第2話 killing me softly(アルツハイマー型認知症)




 よくある片思いなんだと、そう思ってもう何年たつ?

 日曜の午後、どこにも出かける用事が無くて、畳に寝転び、軒下に吊るされた風鈴を見つめている。

 叔母の病は一向に良くならない。

 妻と子どもは、水泳教室に出かけてしまい、のどかな夏の午後。麦茶とビール。どちらも麦からこしらえるのに、こんなにも違う味なのはどうしてなんだろう? 気持を紛らすように、博人は思う。


 彼女とは、一度だけ会った。

 渋るひとを、本当に強引に口説いて食事をともにした。味など、ろくにわからなかったけれど。マトウダイのアクアパッツアというメニューを見て、マトウダイがどんな魚か知っている?、と尋ねると、彼女は小首をかしげた。ふんわり、と。

「マトウダイというのはね、ずいぶんグロテスクな見た目の魚なんだよ」

「でも鯛の仲間なのでしょう?」

「鯛といっても、見た目はアジやサバのように、銀色にギラギラしていてね。野球のホームベースみたいに平たくて角ばった不格好な魚さ」

「全然想像つかないんですけど」

「しかも身体の真ん中に、あばたみたいな黒い斑紋があるんだ」

「ますます想像がつきません」

 そういって、きつね色に上手に火の入った、マトウダイの半身を、彼女は器用にフォークとナイフで取り分けると、それを口に運んだ。

 あぁ、と小さな感嘆の声が漏れた。わずかにガーリックの香り。ハマグリの強い。つけあわせのハーブと、そしてすべてを調和させるフレッシュなトマト。ふんわりした白身の魚肉のほろり。

 仕事で、プライベートで何度も利用したイタリアン・レストランの定番メニューだ。

 いま、目を閉じるだけで本当にリアルにその味を思い出すことができる。

 でもその瞬間、味など全くわからなかった。全く、わからなかった。


 叔母が脳を病んでいると診断されたのは、その日から幾ばくもないときだった。

 すでに鬼籍に入った両親を含む親族の中で、叔母だけが身寄りもなく、独身のまま暮らしていた。本家を継いだものとして、もう高齢となってしまった叔母をひとりにしておくわけにいかなかった。よって、家のひと間をあてがい、同居することにした。

 妻と子どもが叔母になじむまでにはすこし時間がかかったけれど、その距離が埋まる頃、彼は彼女と出会い、そして時を同じくして叔母は病んでしまった。

 叔母の言動がおかしくなり、猜疑心が異様に高まった今年の春。「アルツハイマー」という言葉は知っていたが、それがいまの叔母に当てはまるのかどうかを知ることがためらわれた。

 脳神経内科で脳の断層写真を撮り、医師が叔母に長い質問をする。その間、我々親族は診察室を退出させられた。診察室に呼び戻されて診断名を言われ、心配は事実になった。医師から今後の進展、治療に関し様々な話がなされる間、叔母は所在投げに爪の甘皮をいじりながら、そこに黙って座っていた。


 もちろん、その出会いと叔母の病いには全くの因果関係はない。

 彼は彼女に出会い、何年も忘れていた心のときめきを思い出した。からからに乾いていた心の一部に(そんな場所があることすらも忘れていた心の一部だ)、雨が降り、しっとりと潤いを取り戻したことを思い出した。

 彼女とはしかし、たった一度きりしか会うことが許されなかった。彼女が強く、彼を拒んだからだ。致し方がない。たった一度だけの食事。そして会社の時間に交わされた、何通ものメイル。

 それだけでも彼には、彼女が自分にぴったりのひとであることが分かった。

 おそらく彼女にとってもそうであろうと、彼は信じた。

 これは浮気ではない、と彼は思う。

 寝ていないから? いや、ちがう。そういうことではない。

 浮気、というほど浮ついたものではなく、むしろだからだ。妻にはもちろん不満などない。それは確かに、長く連れ添って多少の不平不満はあるけれど、それはどの夫婦にもあることだろう。そして子ども。それは彼が初めて知った、すべてを捨てても愛せる対象だ。

 けれど彼女は、そういうリアルとは全く異なる場所にいた。彼岸にいた。

 手に入らないから、こうしてがれるのか、とも思う。

 手に入ってしまったら、例えば妻がそうであるように、いつか平凡な日常に取り込まれてしまうのだろうか?


 叔母は、うつろな目をして、彼をじっと見つめていた。責めるでもなく、悲しむでもなく。まるで光の届かい海の底の、底なしの泥のような目の色だった。うすく唇を開けて、ほつれた髪がわずかに風になびいている。

 いまのように、誰もいない日曜の午後に、のんびりと彼女のことを思い出し、切なさが胸に込み上げてくるとふと、叔母がそこに立っていた。何も言わずに。

 彼はぎくりとして、叔母を見上げる。

 「兄ちゃん、律子ね、父さんに戦争に行かないでほしいの」

 叔母は、何の脈絡もなくそう言い出す。いつものことだ。

 「おばさん、お父さんはもう亡くなったんですよ」

 「ええそうね。それは知ってるわ。村役場のね、駐在さんが言ってたの。律子のお父さんは本当に立派な人だって。中尉さんなんだって。だから律子ね、お父さんには戦争に行ってほしくないのよ。ビルマの戦争なんて、うちには何も関係ないもの。兄ちゃんもそう思うでしょ?」


 叔母との会話はずっとそんな感じだった。

 短期記憶がほとんどなく、繰り返し思い出すのは幼少時の記憶だけ。甥である彼のことはほぼ認識できず、金持ちになった二番目の兄だと信じていた。

 「兄ちゃんはいいよね。こんな立派なお屋敷に住んでさ。あたしなんかずっと女中よ。きょうだいのなかで一番勉強できたのに、あたしだけが女中奉公にだされてさ。あれって口減らしだったんでしょ? 母さん、そう言ってたのあたし知ってるんだからね」


 妻が子どもを連れて家を出かけるのも、これに耐えられなくなったからだ。

 義理の父母ならまだしも、義理の叔母などほとんど他人だ。

 彼が仕事に行っている間、妻はこの叔母の面倒をみる。娘だって、小学校から帰宅すれば、この叔母と会話せざるを得ない。そうして彼の家庭は、徐々に穏やかな日常を見失っていった。

 医者は、アルツハイマー型認知症は、直らない病気だと言った。坂道を転がるように、加齢とともに悪化するのだという。いくつか出ている薬は、その悪化のスピードを緩めるだけで、決して完治させるものではないのだと知った。

 現代科学を持ってしても、歯が立たない病気というものがある、ということを彼は初めて知った。


 そして彼は、叔母を施設に入れた。

 もう、手に負えないと思った。


 マトウダイの彼女はずっと、彼岸の彼方から近づくことがない。

 こんなにもぴったりのパートナーだというのに。幾千万の可能性の中から、やっと出会えた自分の片割れだというのに。


 ちり、と風鈴が鳴る。

 夏の午後の、けだるい風をあびながら。


 やさしく殺してくれ。いっそ。

 畳に寝転んだまま、彼は本気でそう思った。





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