第3話 ま新しい人生(慢性血栓塞栓性肺高血圧症/CTEPH)
私は慢性血栓塞栓性肺高血圧症(
最初にその病気に気づいたのは、仕事の往路だった。出勤時、会社の駐車場にクルマを停め、少しの距離を歩く。その駐車場とオフィスの入ったビルの間に、20段ほどの階段がある。
朝のラッシュ時。
私はその20段の階段を、ひと息に上ることが出来なくなってしまった。息が切れて、両手を膝について上体を屈め、階段の途中で立ち止まってしまうからだ。人々はそんな私を避けるように流れてゆく。時折、同僚や見知らぬ人が私に声をかけてくれる。でもそれが恥ずかしくて、私はなるべく人の来ない時間に通勤し、ごくゆっくりと、一段ずつ階段を上るのが日課となった。
苦しいのは階段だけでなく、やがては長く歩くことさえ苦痛になった。幸い仕事はデスクワークだったので昼間は穏やかに過ごせた。
が、家に帰る前、郊外の大型スーパーに寄ると、レジに着くまでのあいだに息が切れてしまい、何度も立ち止まって息を整えなくてはならなくなった。
これは尋常ではない、と思った。
最初に行ったかかりつけの内科医院では、ぜん息を疑われた。
ステロイドの吸入薬を渡されて、辛い時はこれを吸いなさいと言われた。しかし効果は全くなかった。そう言うとおじいちゃん先生は、院内で胸のレントゲン写真を撮った。そこに異常が見つからず、「精神的なものかもしれないね」と言って心療内科の紹介状を書いてくれた。
心療内科では中年の女医に色々な質問をされた上に、心を落ち着ける薬が処方された。医師の言うとおりにそれを飲むと、倦怠感に襲われて、無気力さから朝が起きられなくなった。何日か仕事を休んだ末、とてもこの薬は飲み続けられないと思った。そして私の病気は精神的なものではない、と確信した。
さまざまなネットをめぐり、とりあえず大きな大学病院に行って精密検査をしてもらうことがもっとも妥当な対応だと知った。でもそういう基幹病院と呼ばれるところは、紹介状がないと法外な初診料を取られる。最初に私を心療内科に案内した医師のところに行って、『あなたの見立ては誤診の可能性がある。大学病院で診療してもらうための紹介状を書いて欲しい』などと言えるほど、私には勇気がなかった。
私は仕方なく、とても高いお金を払って大学病院の門をくぐった。
結果、その病院から他県の専門病院を紹介された。
我が県ではあなたの病気を正確に診断できる医師がいない、とその病院の若い医師は言った。言われていることの意味が、よく分からなかった。よく分からないまま、私は(またしても)紹介状と新幹線の切符を持って、大阪に来た。
「まずはゆっくり話を聞かせてください」
大阪の病院では、黒縁眼鏡の先生がそう言って面倒を見てくれた。童顔ではあるが、ベテランの風格を漂わせる不思議なお医者さんだった。
そこで私は自分の症状について細かく細かく話をした。
とにかく階段で息が切れること。時々身体が動かなくなるほど疲労感がすさまじい時があること。日常生活は送りづらくなってきたこと。そして喘息でも精神病でもないと思われること。
黒縁眼鏡の先生は、嫌な顔ひとつせずに、真剣に私の話を聞き、いくつかの質問をした。階段での呼吸の苦しさを微細に聞いてくれた時、この先生なら私の本当の病気を見つけてくれるのではないか、と思った。
その後、マウスピースをくわえての呼吸の確認や採血、レントゲン、胸にオイルを塗った上で白い機器をぐりぐりと当て、胸の中を画像化する検査などが行われた。
全ての作業が終わると、先生は厳しい顔をして言った。私が「慢性血栓塞栓性肺高血圧症である」、と。
その長い名前に面食らったけど、
「でもあなたはまだ若いし、今は良い治療法も良い薬もあります。きっと良くなりますから頑張って治しましょう」
と言ってくれた。
その言葉に、
喉元が苦しなって、途端に下まぶたがカッと熱くなった。取り乱してはいけないと思うものの、身体の反応を抑えることが出来なかった。
熱い雫が頬を伝い、恥ずかしながら私は、診察室で声を出して泣いたのだった。今まで誰も、この病気を分かってくれなかった。いま初めて、目の前の霧が晴れて先が見通せるようになった。これからはもう迷わなくて済むのだ。治療に伴う苦しさはあるかもしれない。けれどそれはいつか病が癒えるための試練だ。永遠に続くかのように思えたこの息苦しさがいつか解放される日が来るのだ。私にはそう思えた。私はその思いにすがった。
黒縁眼鏡の先生曰く、この病気は肺の中の太い血管が詰まり、狭くなるのが問題なのだと言う。そのせいで、肺で取り込まれ血液中に溶け込んだ酸素が身体にめぐりきらず、強めの動きをしただけで、疲労感が怒涛のように押し寄せるのだという。
治療法は肺の血管のなかに詰まったものを取り除く手術と、肺の血管を広げるお薬を飲むことだという。手術と聞くと大げさだけど、太ももの太い血管から管を入れ、肺の血管まで通して、管の先の小さな器具で血管の内側の詰まりを取り除くだけだといわれた。その間、全身麻酔さえ必要ないのだと。
日本でたった三千人しかいない、ごく稀な病気。
そのせいで私は30代になっても恋人も作れず、20代の後半をひたすら苦しんで生きてきた。
私は手術の同意書にサインした。
ま新しい人生が、その先に見える気がした。
Rare diseases, Intractable diseases(希少・難治性疾患) フカイ @fukai
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