「実は僕、近々死ぬ事になりまして。」

くにえミリセ

第1話

【 僕 】



風呂場で2、3匹、小さな虫が飛んでいる、なんとも不快だ。

シャワーを虫にめがけてぶっかけてみても何ごともなかったようになおも飛び続ける。


コイツらこの風呂場という限られた空間でいったい何の楽しみがあるんだろう。ここで生まれてひたすら飛ぶだけ。そして死ぬ。


あぁ、僕のようだ。


僕は、あと少しで40になる。40年、生きてきたけど特にこれといって何もない。

何も残していない。


家庭を持ってるわけでもない。

仕事で何か実績をあげたわけでもない。ましてや世の中のために何か生産したとかあるわけない。


趣味といえばマンガを読む、落書き程度に描いてみたりもするけれど所詮、落書き。


そんな僕は、先日、医者に「死ぬ」

と宣告された。余命は、1年。


だから僕は、少ない友人にラインを送った。


『実は僕、近々死ぬ事になりまして』



【宣告】



会社の検診でひっかかった。

医療機関で再検査しなくてはならなくなった。結果を聞きにまた病院へ。病院はいくつになっても苦手。あの匂い、待合室。窓から見える木々の景色は、葉っぱを落とし、寂しそうに揺れていた。そんな息がつまる場所で僕は、じっと座っていた。しばらくして


「春野 亮さーん。ハルノ リョウさーん。」


僕の名前が呼ばれた。再検査の結果を聞く。

そして言われたんだ。


「死にます」と。


ドラマで見るような重々しい雰囲気じゃない。本人より先に家族が呼ばれ、診察室から出てきた家族は、嘘っぽい笑顔で『大丈夫、すぐに治るらしいわ。』って本人に伝えるような、そんなんじゃ全然なかった。


ためらいがちでは、あるけれど医者は、いきなり僕本人に真顔で、そして淡々と口にするのだ。余命宣告を‥‥。


もうそれからの医者の言葉は、耳に入っては来なかった。まず、生活習慣を整えてこれからの治療をどんな風に‥‥。治療だとか、なんだとか、医者の口から出てきそうなキーワードは、どんどん僕の頭からフェイドアウトしていった。


だからといって僕には、代わりに医者の話を聞いてくれる家族はいない。いや、ばあちゃんが一人いるけど、80近いばあちゃんに付き添ってもらうなんてできない。


ばあちゃんは、20歳はたちで僕の母親を産み、母親もまた、20歳はたちで僕を産んだ。その母親は、僕が小学1年の時に病気で亡くなった。父親とは、僕が3歳くらいの時に離婚したらしい。今どこで何をしているかなんて全然知らない。そんな家庭で育ったけど、ばあちゃんの愛情は、たっぷりもらった。今もばあちゃんの事が大好きだ。だから、迷惑かけたくない。


病院からの帰り道、意外に僕は、冷静だった。ふつうなら、ふらふらとおぼつかない足取りで塀に頭を擦り付け、『なんで僕なんだ!僕が何をしたんだ!何で死ななきゃならないんだ!!』って涙するだろう。拳から血が出るくらいガンガン塀を叩くだろう。

でも僕は、そんな事はしなかった。


この先、生きていてもただ同じ毎日の繰り返し。そう思って暮らしてきたから。そう僕は‥‥。風呂場の虫だ。


でも、気がかりなのは、ばあちゃん。僕が死んだらばあちゃんを誰が支えてくれるのか、

僕はお世話になったばあちゃんを最期までちゃんと看取ると心に決めていたのに。


帰ってばあちゃんの顔を見た途端、涙が溢れた。


気づかれないように自分の部屋に逃げ込んで部屋の天井をただただ見ていた。


それからは冷静を取り戻し、いろんな事を考えた。まず、ばあちゃんの事を頼める人に連絡しなきゃ。それから‥‥。そうだ、遺品を整理してもらうのはどうしよう。デジタル機器の処分は?スマホには、見られたくないエッチな写真もある。会社の案件や生命保険ってどうなってたかな、とか。



【 会社】



余命宣告を受けたとて、僕は今、生きている。また、新しい週の始まりに会社にいる。

会社の仲間達もこのデスクもなんら変わりはしない。でも頭の中は、 『どうせ死ぬんだから』とすぐに思うようになっていた。食べる物も身体に良い物とか、そうでないとか、

健康になるための運動は?とか、お酒やタバコの量だとかそんなのがどうでもいい。

毎日の生活に未練とかあんまりなかったせいだろうか、『死ぬ』というより、『楽になる』の言葉の方がしっくりする。それも嘘ではない。


モノクロで切り取られた写真が淡々とスライドショーで流れているようなオフィスだった。


先輩社員

「春野?さっきから電話鳴ってるよ。

どうしたの?ぼんやりして。」


「‥‥。」

「は、はい」


やる気が出ない。だるい。



【出会い】



日曜日にちょっと外に出てみた。


風呂場の虫だって稀に窓から外に出る時もあるさ。


何気に向かったのは本屋。マンガが好きだから、なんとなくかな。そこで僕は、ある親子と出会ったんだ。


僕はマンガや雑誌をパラパラとめくりながら歩いていて誰かとぶつかった。


僕(亮)

「あっ、ごめんなさい。」


ぶつかった人は7歳くらいの男の子だった。ぶつかった拍子にその子が抱えていた何冊もの本がドサっと床に落ちた。男の子はそれを拾おうとしゃがんだ。僕の声に男の子は振り向いてニコリと笑った。なんだか可愛いというか、真の笑顔という笑顔だった。

それから僕の方を向き直し、胸の辺りで手のひらを小さく揺らした。そして僕の後ろから母親らしき人が来てこう言った。


男の子の母親

「『気にしないで』って言ってます。」


「すみません、ぶつかっちゃって‥‥。」

「よそ見をしてた僕が完全に悪いです。ケガとかないですよね?」


僕が男の子の母親にそう聞いたら


男の子の母親

「私にじゃなくて、この子に聞いてあげてください。」


僕は、もっともだと思った。


「ケガはないですか?」


男の子は、また さっき見せた真の笑顔でニコリと笑って頷いた。


僕は、男の子が落とした本を拾うのを手伝いながら


「絵本いっぱいですね、好きなんですか?」


と聞いた。

男の子は、僕の顔を見ずに拾った絵本と床を交互に見ていた。うつむき加減で頭を揺らしながらこう言った。


男の子

「はい、この絵本、好きです。」


差し出してくれたのは『おおきなかぶ』や

『はじめてのおるすばん』あぁ、それ、僕、覚えてる、昔、ばあちゃんに読んでもらってた。

懐かしいなぁと思った途端、涙が溢れて止まらなくなった。僕が死んだ後、ばあちゃんが気がかりな事は、これから先も解決策なんてない。だけども人前で泣いてしまうなんて‥‥。


そうだ、そういえば、この男の子は僕と話しをする時に僕の『顎あご』を見なかった。僕は、4歳の時に食器棚のガラスに顎をぶつけて大きなケガをした。傷跡は、いまでも、けっこう目立つくらいに残っている。それがいつもコンプレックスだった。特に初対面の人と話す時に、その人が僕の『顎』を見ている、その視線を感じて辛かった。この男の子は、僕の顔を見なかったのでなんか不思議な感じがした。


泣いてしまった僕を変に思ったのか何かを感じ取ってくれたのか、男の子の母親はカバンの中を探りながら、


男の子の母親

「今度、幼稚園で子ども達に読み聞かせのボランティアをするんだけど、来ませんか?」


そう言って、1枚、チラシをくれた。


男の子の母親

「安藤(あんどう)ゆかです。」


すかさず男の子は


男の子

「安藤康太(あんどうこうた)です。

犬を飼ってます。名前は、スイカです。

僕はダウン症です。」


ゆっくりと言った。


「‥‥‥‥。」


ゆか

「じゃ。さよなら。」


康太

「さよなら。」


「あ、あ、はい。」



【すみれまつり】



バサッ!!


部屋のローテーブルにさっき本屋で買ってきたものを軽く投げ置いた。袋から中身が少し飛び出た。マンガ雑誌二冊、ちょっとエッチな雑誌一冊。そして、安藤なんとかさんからもらったチラシ1枚。


安藤‥‥。なんていったかな、したの名前。

僕は、チラシを手に取ってみた。

あぁ、ゆか。安藤ゆかさんかぁ。

今度の土曜日にすみれ幼稚園ですみれ祭りがあるらしい。1コーナーとして安藤さんが読み聞かせをすると書いてあった。


行ってみようかな、いや、ほんとに行って変に思われたりしないだろうか。でも、なんだか気になる。どうしよう。


‥‥‥。


あっ!もうそんなのいいんだった。何をどんなふうに思われようがどうせ僕は、

もう‥‥。だったら、気になるなら、行こう。何思われたってもう終わるんだし。そして僕は、今までの僕だっらけして行かなさそうな[すみれまつり]とやらに足を運ぶことにした。


そう、気になったのは、あの男の子、安藤康太の笑顔と、その子が『ダウン症』ということ。そしてそれををさらっと告白してること。


ダウン症?言葉は、知ってるけど、説明しなさいと言われたら、出来ない。


僕は、カレンダーに、[すみれまつり]

と書き込んでからスマホを手にした。

『ダウン症 』と文字を打ち込み、検索したのだ。



【ダウン症】


〔ダウン症患者の染色体、22対の常染色体のうち21番染色体だけは3本の組〈トリソミー〉になっており、これがダウン症候群を引き起こす原因である。〕


‥‥。


なんだか難しいなぁ、


〔成長発達がゆっくり‥‥。〕

〔身体的な合併症が生じうることもあり、心臓の病気‥‥。〕


まぁ、いいよ、あの子はあの子だ。



【安藤親子】



すみれまつりの日、天気は秋晴れ。空気が美味しかった。すみれ幼稚園の近くまで来ると

子ども達のにぎやかな声がだんだん大きくなってきた。お父さん、お母さん、おじいちゃんおばあちゃん、先生。大人もこども楽しそうだ。そちらから見た僕は、いったいどんな顔をしているんだろう。


あっ、安藤ゆかさん、絵本の読み聞かせは、もうはじまっていた。彼女の声に一瞬で引き込まれた。優しくて美しい、柔らかな声だった。子供たちは彼女の持つ絵本に集中し、真剣に聞き入っていた。三角座りをして彼女の前に集まっている。子ども達の目はキラキラ輝いて見える。教室に秋の日差しが窓から漏れて彼女と子ども達をつつんでいた。なんとも穏やかな光景だった。


一通り聞き終わって僕は、そっと帰ろうとしていた。ん?誰かが僕の袖口を引っ張っている。振り返るとあの子、安藤康太だ。

人懐っこいその子は、僕が帰ろうとするのを阻止しようとしてる。


「こんにちは」


康太

「こんにちは」


僕が彼と目を合わせるために中腰の姿勢で挨拶すると康太も中腰になって挨拶をしてくれた。おもしろい子だな。そして康太は姿勢をゆっくりもどして何秒か後、僕の顎の傷跡をなんの躊躇もなく手のひらでそっとさわったんだ。


人って、顔を触られるのってけっこう嫌だったりするもんなのに、僕は、しばらく顔をそむけることもなく、康太の小さな指先を感じていた。不思議だ、くすぐったいとも感じなかった。


僕の左の方から、康太の母親、安藤ゆかが来て


ゆか

「ほんとに来てくれたんですね。ありがとうこざいます。」


「あぁ、近くを通りかかったんで‥‥。」


よくある嘘。僕は、[すみれまつり]をカレンダーにまで書き込んでいたじゃないか。


ゆか

「ふふっ、どうでしたか?」


彼女は、僕の嘘を見透かして優しく笑い、

聞いてきた。


「あ、あの、素敵でした。」


そんな言葉しか出なかった。

ほんとは、もっともっと感じたことを言いたかったのに。


ゆか

「また、今度、別の幼稚園で読み聞かせするんですけどよかったら、是非‥‥。」


「行き、行き、行きます。」


ゆか

「連絡先教えてもらってもいいですか?

日時がまだ未定なんで。」


「えっ、あっ、あっ、‥‥。」


ゆか

「スマホ出して下さい。ほーらスマホ。」


僕はがポケットからスマホを出すと


ゆか

「はい、振りますよー。ほーら、振る。」


なかば強引にラインの友だち追加をさせられた。



【偏見1】



僕は、両親がいない。ばあちゃんが僕を育ててくれた。じいちゃんは、僕が産まれる前に既に他界していたから、顔は、写真でしか知らない。


小学5年のとき学校行事である自然学校の費用がクラス内でなくなるという事件があった。ひとりの男子が騒いだ。『俺の持ってきた納付袋がない!』

誰かが小さな声で呟いた。『春野かもよ。』

しっかり聞こえた。僕がばあちゃんしかいない家庭で育ったから?‥‥。


その時のことは、今も鮮明に覚えている。腹が立って仕方がなかった。僕の家庭は、ばあちゃんしかいなかったけど、お金に困っていることはなかった。人並みに健康で文化的な生活をしていた。僕は、『疑われるようなことはしてません。』はっきりみんなの前で言った。

その場にいた先生は、『あー、もしかしてみんなから預かった納付袋の中に既に紛れてるかも。先生、もう一度見てみるので、みんなもあたりを確認してみてください。』とまずは、先生が自分自身のミスかもしれない、と自分を疑ったので、それ以上は、騒ぎにならなかった。


結局、宿題提出のノートに納付袋が挟まったまま、そいつが提出してしまっていたことが判明したんだ。


先生が道徳的な先生で良かった。けれど、あれから僕は、『勉強を頑張る。』そう心に決めた。


両親がいないからって二度と馬鹿にされたくない。そう思った。


僕は、中学は帰宅部だった。勉強したかった。そんな僕を見ていたばあちゃんは、


『なんで勉強ばっかり、するの?』

と聞いた。


僕は、


『両親がいないからって馬鹿にされたくない。』

と言ったら


ばあちゃんは


『そういう発言をするあんたが一番、両親がいない子を馬鹿にしてるのよ。』


と言った。


なんだか、最近はこんな感じで、昔の事を思い出す。走馬灯とまで早くないけどゆっくりと、あの世に向かっているようだ。



【安藤ゆか】



リビングでテレビを見てた。ラインの通知音にスマホを手に取ると、安藤ゆかからだった。


《ゆか》

{こんにちは。これから、よろしくお願いします。

あ、まずは、自己紹介。安藤ゆか。

息子が1人います。康太です。38歳で康太を産みました。康太は、7歳。えー、ですので、今、私は、35歳です。} 既読


「45だろ!!」


僕は、思わず声に出してしまった。

その場にいたばあちゃんが


ばあちゃん

「亮?何?」


老眼鏡をずらしながら僕に聞いた。


「あっ、ごめん、ばあちゃん。なんでもないよ。」


すぐにまた安藤ゆかから続きのラインがきた。


《ゆか》

{よかったら、あなたのことも聞かせて下さい。} 既読


僕は、二階の自分の部屋に移動して、

寝そべりながらラインの返信をタップした。


《亮》

{こんにちは。春野亮です。さっそくのラインありがとうございます。僕は、安藤さんより5つほど若いです。趣味は、マンガを読むことかな。

たまに描いたりもするけど下手です。(笑)}

既読


{今日の読み聞かせ、ほんとに良かったです。

なんというか、穏やかな気持ちになりました。} 既読


《ゆか》

{ありがとう。今度は、是非、ご家族で来てください!もしお子様おられるのなら、康太と友達になれるかなぁなんて‥‥。} 既読


《亮》

{僕は、独身です。ばあちゃんが僕のたった一人の家族です。} 既読


《ゆか》

{そうなんですか、あっ、じゃ、そろそろ。

康太も眠そうなんで‥‥。また。} 既読


《亮》

{おやすみなさい} 既読


《ゆか》

{おやすみなさい} 既読



今日は、なんだかゆっくり眠れそうだ。



【花 雲 風】


いつも通勤に通る道。いつもと違って見えるのは何故だろう。


駅までの道に小さな畑がある。その畑の縁ふちに赤い花がぽつりぽつりと咲いていた。


こんな花、初めて見たけど、この時期、いつも咲いてたのかなぁ。

けっこう大きい花。パッと目を引く。


僕は、スマホですぐに検索してみた。

[秋 赤い花 畑の縁ふち]とキーワードを入力した。

『彼岸花』だ。綺麗な花だ。

名前があるんだ。どんな花にも。あたりまえだ。でも今までの僕なら

気にも止めなかった。


空を見上げた。雲が、動いている。あぁ、雲ってあんなに優雅にゆっくり泳ぐんだなぁ。


風を感じた。柔らかい風だ。髪の毛が揺れた。風に匂いがあるなんて知らなかった。

なんていうんだろう。土と草とコンクリートの混じった匂いがする。


何もかもが今までの僕とは違って僕の中に入ってきたんだ。



【偏見2】



ゆかさんの絵本の読み聞かせの日、僕は

着て行く服を迷っていた。

服で迷ったなんていつ以来だろう。二十代後半に付き合っていたあの子との初デートの時ぐらいだ。


園に着くと、もう康太が来ていた。園児と遊んでいた。砂場で自分よりも小さい子どもたちと笑っていた。その傍らで微笑んで見ているゆかさんがいた。園児のひとりが何気なく

康太に言った。


園児

「お兄ちゃん、病気?」


小さなこどもは、純粋過ぎる。思った事をオブラートに包まず発言する。時に残酷なまでに。


康太

「ダウン症です。」


康太はもう幾度もそれを言ってきたかのようにさらっと言った。

そばにいたゆかさんは、


ゆか

「障がいがあるの。だからみんなには、簡単に出来ることも時間がかかったりするの。」


園児

「神様が間違えて産まれさせたんだよね。先生に聞いた事がある。」


悪気なく言う。


ゆか

「神様は、間違えてないよ。わざとだよ。

何をするのも、ここにいるみんなより、少し時間がかかる事があるけど、そんな康太が産まれて来てくれたのは、みんなに会うためだよ。」


ゆかさんはそう言って、微笑んだ。


ゆか

「さあ、お片づけしよう。お部屋に戻って手を洗おう。絵本のお話、はじめるよぉ。」


その場にいた数人の園児は、砂場に散らかったおもちゃを片付けはじめた。


康太もまたゆっくりとシャベルを手に取った。



【胸が高鳴る】



ゆか

「よかったら一緒に帰りませんか?」


思ってもない彼女の言葉に僕はドキドキした。少年じゃあるまいし、なんなんだ。僕は。


「は、はい。」


ゆか

「うどん、食べませんかか?」


「は、はい。」


ゆか

「近くに美味しい店があるんです。どうですか?」


「は、はい。」


ゆか

「時間、大丈夫ですか?」


「は、はい。」


ゆか

「綺麗なお店じゃないんだけど、いいですか?」


「は、はい。」


ゆか

「あなたの名前は?」


「は、はい。」


「ん?‥‥‥‥。」


ゆか

「‥‥‥‥。」



ふたりは、同時に思い切り笑い合った。



【同じ】


うどんつゆのいい匂いがする。ガヤガヤ騒がしい店内でゆかさんと康太と僕。3人並んでうどんをすすった。


「ゆかさん、すごく立派だと思います。」

僕は、少し唐突に言ってしまった。


ゆか

「うん?何?」


「障がいをもった子を育てるって大変なのに。すごいと思います。」


ゆか

「ち、が、う。」


「えっ?」


ゆか

「障がいの有無じゃない。」


ゆか

「障がいがなくてもやんちゃでしょっちゅう友達とケンカしている子。

友達をいじめる子。家庭内暴力を振るう子。

いろんな子がいるでしょ、私は、そういう子のお母さんの方が大変だと思うんだけどなぁ。」


ゆか

「よく言われるんだぁ。今みたいに『障がいがあったら大変でしょう?』って。でも、どのお母さんもお父さんも、みんなそれぞれ違う大変さがあるんじゃないかな。」


あぁ、なんて言ったらいいんだろう。彼女の言葉は、僕の心にしみ入ってきた。


康太は時折、僕を見てにこりと笑う。そうだな。そうなんだよ。と思った。



店を出ると少し肌寒かった。


ゆか

「懐かしいな。よく旦那と康太と私、この道、歩いた‥‥。」


「また、いつでも歩けるじないですか。」


ゆか

「もう出来ないよ、夢にしか出てこれなくなった。」


「えっ、もしかしてその、あの‥‥。」


ゆか

「そう、死んじゃった。」


「‥‥。」


ゆか

「母子家庭だゎ。」


「‥‥。」


「あの、母子家庭で馬鹿にされたり、学校なんかで康太が嫌な目にあったら僕、抗議してやりますから!」


思わず、そう言ってしまった。

でもその時、ふとばあちゃんの言葉を思い出した。

あぁ、そうだ、母子家庭イコール馬鹿にされるって言葉が僕の口から出る事自体、僕が一番、母子家庭を偏見視しているんだ。

昔、ばあちゃんに言われた事が今、やっと分かった。



【未練? 】



「うっ、うーっ。うっ、うーっ。」


僕は、うなされなて起きてた。


夢を見ていた。川の向こう岸で誰が手招きをする。川に入り、少し歩いたところで振り返って僕は‥‥。逃げていた。パシャパシャと水しぶきを飛ばし、走って逃げていたんだ。


まだこの世に未練があるのか?たぶん‥‥。


勉強ばっかりしてた、学生時代、割といいと世間が言う会社に入ったものの、

何かいい事あっただろうか?心からの友人ができたわけじゃない。薄っぺらで表面上の友人‥‥。


でも今の感情は‥‥。なんだか違った。

こう、なんていうか、『まだ生きたい。』

と思い始めていた‥‥。



【会いたい】



ゆかさんに会いたい。康太に会いたい。


僕は思わずラインをした。



《亮》

{おはようございます} 既読


《亮》

{あの、知り合いの娘さんでに5歳の女の子がいるのですが、その子の誕生日のプレゼントに絵本を買ってあげようと思っています。

どんなのがいいか、一緒に選んでいただけますか?} 既読



嘘。嘘だ。口実。

しばらくして返事がきた。



《ゆか》

{OK!!} 既読


なんかあっさり

OKをもらった。


それから何度も見え見えの嘘で彼女と康太を誘い出し、僕は最後の季節を楽しんだ。

もう、秋から冬になろうとしていた。


ある時僕は、彼女に聞いた。

「安藤さんは、康太の将来とか不安になったりすること、ありますか?」


ゆか

「前にも言ったのと同じ事だけど、障がいのない人も、いつ、事故や病気で、身体が不自由になるか分かんないんだよ。だから、もう、考えない。疲れるから。」


と言った後すぐに彼女は、こう続けた。


ゆか

「なあんて、そうでも思わないと生きていけないの。だから、ほんとはそう自分に言い聞かせてるだけかも。」


彼女は強い自分を演じていたんだろうか。


いつ誰が事故や病気で‥‥ってところは

まさに僕がそれだ。突然、死を宣告されたのだから。


安藤親子と会っている心安らぐ時間でもふとした瞬間に僕は現実に引き戻される。時折くるその感情の変化に、彼女はやっぱり気づいていた。


意を決したかのように彼女は、

ゆか

「驚かないよ。何があっても。」

と力強く言った。


「えっ?!」


ゆか

「最初に出会った時、泣いてたよね?」


僕は、もう今度はためらう事のない涙がたくさん出てしゃくりあげながら、全てを話し始めた。



【ばあちゃんと安藤親子】



ばあちゃんが上機嫌で肉じゃがを作っている。今日は、安藤親子が家うちに来る。

嬉しそうなばあちゃんの姿に僕はとてもあったかい気持ちになった。


すっかり冬支度を始めた外の景色。

マフラーや手袋をしている人もちらほら

見え始めた季節だけど僕の家うちは、

とってもポカポカしていた。


そして2人がやって来た。ばあちゃんと安藤親子が仲良くなるまでまったく時間はかからなかった。


康太は、すぐにばあちゃんの手を触り微笑む。あぁ、こういう何気ない康太の仕草に僕もどれほど癒されてきただろう。


ばあちゃんと安藤親子と僕は、肉じゃがを頬張り、たわいもない話しをした。


それから僕たちは、さんぽに出た。

ばあちゃんに合わせて4人は、ゆっくりと歩いた。近くの公園で僕たちは、ベンチに腰をかけた。座っていると寒さが増す。風が冷たかった。


僕は唐突に

「ねえ、ちょっとみんなの手袋、貸してくれない?」


ばあちゃん

「どうして?」


「いいからさ、貸して。」


みんなが僕に手袋を差し出してくれた。

僕はその手袋を4枚重ねてはめた。分厚くなったその手でコートのボタンを外してみた。


ゆか

「春野くん?」


ばあちゃん

「亮? 何してんの?」


「ダウン症の子どもたちってこんな感じでボタンの開け閉めをしてるって前に聞いたことがある。」


「やりづらいね。なかなかうまく外せないや。」


ゆか

「春野くん‥‥。」


「ばあちゃん、僕、安藤さん達を駅まで送って行くからさ、先に帰って。」


ばあちゃん

「あいよ。気をつけてね。」


「ばあちゃんもね。」


ゆか

「今日は、ありがとうございました。

また‥‥。」


康太

「さようなら。」


ばあちゃん

「あいよ、さよなら。また来てね。」


僕ら3人は、駅に向かって歩いた。薄暗くなり始めた空にきらっとひとつ星が見えた。


「ねえ、康太、あのね。」

そう言って僕は、腰をかがめ、

「僕、康太と、康太のママがだいだい

大好きだ。」

と康太の耳元で囁いた。


ゆか

「しっかり聞こえてるよ‥‥。」


康太と彼女が微笑んでいた。


それから康太が楽しそうに歌を歌い始めた。


ゆか

「あっ、この歌ね、今度、康太の学校でね、合唱大会があってね、その歌。」


「学校って支援学校?」


ゆか

「違うよ、地域の小学校だよ。」

「その小学校の中の支援学級。」


「がっきゅう?」


ゆか

「迷ったよ、支援学校の方がいいのかって。

でも、なんで康太だけ、近所のお友達と同じ小学校に行けないのか、それっておかしいだろって、思ったの。小学校に相談したら、快く『心配しないでいいです。』って言ってくれて‥‥。」


「僕、康太の学校の様子見てみたい。」

「行っていいですか?その合唱大会。」


ゆか

「えっ、うん、康太も喜ぶよ。」

「でもその後、病院行ってくれる?」

「生きようよ、信じようよ。ねえ、春野くん‥‥。」


「やだ!病院へ行ってそのまま入院とかになっら、どうするの、もう、二度とこうやって3人で歩けなくなるよ‥‥。」


ゆか

「ついてる。ずっとそばにいる。だから‥‥。」


「康太ぁー。」

僕は、思わず、康太に抱きついて泣いた。

彼女には、泣いてるとこを見られないように背を向けたんだ。



【名前】



何も知らないばあちゃんのいる家に帰った。僕はソファーで居眠りをしているばあちゃんにそっと毛布を掛けた。


『先にお風呂入るね。』

そう呟いてから僕は、浴室に行った。


風呂場には、1匹、あの虫が壁にとまっていた。こんな真冬にでもいるんだ。コイツ名前あるのかな。シャワーをかけても平気。だけど、洗剤をを吹き付けたら、あっけなく動かなくなった。


「ねえ、ばあちゃん、風呂場にいるちっちゃい虫ってさあ、名前なんていう虫?知ってる?」


僕が風呂から上がる頃には、ばあちゃんは起きていて、みかんをむいていた。


ばあちゃん

「『チョウバエ』だよ。排水溝の入り口付近に卵を産むのさ。チョウバエの理念さ。ハハハ。」


「名前、あるんだ。そりゃそうか、『風呂場の虫』なんて名前じゃないないもんな。」


ばあちゃん

「さてと、私もそろそろ、お風呂に入ろかな。」

「そうだ、亮、これからずっとあの2人と同じ未来を歩くと決めたのかい?」


「ばあちゃん。うっ。‥‥‥。」


「ばあちゃん、今までありがとう。」


ばあちゃん

「何?へんな子だねぇ。」


「僕を育ててくれてさ。僕が小さかった時、生活とかさ、ほんとは大変だった?」


ばあちゃん

「いや、援助してくれてから、だいじょう‥‥

あっ、いや、なんでもない。あっ、あっ、

お風呂、お風呂、お風呂入るね。」


援助?誰が?心に引っかかって離れない。


えっ?


まさかだよね‥‥。聞き間違いかな‥。


春野亮。そう僕は、春野亮。僕にも名前がある。

ちゃんと生きたよ。下手くそな生き方だったけど。そして死ぬまでちゃんと生きる。


安藤ゆかと、安藤康太と。



【康太の学校】



1年1組。康太は、支援学級からクラスに帰って合唱の練習をする。康太の周りは、クラスの子どもたちが集まっていた。教室で本番前の最後の歌合わせだ。


先生の指示でみんなが前に並びはじめると誰かが康太の手を引いて誘導した。誰に何を言われるのでもなく、自然に。並んでる康太は、僕と、ゆかさんに手を振った。康太の隣の子は、そっと康太の肩をトントンして、康太の顔を見て軽く頷く。

さあ、歌うよ、そう言ってるみたいに。


ゆか

「学び合い。いろんな子が康太と触れて康太も触れ合って、一緒に学んでいくの。」



【病院】



なんで約束しちゃったかな。

ゆかさんに付き添ってもらってなんだか情けないや。この待合室もやっぱり好きになれないけど、今までと違うのは隣にゆかさんがいる。だから僕は、少しでも長くあなたと一緒に過ごしたい。


「安藤さん、お願いがあるんです。」


ゆか

「何?」


「僕が死んだら、ばあちゃんを金ピカゴージャスな老人ホームに入れてあげて欲しいんです。僕は、生命保険に入ってます。そのお金で、ばあちゃんを‥‥。お願いします。」


ゆか

「いや。」

「そんなお願い、頼まれてあげない。」

「春野くん、諦めないで。生きることを諦めたらダメだよ。」


看護師

「春野さあーん。春野亮さーん。」


ゆか

「じゃ、私も一緒に入るから。」

名前を呼ばれても重たい腰を上げずにいた僕の手をゆかさんはギュッと掴んで引っ張った。


医者

「なかなか、診察に来られませんでしたが?」


「あぁ、すいません。」


医者

「死にたいんですか?」


「いや、今は、生きたいと思います。」


医者

「奥さん、亮さんは、生活習慣は、整ってますか?」


「いや、この人は、奥さんじゃ‥‥。」


ゆか

「はい、今は、会社にも行っているので、食欲もまだあるし、まだちゃんと歩けるし、

まだトイレもひとりで行けるし、排便なんかも変わったという話しは、聞いてないですし、まだ自分のことは、自分で出来るし、優しいし、穏やかだし、ちょっとそそっかしいとこもあるけどそれがお茶目っていうか‥‥あの、それから‥‥だから、だから、この人をどうか、お願いです。死なせないでください。」

ゆかさんは、息もつかないほどの速さで話しかとおもうと

「私も出来る限りのことはやります、だから

‥‥。」

と医者に頭を下げた。


僕もつられて頭を下げた。


医者

「‥‥‥‥。」


医者

「なんだか、さっきから、『まだ』『まだ』

ってなんだか、ほんとに死んじゃうみたいな言い方ですね、そんなに後ろ向いてちゃ、だめでしょ、奥さん。」


医者

「あのね、だから、これから、どうやったら、この肉体疲労、体力低下を改善していけるか、相談しましょうね、ってことですよ。」


「はっ?」


肉体疲労?体力低下?‥‥‥。何だろう。この栄養ドリンクの裏書きにあるような単語は。


ゆか

「はい、だから、なるべく、その体力低下を抑えていくため、どのような治療を‥‥?」


医者

「治療なんて大げさなものじゃないんですよ。」


ゆか

「へっ?」


「あぁ。」


ゆか

「だって、治療しないと余命1年なんでしょう?えっ、もしかして治療もできないほど?」


医者

「このままだったらね、このまま、お酒を好きなだけ飲む生活、運動もせず、タバコも控えず、あぁ、あと、いびきね、無呼吸の時あるでしょ、それ、ほんと危険で‥‥。」


医者は、すわった状態で椅子をくるっと回し、僕達の方から、デスクに向き直すとパソコンのキーボードをカチカチ叩いてこう続けた。


医者

「このままだと1年で死んじゃってもおかしくないよ。ほんとに。」


そしてまた僕の方を見て真剣に


医者

「うん。」

と言った。


看護師

「そうですね。」


ゆか

「‥‥‥‥。」


「‥‥‥‥。」


えっ?ってことは‥‥。

死なないってことだ。生きれるってことだ。

こんな普通で当たり前のことが、これほどの素晴らしいことだなんて。


別にこの世に未練などないと思っていた僕。毎日が薄暗くてぼんやりとした霧に覆われていた。でも安藤ゆかと、安藤康太に出会ってからは、周りが徐々に光りに照らされていった。この人達のそばに出来る限りいたい。そう思えるようになった。


だから、今、僕は、叫びたい。よかった!ほんとに!ほんとによかった!!


ゆか

「春野くん‥‥。」


「ああああんどうさん!」


僕は、不覚にも彼女の肩に倒れ込んでしまった。


ゆか

「何する?」

「これから何する?」


「は、はい。」


ゆか

「やりたいことやろうよ。」


「は、はい。」


ゆか

「生まれ直したんだよ。」


「は、はい。」


ゆか

「楽しく生きよう。」


「は、はい。」


ゆか

「嫌い。」


「は、はい。」


「‥‥。えっ?‥‥。」


ゆか

「だから、嫌い、嫌い、嫌い‥‥。」


そう言って彼女は、僕の手をグイッと引っ張っると、僕の唇に自分の唇を重ねたんだ。


何秒くらいたっただろうか、僕の頬を涙がつたっていた。

彼女の涙だった。


そして僕は、彼女を力強く抱きしめた。


夕暮れの帰り道、川沿いのアスファルト。僕は、この日を一生忘れないだろう。


僕もまた、こらえきれない涙が溢れ出てあたりの景色が揺らいで見えた。


そして僕らは、笑った。彼女の髪の毛を風がさらった。


康太が待ってるね、さぁ帰ろう。


ふふっ、泣き笑いなんて初めて見た気がしたよ‥‥。




【 インスタ 】



康太に恥じない生き方をしなきゃ。


そう思って起きた今日の朝は、心地の良い朝だった。天気もいい。仕事も休みだから、ばあちゃんに朝食でも作ってあげようかな。

僕は、階段を下りた。


ばあちゃんは、もう起きていて、スマホを触ってた。


ばあちゃん

「おはようさん、そうだ、亮、もうすぐあんたの誕生日だねぇ。」


「あっ、そうだ。そういえば、そう。」


ばあちゃん

「やだねぇ、自分の誕生日ぐらい覚えとかなきゃ。」


「そうだ、そう、そういや、ばあちゃんだってもうじき誕生日じゃん。」


ばあちゃん

「あっ、ばあちゃんの誕生日は、忘れたいねぇ。これ以上、歳とりたくないゎ。ハハハハハ。」


「ばあちゃん、80になるんだよね。80でスマホをバリバリ使って、すごいね。」


ばあちゃん

「あんたが教えてくれたからね。」

そう言ってスマホを閉じた。


「そうだ、ばあちゃん、朝食、僕がつくるよ。」


ばあちゃん

「あんがと。」


僕は、腕をまくると冷蔵庫から、玉子を取り出した。


「ねぇ、ばあちゃん、さっき、スマホで何してたの?」


ばあちゃん

「インスタント。」


「インスタントじゃないよ、インスタグラムだろ?」


ばあちゃん

「そう、それ。」


「何か、写真、投稿したりしてるの?」


僕は、フライパンに玉子を割り入れてそれを菜ばしでかきまわした。


ばあちゃん

「んや、見るだけ。見るの専門。」


「そう。おもしろい?」


ばあちゃん

「うん。」


「どんな写真? 風景とか?」


フライパンから、スクランブルエッグを皿に移した。


ばあちゃん

「うん?違うよ、人。車椅子の人がね、写ってるの。

いろんな所に行っていろんな場所で撮ってるの。」


「ふーん。」


チーン。

トーストも焼けた。トマトでも切ろう。


「食べ終わったらさ、僕も見たいな。」


「さあ、食べよ。ばあちゃん。

いただきます。」


ばあちゃん

「コーヒー、入れるね。」


「ありがと。」


ばあちゃんがいつも見ているというその写真は、僕と同じ位の歳の男性が車椅子で明るい表情をしていた。


一緒に写っている初老の紳士は、この男性のお父さん?勝手に想像をふくらませてしまった。旅行記録かなぁ‥‥。


僕は、自分が写っている写真なんか、アップできない。自信がない。顎に深い傷がある僕を誰が見て、何を思うか、想像すると辛いから。


ゆかさんは、僕の傷、いったいどう思ってるかな。

朝、目覚めて、この傷がなくなったらなぁって思った日が幾度もあった。生きれることになったけど、長くこのコンプレックスと付き合っていかなきゃならないことも、また事実。


そうだ。友人に送った『実は僕、近々‥‥。』ってのどうしよう。まぁ、いっか。

どうせ、誰も本気にはしてなかったから。


久しぶりにマンガでも描いてみようかな。


僕は、部屋に戻って机に向かった。



【見て欲しい】



落書きの域を超えてない。だけど僕なりに考えて描いてみた。一番最初にあの人に見せたい。もう一人、康太にも。


描いたものは、スマホで写真を撮った。ゆかさんに想いを載せてラインしてみた。


《亮》

{落書きしました (笑)}既読


《ゆか》

{ん、いいね、面白いよ (笑)}既読


{これ、私と康太?}既読


《亮》

{そうです}既読


《ゆか》

{上手} 既読

{優しい絵だね}既読


嬉しかった。

僕が描いたものを人に見せたなんて初めてかもしれない。


そうだ。インスタにでも投稿してみようかな。この絵。本名じゃないし、気軽にアップしてみよう‥‥。


なんか、今までにない僕が現れたかのようだ

すごく前向きな自分。


誰かコメントくれないかなぁ‥‥。



【ばあちゃんが秘めていたこと】



「ばあちゃん、僕、インスタ始めたよ。僕が描いたマンガや絵を投稿していこうと思っているんだ。フォローしてね。」


そう言いながら僕は、ばあちゃんにスマホを見せた。ばあちゃんに僕のユーザーネームのメモを渡した。


再度、二階の部屋に戻った僕は、また何か描きたくなった。


紙の上を鉛筆が擦れる音は、気持ちいい。


気分もいいから、なおさらだった。


ん?もう誰かがフォローしてくれてる。


えっ?!あの車椅子の投稿の人だ。なんでだろう。


その訳は、ばあちゃんが何十年もの間、秘めていたある理由があったのだ。


僕は、その理由を近日中に聞くことになる。



【まさにまさか】



それから何日か経った。僕は描いたマンガや絵をインスタにもう、何枚も投稿した。


いつも〔いいね!〕をくれるのは、車椅子で笑顔の写真を投稿してるあのユーザーだった。


何気に僕は、ばあちゃんに聞いてみた。


「僕の描いたマンガや絵にいつも〔いいね!〕をくれる人がいてね、ばあちゃんがいつもインスタで見てる車椅子の‥‥。」


ばあちゃん

「あっ、そうだ、洗濯物たたまなきゃ。」


「ごまかさないでよ、ばあちゃん!」


ばあちゃん

「‥‥‥‥。」

「もう、いいかな、いいよね。

実はね、車椅子の人は‥‥。弟。あんたの、弟なの。」


「は、はぁ?!」


ばあちゃん

「一緒によく写ってる初老の男の人は‥‥。父さんさ。あんたの。」


「‥‥‥‥。」


僕は、言葉を失った。


「は、はぁ?」

「意味がわからない。」


ばあちゃん

「実は、あんたの父さんとは、ずっと連絡取り合っていたの。」


ばあちゃん

「あんたの両親が離婚したのは、あんたの父さんの浮気が原因なんだけどね、浮気相手が、妊娠して、あんたの弟を産んだのさ。」


「生まれてすぐにその子に障がいがあることを知ったあんたの父さんは、あたしの娘である、なみ子と孫の亮を選ばなかった。」


「だけど、養育費は、亮が大学卒業するまで払ってくれてたの。」


ばあちゃんの告白に僕は、言葉を失った。

めまいがした。部屋が回転している。


聞き間違いだと思っていた。いや、聞き間違いであって欲しいと思った。今更、父親?知らない方がよかった。母さんが、ばあちゃんが、どれだけ苦労したと思ってるんだ?

僕だって‥‥。


浮気だなんて、ろくでもない父親じゃないか。離婚は、僕が3歳くらいの時だから、

僕が生まれて間もなく浮気してたってことか。嫌悪と憎悪がもくもくと僕の中で湧き立っていた。



【 誕生日 】



40になった。『なれた』といった方がいいかな。そして5日後にばあちゃんは、80になる。


ゆかさんと康太がケーキを持って来てくれた。今日は、アイツのことなんか考えず、ゆかさんと康太と、ばあちゃんと僕、この空間を楽しむんだ。


康太

「ばあちゃん、おめでとう。」

そう言いながら康太は、ばあちゃんに手作りの『肩もみ券』を渡した。

あー、僕も小学生の頃ばあちゃんに肩もみ券をあげたなぁ。一回も使ってくれなかったけど券は今でもテレビ下の引き出しに大事にしまってあることを僕は知っている。


ゆか

「タミエさん、お誕生日おめでとうございます。」


「春野くんもそうだけど、とタミエさんの誕生日もクリスマスに近い日だから、プレゼントが兼用になっちゃってすみません。えへへ。」


「これは私から、タミエさんに。」


ゆかさんは、濃い緑の包装紙に淡いピンクのリボンをつけたプレゼントをばあちゃんに渡した。


絵本『はじめてのおるすばん』

の表紙を入れた可愛い額縁だった。


ばあちゃん

「あー、なつかしいなぁ、これ。」


ばあちゃんは、ぼそりと言った。



【 生きるとは 】



ゆか

「ねぇ、春野くん、絵本、作らない?」


「どうしたの?唐突に。」

いつの間にか僕は、ゆかさんに敬語を使わなくなっていた。


ゆか

「春野くんと、何か始めたいのよ。

こう、なんていうか、生きてるぞー、みたいな感じを全身であじわいたい。 」


「新しく年も明けたし、新しく何かしようよ。」


「それで絵本?」


ゆか

「うん、春野くんには、絵を描いてもらいます。」


「おはなしは、私が考えます。」


「康太にも何か、やってもらうよ、

そうだなぁ、背景の色を塗ってもらおうか。」


「どう?春野くん。」


「それ作ってどうするの?ただ作って終わりじゃ、何か味気ないよね。」


ゆか

「自費出版する?」


「SNSにアップする?」


「読み聞かせツアーをする、なあんてね。」


「うん。安藤さん‥‥いや、ゆかさんの提案に乗るっ!最近僕、インスタにマンガや絵を投稿するようになって、それで自信がついてきたんだよね。」


ゆか

「ねぇ?生きてるって実感がするでしょ? やろう!」


「『生きている』ということって誰かを幸せにするなんだよね。ゆかさんは、康太と僕を、僕はゆかさんと康太を、康太は、ゆかさんと僕を、幸せにしてる‥‥。」


「そしてさぁ、僕らが作った絵本が誰かを幸せに導いてくれたなら、それは、すごいことだね。」


「あっ、僕、今なんかいい事言っちゃった?

へへへ。」


ゆか

「私、春野くんを好きになってよかった。」


「へへへ。」


ゆか

「おーい。そこは、『僕もゆかさんを‥‥。』と言うとこだぞ。」



【 幸せ 】



何度も、ふたりに会って、時にはうちのばあちゃんもいて、絵本制作の話をしたり、くだらないこと喋る。


僕の毎日は、朝、顔を洗って、歯を磨いて、ごはんたべて、トイレ行って、会社行って、仕事して、帰ってばあちゃんと夕食べて風呂入って、電話してラインして、寝る。


そんな毎日が愛おしいかった。


絵本の内容は、康太のなんでもない毎日をお話しにしたいとゆかさんは言う。


康太が感じる毎日は、どんな毎日だろう。




“ 僕は、康太。僕は、お気に入りのパジャマでしか寝ない。


かならず、コップ一杯の麦茶を飲まないと寝ない。


スイカ、あぁ、雑種犬ね、スイカに「おやすみ」って言ってからじゃないと寝ない。


ママに絵本を読んでもらわないと寝ない。


ママの声を聞きながらウトウトするのが好きなんだ‥‥‥‥。”



こんな内容でお話がはじまる絵本にしたいの、とゆかさんは原稿用紙を渡してくれた。



ダウン症の康太は、こんなふうにこだわりがある。学校では、ゆっくりゆっくりな康太にお友達がさりげなく手を添える、

ごはん食べる。トイレ行く。歯磨き、お風呂、変わらない毎日だけどゆっくり成長する。そんな康太を書きたいと言う。


僕は、淡く、そして、柔らかい、‘ちひろ’の絵のような康太を描きたい。


幸せだ。幸せだ。


叫びたいほどに。



【 僕らの絵本 】



何ヶ月か経った。


僕らの絵本が出来た。


題名は『僕はダウン症ですが』


製本された絵本は、淡い水彩絵の具の柔らかな感じがとてもいい、立派な絵本だった。

まずは、康太に一冊、プレゼントしよう。


康太にプレゼントするのは、世界にたったひとつのブックカバーを付けよう。布製のブックカバーに僕が直接イラストやロゴを入れて康太にプレゼントしよう。


密かにそう考えてニヤついていた。


僕らはこれを幼稚園や、小学校、児童館などで読み聞かせのボランティアをする。


インスタでも絵本の一部をアップしてみたりした。


ある時、僕は呆然としてしまう。絵本を見に来た子どもたちの中にアイツの姿があったからだ。




【 父 】



後ろの方で車椅子の横に立っていた。白髪混じりの頭。黒縁の眼鏡。少し前かがみの姿勢。絵本を読むゆかさんをじっと見つめていた。


舞台袖に僕がいることをアイツは、知っているのだろうか。


そっと近づいて声をかけてやろうか?

いやいや、今更、何を話すというのだ?


見なかった事にする。そう思い込んで心の扉を閉めた‥‥。


そう決めたはずなのに僕は、ゆかさんに

アイツが来てることを言ってしまった。



【 会わなきゃダメ 】



ゆか

「会わなきゃダメだよ!!」


「今、会わなきゃ、気持ちぶつけなきゃダメだよ。話を聞かなきゃダメだよ。相手を許すことは、自分を許すこと。

相手を許せないでいる今のイライラした自分を救いたいなら、お父さんを許してあげて。

でないと、春野くんも、前に進めないでしょ?」


「追いかける。待ってて!」


ゆかさんは、走って行った。


僕は、立ち止まったままでいた‥‥。


ゆか

「はる‥‥春野くん‥‥。」

どれくらい時間が経っただろう、戻って来たゆかさんは、息を切らして僕の名前を呼んだ。


そして、

改めて、アイツに会うことになったんだ‥‥。



【相手を知ることは許すこと 】



《ゆか》

{明日、絶対だよ!}既読


《亮》

{うん } 既読


ゆかさんがアイツとの再会を用意してくれた。


レトロな内装のカフェ。だけど緊張する。好きなコーヒーの匂いも今はなんだか癒されない。


僕は先に座って待った。ばあちゃんも一緒に来てもらえばよかったって、40にもなって甘えたこと思っていた。


控えていたタバコを吸いたくなる。


あぁ、なんて1秒1秒が長いこと。

掛け時計の秒針の音が耳についた。


『カランコロン』


ドアベルの音がした。来たか?


アイツは僕の背後から来てゆっくり僕の前に

座った。


「こんにちは。」


「こ、こんにちは。」


少し間があいた。


「何でも答えま‥‥。」


「あなたが嫌いです。」


「わたしは、あなたが好きです。」


「じゃぁ、どうして僕と母さんを捨た?!!」


声を荒げている自分に気づいた。

冷静にならなきゃ。


「僕や、母さんのこと、今まで気にはならなかったのですかっ?!」


「 気になりました。タミエさんから、何度も

あなたの写真を送ってもらいました。手紙をもらいました。あなたがどんな小学生だったか、中学は?部活は?友達は?高校進学は?何を目指し、どんな目標を持っているのか。

その都度、聞いていました。」


「僕は、あなた達に金銭的なことしかしてあげれませんでした。幸い、わたしは会社を持っています。不動産もあるので経済的に困らない生活をしています。仕送りしか出来ない、そんな父親をあなたは、軽蔑するでしょう。だから、タミエさんにわたしのことは、

何も話さないでほしいとお願いしました。」


「わたしは、高志たかしを守ってやりたかったんです。」


「タカシ?‥‥。弟?」


「そうです。わたしはあなたのお母さん以外の女性との間にこどもが出来て、その子に障がいがあることを知りました。」


「あなたとあなたのお母さんであるなみ子

と‥‥。共に生活する選択をしなかったわたしを‥‥。憎んでください。」



「不倫なんて、浮気なんて最低だ。憎んでやるよ、今まで以上に!!」


「‥‥。ごめんなさい。」


あぁ、違う、違う。違う、違う。

そうじゃない。許すんだ。でないと僕は、

ゆかさんと康太と幸せになれない。


秒針の音がした。次第に音が大きくなっていく気がする。


息を吸った。ゆっくり吐いた。


そして‥‥。僕は、

「高志にも会わせてください。」


「僕自身が前に進むために。」


と言ってとっさに下を向いた。涙がテーブルに落ちた。


父親もまた、下を向いていた。しやくり上げる声を必死で抑えていた。



【 弟 】



俗に言う「腹違い」の弟と会うことになった。1つ違いの弟。


聞きたいことは、たくさんあった。


待ち合わせをしたこの間のカフェに今度は、

父親と弟がいた。


僕は、軽くおじぎをして、座った。


しばらく沈黙が続いた。


何から、聞いていいのか分からない。

聞きたいと思っていたあれも、これもは、

本当に聞きたかったことなんだろうか。


沈黙を破って僕が聞いたのは、たったひとつだった。


「幸せですか?」



【 日常 と 一大決心 】



それからの僕は、なんだか穏やかな気持ちだった。


また新作の絵本を描いてみたいと思ったり、

生きているってこういうことなんだ。


そして僕は一大決心をする。


人が、行動を起こす理由は、ふたつあると誰かが言ってた。ひとつは、自分のために。

もうひとつは相手のために。でも僕はこのふたつを同時に、そのために、行動を起こす。


まずは、ゆかさんと康太を遊園地に誘おう‥‥。


ゆかさんと康太の出会いから、もう10ヶ月ほど経ったある夏の夕暮れ。僕は、サイズも確かめずに買った指輪をふたつ握りしめていた。ひとつはゆかさんに、もうひとつは、康太にとネックレスに通した指輪。ベンチに3人並んで座った。


「あ、今日は、ありがとう。楽しかったね。」


ゆか

「うん、観覧車以外はね。」


「高いとこ、やだって言ってるのに、春野くん、無理矢理なんだもん。」


康太

「おもしろかった。ママの顔。」


ゆか

「自撮りでもしとけばよかったかな。

ハハハハハ。」


「次は、映画見たいな。康太には、ちょっと難しいかもしれないけど、『ダイバード』

とか、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』

タイムスリップの話し。あっ、『バックドラフト』知ってる?

火災によって室内の酸素が欠乏した状態で、ドアを開けたり、窓を開けたりすると、爆発するんだよ。うわぁっと炎があがるの、大量の酸素が一気に流れこむから‥‥。」


「あれ?聞いてる?」


ゆか

「康太、寝ちゃった‥‥。」


「あ、あのそうじゃなくて、ほんとは、こんな話がしたいわけじゃなくて‥‥。


けっ、けっ、けっ、‥‥。」


ゆか

「はい。よろしくお願いします。ふふふっ。指輪、見えてるよ。」


彼女は、康太の頭を膝に乗せたまま軽くおじぎをした。


「あ、はい。こ、こちらこそ‥‥。」

「この指輪、サイズ、テキトーです。一緒に直しに行ってくれますか?」


僕は、握っていたそれを彼女に渡した。


彼女は、僕の手をそっと掴んで康太のほっぺに当てた。

そして自分の手の平を重ね『ありがとう』

と呟いた。



【 亮パ 】



ゆか

「亮パぁー、遅刻するよぉー。早く起きなさい。康太は、もうとっくに朝ごはん食べてるよぉー。」


小鳥のさえずりと共にゆかさんの声で起きる。

指輪を渡してから2週間、僕らの日常が始まった。康太の学校のこともあるから、ゆかさんと康太が住んでいる家に僕がいる。スイカもいる。スイカも僕を受け入れてくれてるようだ。留守番ができる、賢い犬。

僕は亮パパの略で『亮パ』と呼ばれるようになっていた。あぁ、幸せだ。


春野ゆか、春野康太‥‥。何度も書いてみた。自分の苗字に愛する人の名前を重ね、

その重みを感じた。



【 運命 】



僕らは、家族で、休みの日に絵本の読み聞かせのボランティアを続けていた。


ある日小さな児童館に呼ばれた。なぜか地下倉庫のようなところがあった。そこで、悲劇が起こるとも知らない僕は、康太と2人で、ゆかさんより先に児童館に行って待っていた。


1組の老夫婦が話しかけてきた。


老婆

「こんにちは。」


亮・康太

「こんにちは。」


老婆

「大変だねぇ。あんた、えらいねぇ。」


老婆は、唐突にそう言った。大変?何がだろう。まさか康太の障がいのこと?

僕は出会ったばかりのゆかさんに言われたことを思い出していた。何が大変と思うかは、人それぞれだということを。

僕は今、幸せだ。


「あなたの幸せって何ですか?」


僕も、負けず、唐突に聞いてみた。


老婆

「ん?」


それから会話が途切れた。



しばらくして、なんだか煙の匂いがしてきた。えっ?!火事?


物々しく警報音が鳴る。


周りは、知り合ったばかりの老夫婦と康太と僕だけだ。


煙は、瞬く間に僕らがいる室内に流れこんで来た。


に、逃げなきゃ。僕はハンカチやら、タオルやら、ありったけの布類をその場のみんなに渡した。


「口をふさいで下さい!!」


窓がない。まともに息が吸えない。


スプリンクラーは?天井は既に煙りで白く濁りスプリンクラーの設置有無なんて確認出来ない。ただ作動してる感じは、全くなかった。


左奥の部屋から煙が来ている。火元は、そこから?


僕はみんなに出入り口へ逃げるようにと叫んだ。

その瞬間、何かに足元をひっかけた。

倒れこんでしまった。


た、た、立てない!


一瞬の間に僕はいろんなことを考えた。

このまま、僕が死んだら残されたゆかさんと康太は?ばあちゃんは?ゆかさんに康太と、その上、老いていくばあちゃんのことまでゆかさんにのしかかるじゃないか。たとえ、助かったとしても、僕が怪我を負い、身体が不自由になったらどうする?ゆかさんが、ゆかさんが、ゆかさんが‥‥。


あっ、康太?どこ?康太?


「康太ぁー!!」


手を伸ばした。康太を引き戻したかった。


『ウゥ〜、ウゥ〜、ウゥ〜、カンカンカン』

消防車のサイレンが大きく聞こえたかと思うとまたすぐに遠ざかっていった。


遠のく意識の中、

ただ

「ありがとう」

と繰り返していた。



【 理不尽】



煙突から立ち上る煙を呆然と見ていた。この煙に乗ってあの人は、雲の上に行くの?


肉体は、どこ?あなたの、笑った顔や、泣き顔や、驚いたり、拗ねたりはどこに消えるの?


大きな手のひらの温もりも、少し汗くさいあなたの匂いも、もうない。


ゆか

「タミエさん、あの人は、どうして?」


タミエ

「‥‥‥。」


ゆか

「亮パ、亮パ、亮ぉー!!!」


わたしは、もうその場から崩れそうだった。


それから1週間、2週間と過ぎても、まだあなたがそばにいるようだった。


わたしは、時折、あなたに話しかけるの、


今日は、こんなことを話したの。


ゆか

「亮パ、あなたが前にわたしに頼んだこと、覚える?『僕が死んだら、保険金でばあちゃんを金ピカゴージャスな老人ホームに入れてくれ』って言ってたこと。あれ、やっぱ、嫌だな。わたし、タミエさんと‥おばあちゃんと一緒に暮らしたいよ。」


「大好きなあなたを育ててくれたあなたの最愛のおばあちゃんと康太とわたしの3人で暮らしたいよ。いいかな‥‥。」


悲しみは、時間と共に和らぐって誰かが言ってだけど、嘘だ。もう誰も袖を通すことのないあなたのスーツ、開け閉めされないでいるあなたのカバン。箸、コップ、茶碗‥‥。見るたびに、辛いよ。


そんな毎日を過ごしてる時だった。生命保険の担当者が妙な事を言って来た‥‥。


担当者

「すみません、保険、下りないかもしれません‥‥‥。」


ゆか タミエ

「えっ?」

「どういう事でしょうか?」


担当者

「春野亮さんは、自殺だった可能性があることが分かってきて‥‥。」


ゆか

「はぁ??」

「あの人が?自殺?あり得ない!」

「亮パは、いつもいつも幸せだ、幸せだって言ってたのよ!!」


担当者

「お気持ちは、分かりますが、ちょっと耳に挟んだことがありまして。」


ゆか タミエ

「えっ?」


ゆか

「何だって言うんですか?!」


担当者

「実は、あの火事の時に亮さん、康太さんと一緒にいた老夫婦が‥‥。」


ゆか

「??」


担当者

「その老夫婦が言うには、亮さんが急にその場を動こうとしなくなり、息子さんである康太さんの手を引っ張って逃げるのを阻止したというのです。道連れにしようとされたんじゃないかと‥‥。」


ゆか

「道連れ?な、何でそんなことしなきゃいけないんですか?!」


担当者

「失礼ですが、息子さんの将来を案じてじゃないかと、老夫婦が言うのです。」


ゆか

「まさか、そんなこと、あるわけない!

将来なんて、どうなるかわからないのは、健常者だって皆同じじゃないですか、わたしと亮は、そんな話しもしたことあるのよ!」


担当者

「それで老夫婦の男性の方がとっさに康太さんの手を掴んで出口へと走ったというのです。」


ゆか

「そんな老夫婦の話しをあなた達担当者は、信じているというの?」


担当者

「いや、それだけじゃないんです‥‥。」

「実は‥‥。亮さん、以前、お友達に

自殺をほのめかす内容の文をライン送信されてるんです。」


「『実は僕、近々死ぬ事になりまして』と‥。」


ゆか

「‥‥‥。」


【 真実 】



もういい。保険が下りなくても、どうでもいい。わたしは、タミエさんと一緒に暮らすと決めていたんだもの。でも、でも、

あの人が亮が自殺だなんてことは、絶対、信じられない。まして、康太を道連れになんて、絶対、絶対、違う。


ゆか

「ねえ、康太、亮パは、火事の時、あなたの手を引っ張ったの?」


康太

「うん、『行くなっ!』って言った。」


ゆか

「あぁ、あぁ、‥‥‥。」


亮、あなたはいつも言ってたよね。『康太

は、僕に力をくれる。幸せにしてくれる』って。嫌、どうしても信じられない。道連れになんて、違う。違う。違う。


ゆか

「康太、亮パの事、好き?」


康太

「大好き。当たり前。あー、ママ、亮パは、

亮パは、もういないの?あぁっー!!」


ゆか

「ご、ごめん、そんなこと聞いて‥‥。」


康太

「あの絵本は?」

「亮パが作ってくれた僕だけのブックカバー。」

「あれ、どこ?もう、燃えちゃったの?」


ゆか

「‥‥。も、え、た?」

「燃えたって、康太、あの亮パのブックカバーの絵本、児童館に持って行ってたの?」


康太

「ご、ご、ごめんなさい。」


ゆか

「どこに置いたの?」

「亮パや、知らないおじいちゃんとおばあちゃんがいたお部屋?どこに置いてきたの?」


康太

「‥‥。左奥のお部屋。」


ゆか

「左奥?ま、まさか火元の部屋?」

「こ、康太、それ、取りに行こうとした?」


康太

「だって、だって、亮パが作ってくれたんだもん、大事なんだもん。宝物なんだもん。

でも、亮パは、『行くなっ!』って

僕の手を‥‥。」


ゆか

「!!!!!!」

「こ、康太、あぁ、康太、亮パはあなたを大事に思っていたよ。大好きだったよ。亮パも康太の事が‥‥。」


「大好きだから、康太を守ろうとしたの。」

「そうだったんだ。」

「『バックドラフト』から‥‥。」

「バックドラフトから守ろうとしたんだ。」


亮‥‥。亮‥‥。亮‥‥。わたしは、あなたと出会ってよかった。


人が生きるという事は、こんなにもろくて、でも、強い。美しい。


大好きだよ。わたしがそっちへ行ったら、すぐに見つけてね。


亮パ‥‥。


窓の外に赤い花が咲いていた。彼岸花だね‥‥。

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「実は僕、近々死ぬ事になりまして。」 くにえミリセ @kunie_mirise_26

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