってしまった。そしてその時、陽子はほとんど面識のなかった俺に自分の腕を絡めて、なんとこう宣言したのだった。

「ちょうどよかったわ、慎一郎さん。浮気をしたのは貴方だけじゃなかったの。この人がわたしの新しいカレよ!」

 その場で思いついた出まかせに決まっていた。

 でも、『慎一郎と陽子とが破局し、俺が陽子の新しい恋人になった』という話は見る見るうちに、真実であるということにされてしまった。慎一郎と陽子、二人のとてつもなく高いプライドが俺という生贄を必要としていたせいだった。

 かくして、当時の俺は『常務の嫡男を手玉に取る才媛の新しい彼氏』に認定されていたのだ。

「その……こんなの、一夜限りの過ちだし、何ならわたし、佐久利さんのセフレでいいから」

 セックスフレンドを意味する灯里の言葉に、俺は動揺を隠せなかった。

 なぜなら、慎一郎に対する当てつけとして体よく利用されるだけの俺は陽子の肌に指一本触れたことがなかったのだから。

「……い、いや、そんなわけには……」

「でも、男の人って高級フレンチみたいな女性とばかり付き合ってると気疲れしちゃうって聞きましたよ。わたしじゃ大衆食堂の生姜焼き定食みたいなものでしょうけど、気疲れした佐久利さんの心が癒せるのなら、わたしはセフレで構いませんから」

 そんなわけで、俺と灯里とはセフレ――セックスフレンドになったのだった。


 三か月経った今でも、俺の『五十嵐陽子の彼氏』という立場に変わりはなかった。もっとも、その陰で陽子は実に五人の男とのアバンチュールを楽しんでいるようだった。

「クソつまらない総務から営業への栄転を人事に口利きしてあげたのよ。仮面彼氏の役を務めるくらい、何ともないでしょう?」

 とは、我が仮面彼女嬢のお言葉だ。おかげで、本当に肉体関係のある相手とはセフレにならざるを得ないなんて当方の事情は斟酌に値しないものらしい。まったく忌々しい話だった。


 結局、灯里は終電に間に合わなかった。

 何となく二人で人通りが絶えた駅前を歩く。

「タクシー、使うか?」

「待ち行列が長いわ。それに、今月は財政がちょっと厳しい」

 手当が厚い営業職と違って、総務の給料が渋いことは知っている。

「……」

 会話が途切れた。足を止めて、灯里の表情を見る。

 人の姿が減った夜の街は人工の光で不必要に明るかった。

 灯里が言った。

「……もうセフレは要らない?」

 要らない空気を読んだようだ。

 一呼吸置いて、答える。

「セフレの灯里なら、もう要らないな」

「……そう」

 灯里は俯いた。わずかに肩が震えている。勘違いさせてしまった。

 言葉を継いだ。

「そろそろきちんと『彼女』ってことにしないと」

 灯里が弾かれたみたいに顔を上げた。

「いいい、今の彼女さんはどうするの?」

 らしくもなくどもる様子に、苦笑する。

「くだらない社内政治に気取られて、要らない気遣いをさせてしまった。謝る」

「そ、それじゃあ……」

 一言も説明していなかったけれど、薄々気づいていたようだ。

「後にも先にも、『俺の彼女』は灯里一人だけだよ」

「わたしだって、セフレも恋人も、貴方一人だけだから」

 灯里の目尻から光るモノがこぼれた。

 両腕を伸ばして、灯里の身体を抱き寄せる。

「それじゃ、さっきのラブホに戻ろう」

 灯里が泣き笑いの表情を見せた。

「わたしはもう貴方のセフレじゃないんじゃないの?」

 自信満々に答えた。

「彼女になら、もっとえっちなことをしたくなるに決まってるじゃないか!」

 灯里が吹き出した。そして、彼女は言った。

「わたしが泥酔したふりをして、最初に誘惑したときから、ずっとえっちじゃないの」

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