海の色は

さくらねこ

海の色は

 ゴトゴトと揺れる電車の中は、窓を通して差す光と相まって、非常に気持ちが良かった。強い眠気を感じていたが、流れていく景色をぼーっと見ている方が気が紛れた。


 一ヶ月前に妻が亡くなった。病気知らずの元気な妻だったが、調子を崩したと思ったら二ヶ月で逝ってしまった。膵臓がんだった。膵臓がんは症状が出るのが遅く、不調を感じた頃にはすでに末期なことが多いそうだ。だから仕方ないと知り合いは言ってくれた。それでも、もっと早く気づいてやれたのではないか、何かしてやれたのではないかと悔やんでも、悔やみきれない。


 憔悴しきって、仕事も儘ならない私に上司は少し休むように勧めた。

「しっかり休んで、旅行にでも行ってこい」

 そう言った上司の言葉を思い出し、ふらっと旅行をしている。妻と旅行には何度か行ったことがあった。病気が発覚する前に妻が海が見える旅館に泊まりたいと言っていたことから旅行先は海の近くの温泉に決めた。一人で旅館という気分でもなかったので、こじんまりとした民宿を選んだ。


 ――そろそろ着くか。

 目的の小さな駅につき改札をくぐると、一台だけ停まっていたタクシーに乗った。

「美崎荘までお願いします」

 泊まる予定の民宿の名前を告げた。

「美崎荘かい。あそこはいいねぇ」

 そう言って運転手は続けた。

「若い漁師の旦那と奥さんの二人でやってたんですけどね、半月前だったかな、残念なことに、旦那が海で死んじまったんですわ」

 驚いた私は運転手に聞いた。

「インターネットに載っていたので、予約をしたんですが、今でもやっていますか」

「今は、奥さんが一人で頑張ってるって話ですよ。ほんと、同情します」

 とりあえず、民宿がやっていることに安心して、座席に深く沈み込んだ。


 三十分ほど走っただろうか。

「着きましたよ」

 運賃を払い、少し肌寒い車外に出ると、綺麗な海とまだ新しい建物が見えた。


 ――美崎荘


 看板には綺麗な字で民宿の名前が彫られてあった。その看板をくぐり、中に入ってしばらくすると、

「はーい」

 女性の声と、小走りする音が聞こえた。

「ようこそ、いらっしゃいま――」

 挨拶とともに、目の前に現れた女性はしばらく固まったように見えると、突然、私の胸に体を預けてきた。

「あなた、帰ってきたのね」

 しばらく、時が止まったかのように寄り添っていた二人であるが、現実に戻った私は女性の体から離れた。

「あの……予約をしていた滝川ですが」 

 どうなっているのか混乱した私は緊張と照れから情けない言葉になっていただろう。女性は私以上に驚いた様子だ。

「ま、まぁ!私ったら……何をしてるのかしら。お客さんにこんなはしたないことを。申し訳ありません、どうか忘れてください」

 大丈夫と伝えたところ、女性は落ち着いたようだ。

「私、この民宿の女将でございます。と、申しましても、今は一人ですが」

 運転手の言ったことは本当のようだ。話を聞いていたからか、女将の言葉は寂しく聞こえた。

「滝川様ですね。伺っております。お一人様、お部屋を用意しておりますので、案内いたします」

 女将といっても民宿であるためか、着物ではなく洋服を着ている。まだ歳三十もきていないだろうか、若く、そして美しかった。


 部屋につくと、女将はごゆっくりと言い、扉を閉めて、今度はゆっくりとした足音で歩いていった。

 部屋は和室で建物の外から見た印象より広い。畳と木の匂いが清々しい。そして窓からは海が見えた。そこらの旅館よりいい部屋かもしれない。気を緩めるには最適な空間だったが、さきほどの女将の行動を思い出して、また緊張した。


『あなた、帰ってきたのね』


 女将はそう言った。普通に考えると、『あなた』というのは海で亡くなったという旦那さんのことだろう。女将はまだ、旦那さんが帰ってくるのを信じているということだろうか。そうなると、旦那さんの亡骸は見つかっていないということになる。もしくは、旦那さんが亡くなったことを受け入れられないということだろうか。


 そんなことを時間を忘れて考えていると、扉をノックする音が聞こえた。

「失礼します。滝川様、ご夕食の方、こちらでお召し上がりになりますか」

 インターネットで調べたときに、美崎荘の料理は海の幸が満載でとても美味しそうだった。

「はい。こちらで頂きたいのですが、女将さん一人では、お忙しいんじゃないですか」

「お気遣いありがとうございます。今日、明日のお客様は滝川様だけですので、大丈夫です」

 平日ど真ん中の旅行である。この民宿も部屋が多いわけではなさそうだし、客一人ということもあるだろう。

「では、遠慮なく。それと、様はちょっと苦手なので、さんぐらいでお願いします」

 私がそう言うと、女将は笑顔でかしこまりましたと言い、部屋を出ようとして振り返った。

「温泉もありますので、いつでもお入りになってください。小さいですが露天風呂もおすすめです」

 そう言って出ていく女将を見ながら妻のことを考えた。

 妻は女将ほど美しい人ではなかった。行動も大雑把であったし、女将と似ているところはどこにもない。しかし、私は妻と女将を重ね合わせていた。恋してるとか愛してるとかそういうことではない。ただ、夫婦の温かい気持ちを思い出させてくれるのだ。 


 女将がすすめてくれたので、露天風呂に入ってみた。そこからは素晴らしい海と夕焼けの景色が見えた。風呂に入って気持ち良いと思ったのはいつぶりだろうか。

 しばらく、そのまま海を見ていると、漁港の方に人が集まっているのが見えた。


 風呂から出ると、民宿の中が慌ただしくなっていた。

「とにかく、早く漁港に行ったほうがいい」

 漁師風の男が女将さんに話している途中、私に気づいた女将さんは焦った様子だった。

「滝川さん、申し訳ないですが、少し出かけてきます」

 顔に悲壮感が漂っている。


 ――旦那さんが見つかったのか。


 先ほどの漁港の人だかりと、女将さんの顔からすると間違いないだろう。妻の死に顔を見たときを思い出す。これから同じ体験をする女将さんを思うと苦しかった。


 部屋に戻ってどのくらい経っただろうか。扉の外から女将さんの声が聞こえた。

「滝川さん、申し訳ありませんでした。夕食遅くなりますが、これからご用意させて頂きます」

 そう言って、離れていく女将さんに声をかけた。

「女将さん、良かったら一緒に食べませんか。一人旅もいいもんだと思ったのですが、やはり少し寂しくて」

 こんな時に無礼な誘いだっただろうか。 

「……ご一緒させていただきます」

 震える声でそう言った女将さんは、今度こそ離れていった。


 女将さんが持ってきた料理は短時間で作ったとは思えないほど豪華だった。そして、茶碗、湯呑み、箸は2つずつある。

 向かい合わせに座った私と女将さんは、いただきますと言い夕食を食べ始めた。しばらく無言だったが、女将さんが先に話し始めた。

「私の主人は……私の主人は半月ほど前から海で行方不明になっていました。その主人が死んで見つかったと、ついさっき知らせが来たんです。」

 私は静かに聞いていた。

「すいません。食事中にこんな話を」

「いえ、話した方が楽になることもあります」

 そんなこと今まで思わなかった。だが今の私と女将さんには必要なのではないかと感じた。

「こちらこそ、すみません。そんな大事なときにご飯を一緒に食べようなどと」

 わかりながら誘った自分が恥ずかしかった。

「いえ、どうせ主人の亡骸は今、病院です。私には何もできませんし、お客さんを放っておくわけにはいきませんから」

 女将さんはさきほどから私の顔を見ずに話している。

「しかし、こんな豪勢な夕食を作っていただけるとは思いませんでした」

「普通は精進料理でも食べるべきなんでしょうけど。主人は海の男ですから。盛大に美味しい魚を食べた方が喜ぶのではないかと思ったんです」

 強い人だと思った。妻を亡くしたとき、私は数日ろくな食事を摂らなかった。思えば、妻が好きだったビーフシチューを作って食べた方が、妻も天国で喜んだのではないだろうか。


「――私は先日、妻を亡くしました」


 女将さんは驚いて、初めて私の顔を見た。

「妻を亡くした後、何もできなくなった私は休みをとって、旅行に来たのです。実はここに来るときに乗ったタクシーの運転手から女将さんの事情は聞いていました。妻を亡くした経験のある私は一人になったあなたに何かしてあげられるのではと思いました」

 女将さんは静かに聞いていた。

「何もできません。情けないことです。結局、力づけてもらったのは私のほうでした。あなたは強くて優しい」

 女将さんはじっと私の顔を見ていた。

「滝川さんが宿に来られたときのことを覚えていらっしゃいますか。私はあなたを見た瞬間、主人が帰ってきたかと思いました。それほど、滝川さんは主人に似ているのです」

 女将は少し照れくさそうだが、はっきりとした口調で続けた。

「滝川さんと話しているとほっとしました。滝川さんを見ていると、そこに主人がいるように思えるのです。幸せな時間でした。しかし、今ではそれが辛い」

 そうして女将は顔を伏せた。

 私はいたたまれなくなって、窓の外を見た。

「もう、海は暗くなってしまいましたね」

 女将も窓の方へ顔を向けた。

「主人はきっと色んな海を見たでしょうね。朝の海、夜の海、晴れの海、雨の海。幾色もの海を見たに違いありません。海の男として幸せだったでしょう」

 そう言って、女将は口元を緩めた。

「――どんな色であっても、あなたとご主人は同じ海を見ています」

 女将は初めて涙を見せた。

「滝川さん。やっぱりあなたは優しい人」

「明日、帰ります。私もそろそろ妻と向き合う事が必要なようです。それを教えてくれたのは女将さんです。ありがとう」

 二人で微笑み合って、また月光の差す暗く美しい海を見た。


「お世話になりました」

 翌夕方、私は玄関で女将に挨拶した。

「何もできずに申し訳ありませんでした。よろしかったら、またいらしてください。精一杯、おもてなしさせていただきます」

 女将はこれから大変な日々を過ごすだろう。しかし、今日という日、女将と笑顔で別れることができて良かった。


 タクシーに向かう途中、もう一度、夕映えの海の方を見た。


 海の色は 移りにけりな いたづらに

    すぎ去りし日に 染まることなし

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の色は さくらねこ @hitomebore1982

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ