世界で二番目に清い涙たち

馬田ふらい

世界で二番目に清い涙たち

「それじゃ、ね」


 私は背を向けてキャリーバッグを曳く。いってらっしゃいと手を振る人。申し訳ないけど、ひとりひとりの顔など見れはしなかった。

 ゲートをくぐってもまだ搭乗までには時間がある。私は膨らんではち切れそうなキャリーバッグをじっと見つめてる。


「そんなに詰め込まなくてもいいだろ」


 支度の時に手伝いに来た拓巳はしつこくしつこく言ってたな。でも私は悪くない。大事な思い出が多過ぎるのが悪い。気づいてないかもしれないけど、私が捨てられないと思ったものは、私の部屋にあるものは、なんだって拓巳との思い出のタイムカプセルだ。

 このキャリーバッグが爆発したらどうなるだろう。積もり積もった十数年が、全て失くなってしまったら……。

 時計を見た。まだ大丈夫。私は恐る恐るキャリーバッグを開け、その中からそっと一枚の写真を取り出した。私と拓巳と妹の祈の三人で遊園地に行ったときの写真。三人でカメラに向かって満面の笑みを浮かべる写真。私が飛行機に乗ったら、もうこの時間は帰ってこない。拓巳は祈に惚れているのだ。姉の私だからわかる。私という邪魔者が消えたら、そしてそのとき二人の関係が上手くいっていたら、拓巳の前で、こんな顔はできないだろう。

 私は肩にかけたポーチから携帯を取り出し、ラインを開く。震える手で画面をフリックする。


『すき』


 思いのほか簡単に入力できてしまった。あとは送信ボタンを押すだけ……。目元で堰き止めた涙は、そんな狡い欲望を押しとどめた。泣き虫な拓巳は、純粋に私との別れを惜しんで泣いているはずなのに、私は……。

 私はバックスペースを押し、もう一度入力する。


『さよなら』


 今度はためらわず送信。ポンという軽い音とともにトークに想いが放り込まれる。すぐに既読がついた。そして返信。


『さようなら、ありがとう』


 何気ない拓巳の言葉が、こんなにも愛おしく、胸がバラバラになるほど切ない。喉に引っかかった言葉が、つい漏れてしまった。


「さよなら、大好きだったよ」


 アナウンスが響く。私は急いで写真をポーチに入れて、ゲートに向かう。目元にこっそり涙を抱えたまま、私は飛行機に乗り込んだ。世界で二番目に清い涙の爆弾を抱えた涙のテロリストは、もう間も無く、自分の顔面をくしゃくしゃにする。


 —————


『さよなら』

『さようなら、ありがとう』

 数時間前のラインのメッセージを何回も、何回も見直してる。そんなことして何になる。

 飛行機はもう着いただろうか。だとしたら、彼女の手が握っているのは、やめとけって散々言ったのに、あれも大事これも大事と詰め込んでパンパンになったキャリーバッグ。

 あの中にも、結局俺の居場所はなかったのだろうか。そう思うと、ため息が出る。俺は彼女の、那月にとって何者でもなかった。その現実ほど、苦しいものはない……と思いきれてない自分もいる。これもまた、腹立たしい。


 恋に序列はないと思う。誰が一番すきで、誰が二番目だとか、ないと思う。でも、同時に二人を好きになってしまうことだってある。二股だなんだと言うけど、こればっかりは仕方のないことではないか?


 俺は、那月と祈、二人ともが、この上なく愛おしいのだ。しかし、俺のモラルはそれを許さない。白黒付けろ、と理性は急かす。那月は『さよなら』と言った。じゃあどうするかは決まっているだろう?そんなことを理性は言う。

 だからといって、そんな浮気な心で祈に好きだと言えるほど、俺は単純な男ではなかった。

 俺はずっと、自分が真面目な人間だと思っていた。人を傷つけるのは嫌だし、こと自分の気持ちに関して妥協は許さなかった。自分は一途な人間だと思っていた。そんな俺にとって、この恋は罰だ。自意識過剰という大罪に対する罰なのだ。俺はまさに罪人だ。分裂した心と理性が喧嘩して、俺はどこに立てばいい?


 ふと、頭を持ち上げて机の上の写真を見る。俺と那月とその妹の祈が、三人で遊園地に行ったときのものだったっけ。みんな無邪気に笑っている。俺は世界で一番汚く醜い涙を流した。


 正午、意を決してスマホの連絡先を開く。


 —————


『好きです』


 拓巳は震えた声で言った。窓の外はもう夕暮れ。こうなるんだろうなと覚悟はしていた、けど……。携帯を耳に当てたまま、私は側にあったクッションを反対の腕で抱える。

 携帯のマイクがときどき吐き出す、「ジジッ、ジジッ」という微かなノイズ。これ、回線の向こうではきっとあの愛おしい吐息なのだろう、とか考える。あのカサついた唇の、ところどころ捲れた皮の赤身を、私への言葉が湿らしてチリチリと痺れさせているんだろうな。連絡先のアプリを開いたまま、私の名前の真上で彼の指は止まってしまって、あれこれ思い悩んでるうちにロック画面に戻されて、慌ててロックを解除するけど、また指は私の上で考え込む、そういうことが何回も何回も、あったんだろうな。そういうことを妄想して、つい口角の上がってしまう自分がいるのがムカつく。クッションを抱き締める力は、ますます強くなる。


 そう、この言葉はたしかに私に向けられた言葉だろう。これは紛れもない事実なんだろう。

 でも、その出自はきっと、私ではないのだ。今日飛び去った姉さんのために作られた言葉なのだ。処分できずに持て余した言葉を、腐らないうちに人に譲ってしまおうという魂胆を、私はもう見抜いてしまったのだ。


 あーあ。


 私がまだ純真無垢な処女のままだったら、すぐに翼だって生やして、彼の家まで飛んでっちゃったんだろうな。反対に、私がもっと我が儘で狡猾だったとしたら、彼の気持ちの美味しいところだけ器用にほじくって食べることができたんだろうな。

 私は彼の二番目。わかってる。昔っから、そんなこと。わかっていながら、それでも、一番の子のために誂えられた宝石を、騙されたふりをして自分の指に通してはにかんで見せるほど、私は軽い女ではなかった。


 だから。


「ごめんなさい」


 頭の中で作った言葉を、なるべく冷ややかに通話口に投げつけて、そのまま通話を遮断して、本心は腹の底のしまいこんでおく。そうするほかなかった。

 携帯を置いて、どさっとソファーに横たわる。空いた片腕もクッションに回して、今まで異常に力強く締め付ける。真横に傾いた部屋のどこにも彼はいない。電話は便利で優しいね。相手の顔を見なくて済むもの。だって、彼の顔はきっと涙に塗れて汚くなるから。水晶のように透き通った、姉を想う清らかな涙なんかで……。

 いや、いた。彼はそこにいた。写真立ての中に、彼は私と姉さんの間にいた。

 ああ、さっきから顔が熱い。目元が多分一番熱い。さっきの声も、語尾が少し熱かった。だから多分喉元も熱い。耳も熱い。脳みそ、肺、胃腸、背骨、息、全部熱い。


 だからかな、頰を伝う今日の涙は、いつもの涙なんかより、やっぱりちょっと冷たいな。ソファーが濡れたら困るから、クッションを離す。数年前、彼にゲームセンターで取ってもらったこのクッションも、もうしわくちゃになって元の姿には戻らない。

「大好きでした、拓巳……。大好きです、大好き……」

 独り言ち、止めどない涙の上を擦った。手の甲に乗った私の涙は、きっと世界で多分二番目に清い。

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世界で二番目に清い涙たち 馬田ふらい @marghery

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