陽炎の血脈

ちかえ

弱きカゲロウの願い

 もう泣かないで。私が死ぬのは決まっている事なのだから。

 そう言ってあげたいのに、私の唇は動かない。


 動かないのは唇だけではない。他の部分もだ。私の体力はお腹の中の子のために使われる。愚かで哀れな、新しいホモ・エペメロプテラの誕生に。


 本当に私たちは愚かな生き物だ。


 隣では、あなたが泣き続けている声が聞こえる。



***


 私は、ずっと普通の人間だと思っていた。


 母が私を産むのと引き換えに亡くなっているのは悲しい事だったけど、未熟児で産まれた私をずっと大事に大事に育ててくれた父と祖母がいるから、わりと幸せだと思っていた。


 不思議だったのは私にまったく月のものが来なかった事。


 さすがに中学を卒業しても来なかったときは病気を疑った。でもさすがに婦人科に中学生が一人で行く事は出来ない。だから恥ずかしいのを我慢して祖母に相談した。


 言われた言葉は『行かなくていい』だった。


「いいのよ。あなたは病気なんかじゃないから……」


 そう言いながら、祖母は涙ぐんでいた。


 その夜はいつもより父が晩酌で飲むお酒の量が多かったのをよく覚えている。そして酔っぱらった声で何度も『ごめんな』とつぶやくのだ。


 何が二人を悲しませているのだろう。私にはよく分からなかった。



***


 月日が経ち、私は高校生になった。


 人並みに友達も作って彼氏も出来た。


 彼氏が出来た事を祖母に何気なく話したら、すごい剣幕で『紹介しなさい!』と怒鳴られた。祖母がこんなに厳格だなんて知らなかった。


 今思えば当たり前の事だったのだけれど……。



***


 状況が一変したのは、明日に大学入学を控えたある日の事だった。


「お前、何やってるんだよ!」

「知らない! 分かんないよ! どうして!?」

「それを聞きたいのは俺の方だよ!」


 私の部屋で必死に彼を組み伏せようとする私と、それを引きはがそうとする彼。

 それは異常な光景だった。


 他のカップルなら大しておかしくないのかもしれない。でも、私たちは違う。


 厳格な祖母にそういう事は結婚してからにしろときつく言われていて、お互いにそれを了承しているのだ。


 いや、了承しているはずだった。


——血を残せ。


 頭の中に声が響いてくる。


——我らの血を受け継ぐ子を作るのだ。


 そして体がそれにしたがう。


 本当に自分は何をやっているのだろう。一体私の頭はどうしてしまったのだろう。


「た……すけ……」


 助けて……と必死で言う。なのに、自分の身体は彼を襲おうとしているのだ。


 私の異常自体がよく分かったのだろう。彼は親と祖母を呼んでくれた。



***


 そうして真っ青になった祖母から聞かされた話はやはり異常な話だった。


「陽炎の……血脈……?」


 祖母が何を言っているのか分からない。でも泣き崩れている父を見て、冗談を言われているわけではないとよくわかる。


 祖母の話してくれた話はこうだった。

 人間、いわゆるホモ・サピエンスは、猿から人間に進化した生き物である。

 でも、私や母は違った。

 私たちはカゲロウから進化した人間らしい。限りなく人間に似ているのに、全然違う生き方しか出来ない生き物。


「そんな……カゲロウが人間に進化するわけが……」


 わけの分からない話に彼の声も震えている。


「してしまったのよ。突然変異と言えば分かるかしら」


 分かるわけがない。


「きちんと科学的に証明もされているの。学名はね、『ホモ・エペメロプテラ』というの」


 馬鹿じゃないの! と怒鳴りたい。

 でも、祖母は許してくれない。聞きなさい、と静かに諭す。大事な話だから、と。


「陽炎の血脈はね、子供を産むとすぐに死んでしまうの」

「産まなければ生きていけるんですか?」


 彼の質問に祖母は首を横に振る。どうやら血を残せる時期——つまり子供を産める時期——になると、食べ物を体が受け付けなくなるらしい。今まで補給した栄養で子供をお腹の中で育てるのだ。子供を産む『陽炎の血脈』にそれ以外の選択は残されていない。


 暴れた後なのにお腹がすかないのはそのせいか、と分かる。


 男の子だったらどうなるの、と聞くと、『行為が終わってすぐに死んでしまう』と返って来た。


 そうして死んでしまった『陽炎の血脈』の体はカゲロウに戻るのだそうだ。


 まるでファンタジーだ。ここは現実世界だと思っていたのに。


「いつかまた突然変異で、子供を産んでも生き続ける事の出来る陽炎の血脈が産まれるかもしれない。陽炎の血脈はずっとそれを願っているの」


 無駄なのに、と心の中でつぶやく。無駄だと分かっているのに人間に近づこうとしているらしい。


 愚かだ、と思う。でも、私もその愚かなカゲロウの仲間なのだ。


「あなたの選択は二つよ。このまま餓死するか、彼の子を産んで死ぬか」


 私は泣き崩れるより他はなかった。



***


 そうして今に至る。


 結局私は生存本能に従って子供を産む事にした。学生結婚だけど、彼との籍も入れた。たとえ自分がカゲロウでも、産まれて来るのがカゲロウ人間でも私生児にはしたくないから。彼との子だと認めてあげたいから。


 もちろん、この婚姻について彼の両親はいい顔をしなかった。でも、最後は『どうせすぐ死ぬんだから』という残酷な言葉と共に許可を出してくれた。


 そうして今はお腹の子に栄養を吸い取られている。


 何も食べられないから奪われた力を補給する事も出来ない。お医者様が一応栄養点滴も試してくれたが、体が思い切りアレルギー反応のようなものを示して来た。もう死ぬより他はないのだ。


 そして彼は私の隣で泣いている。


 後悔しているのだろうか。私は何も後悔していないのに。


 看護婦さんやお医者さんの声が遠く聞こえる。


 お産が始まるのだ、と分かった。



 そうして私は願う。

 どうか、私の子に不幸がもたらされませんように、と。



***


 妻の墓にいつものように花を添える。


 彼女が死んだ後、無理を言って彼女を家の墓に埋葬してもらったのだ。


 いつも月命日にはこうやってお墓参りに来る。そうして彼女に毎月の出来事の報告をするのだ。愛しい愛しい俺たちの息子の事を。


 そして今日は特別な話があるのだ。きっと彼女も喜んでくれるだろう。


「なあ、俺のカゲロウ、うちの嫁が一昨日にの子を産んだんだよ」


 お前も喜んでくれるだろう、と話しかける。


 喜ばしいニュースを伝えているのに、俺の目からは涙が溢れて止まらなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

陽炎の血脈 ちかえ @ChikaeK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ