KAC3: 真夜中の捕食者
鍋島小骨
真夜中の捕食者
……と思った。
現代の平凡な男子高校生なので、こういう状況は想定していない。想定していない俺が悪いのではない。状況が異常なのだ。
あまりのことに思考が現実逃避してしまう。びっくりドンキーでカリーバーグディッシュ食いたい、三百グラムで。それからあの開く木製メニューで神様殴りたい。
「
「まあ異常事態ではあるよな」
「
ふっ、と鼻で笑ったのが聞こえた。この状況で! 笑ってる場合かタコ。そういうお前は何でこんなことになってんだよ。……言えない。現状が振り切れて異常過ぎて言えない。
目下、俺は
女子高生を台車に載せて運んでいる、百歩譲ってそれ自体は別にいいとしよう。小学生ならいかにもやって遊びそうなことだ。俺たちは高校生だが、ちょっとはしゃいだと思えばよい。
異常なのは初村あやねのセーラー服が血に染まっていること、それは腹をかっ
どう考えても俺は、初村あやねの腹が裂かれているのを知った時点で救急車を呼ぶべきだったと思う。呼ぶな、外に運べと怪我人に言われてその通りにしても、運んでいる間に死んだらこれ俺が割と悪いことになりますよね? 前科つくにしろデカすぎねえ? と思ったのだが逆らえなかった。
気分的にとかではなくて、本当に、物理で、逆らえなかった。
実際俺は、初村の言葉に逆らい救急車を呼ぼうと思ってポケットのスマホに手をやったのだ。そうしたつもりだった。でも手は動かなかった。同時に勝手に首が回転して目玉が動き、空の大きな台車を視界に捉えた。
――そのサイズなら私を載せられるでしょう。引いて外まで持っていってくださる?
当然のように俺に命じる初村の声は、腸もはみ出すレベルの割腹状態に似つかわしくなく落ち着き払っていた。
ぎぎ、と関節が
君か、と思わず言うと、ええ、と答えがあった。
何でだ、と自分でも何を聞いているのか曖昧な言葉を発すると、初村はまた答えた。
――なぜって、もちろん死なないため。外で私を月光に当てていただきたいの。傷はそれで治ります。私は、吸血鬼ですから。
それで、血
「本当は何を考えていたんです? マカロンが食べたいとか? それとも私が今にも死んでしまって自分が罪に問われないか心配している?」
「大体合ってる。まあマカロンじゃなくカリーバーグディッシュだけど。あと俺の前科も心配だけど君が死なないかも心配してるよ、嘘じゃなく」
「うふふ。ありがとう、後でそれ、奢りましょう。お店を教えてくださいね」
「そりゃどうも。びっくりドンキーだよ、三百グラムで頼むわ。……痛くないのか?」
「痛い、と私が言ったら太一さん、何とかしてくれるんですか? 私、どうにもならないことをガタガタ言わない主義です」
頭がふわふわしてくる。初村ってこんな奴だったろうか。
初村あやねは俺の妹
……が?
夜の廃屋で?
日本刀振り回した男と取っ組み合いの喧嘩をして?
首ひねり千切ってブチ殺して自分は腹を斬り裂かれる?
で俺に命じて月光の当たるところに怪我を治しに行こうとしている?
吸血鬼だから?
……何て?
初村あやねなるモノは本当に架空の存在なのでは?
俺の方がどうかしているのでは?
「ご自分の気が狂っているんじゃないか、と思っている頃合いですか?」
「あっはい」
「確かに、太一さんは異常ですよ。私があの男と戦って仕留めるのを見たのに、私を恐れない。この台車を押すのに、ガタガタ揺れる場所は避けている。私を心配している」
「そりゃ、妹の親友が盛大に
「普通は喧嘩しているところを見た時点で昏倒するんです。人間に耐えられる闘気ではないので。それがあなたときたら、平気で見て、平気で近寄って、私を運んで会話もできる。さっき私は少しだけあなたを操りましたけれど、その後違和感なくコントロールを取り戻しているでしょう。沙弓が多少頑丈な方だから安心して一緒にいられるのですけれど、お兄さまのあなたは桁違いね」
「ん? 待って、沙弓知ってんのか、君がその」
「吸血鬼だということ? 知っていますよ。世界で一番大好きなお兄さまのあなたにも言わないでいてくれたなんて、本当にいい子です」
家じゃ割と邪険にされてるんだけどな。……じゃなくて、あいつ知ってんのかよ。親友が吸血鬼。どうなってんの。ていうか学校ミッション系じゃないの。
「……とにかく、これで沙弓の負担も軽くすることができます。いくら沙弓が背の高い方だとは言っても、やっぱり女の子ですもの。血を貰うには
どういう意味だ。
しかし、そう問うより前に初村は、台車の上でゆっくりと身体を起こした。腹のところで身体が変に力なく曲がる。もしかして背骨にも何か損傷があるのだろうか。そんな光景を、台車を引きながら冷静に見ている俺は正気なのだろうか。初村の言う通り異常なのか。
長い通路の終わりに差し掛かり、半分開け放した出入口から月光が射し込んでいた。初村は俺の背後から射すその光を見ている。
爛々とした瞳だ。ぐぐっ、と音が出そうなほど急速に両眼の虹彩が、焦茶から黄金色に明るく変化する。
捕食者の色だ。誰に教わるでもなくそう思った。
食物連鎖の遥か上位にいる者。
「……早く、外に出してくださいな」
身体の芯に響くようなその声。
初村あやねは怪物だ。
ものの数分でぴかぴかの新品みたいに完全回復した白いお腹を、初村あやねは制服をぺろっとめくって俺に見せた。深夜の廃屋で女子高生の生のお腹。よくない。絶対によくない。
「あっ、やっぱり生身の女の身体ではいまいちですか?」
「は? どういう意味だ、早くその腹をしまえ! 制服切れたままなら上着貸してやるから」
着ていたパーカーを脱いで突き出すと、初村は例えようもなく美しく微笑んでそれを受け取った。
「ありがとう、お借りします。……ところで今夜どうしてここにいらしたの? まあ、聞かなくても知っていますけれど」
「何?」
「あなたがよく行く廃屋の幾つかは、私の喧嘩場所なんですよ。普通の人が戦闘中の私たちを見ると健康被害がありますから。ですから私、気付いていました。あなたがよく廃屋に来ていること。その目的も」
十二単か天女の羽衣でも
そんなはずは、と思った瞬間、微笑んだままの初村は長い睫毛をはたりとひとつ扇ぐように動かし、その奥の瞳で俺を見据えて言った。
「太一さん、あなた、大きな廃屋の中の真っ暗なところで、一人っきりで
……と思った。
泣かなくてもいいじゃありませんか、と目の前で初村が笑っている。笑い事じゃねえ。泣きたくもなるわ。何で妹の親友にこんな、人には言えない性癖悟られてるんだ、俺は。
そうなのだ。初村の言う通りだ。滅びた文明の最後の一人みたいな想定でするのが好きだった。向ける相手のない欲とか、何も見えないくらいの闇に包まれてさせられているみたいな錯覚とか、そういう設定がないと出来ないほどに悪化していた。それは家で八畳の自室を真っ暗にするのじゃ駄目で、何故なら廃屋では全てのものが冷たく固く薄汚れている。俺はそれがよかった。多分俺は圧倒的な暗闇に呑み込まれたい。
だから時々、こうした廃屋に来ていた。
それがまさか、吸血鬼初村あやねの喧嘩のリングだったとは。
「いつかあなたが私を見てしまうとは思っていました。そしたらどう処理しようかと。沙弓のお兄さまだもの、殺せませんしね」
パーカーの袖からちょっと出した柔らかい指で、初村は俺の
「……でも、あなたがこういう体質なら話は別です。私の闘気に負けない男の人を久し振りに見付けました。ねえ、太一さん」
初村の両手が俺の頬から耳にかけてを包み込む。
美しい両眼が黄金色に輝く。
あ、喰われる、と思った。
初村は
「ご趣味の件は内緒にして差し上げますから、あなたも私の正体のことは黙っていてくださらない? そして時々、私に血を飲ませていただきたいの。……カリーバーグディッシュをつけましょう。三百グラムで」
「三百グラムで……」
その復唱を了承と取ったのか、初村は天上の花が
今からこの美しい吸血鬼に血を吸われるのだ。
あまりのことに思考が現実逃避してしまう。今すぐカリーバーグディッシュ食いたい、それからあの開く木製メニューで神様を。
いや、殴らなくてもいいか。俺の性癖が秘密のまま守られるなら。
この吸血鬼が、俺の秘密を守ってくれるなら。
……絶対に守ってもらわないと困るぞ。社会的に。
〈了〉
KAC3: 真夜中の捕食者 鍋島小骨 @alphecca_
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