あなたの一番に

しろもじ

第1話「約束……覚えてる?」

(嘘……でしょ……)


 森本結月もりもとゆずきは、掲示板に貼り出された一枚の紙を何度も見直した。いくら見直したところで結果が変わるわけではないが、それでも祈るような思いで目をギュッと閉じて、開く。


 掲示板に貼られた用紙には、大きく『二学期期末考査 一学年 上位三十位』と書かれている。結月の通う高校は県内でも随一の進学校であり、中間試験、期末試験の結果はこうして掲示される。それにより、生徒間の競争意識を高めるのだそうだ。


「結月ちゃん! どうだった?」


 突然背後から抱きつかれる。クラスメイトの望月結衣もちづきゆいが、結月の首に手を回しながら掲示板を見上げた。


「あぁ……」


 そう言って言葉を詰まらせる。結衣の心遣いはありがたいけれど、この場合はちょっと辛いと結月は思う。


 高校に入学してからずっと結月の定位置であった「一位」の場所に彼女の名前はなかった。代わりに書かれている名前を、結月は複雑な表情で眺めた。


「そっかぁ、田辺さん一位になっちゃったんだ」


 田辺朝海たなべあさみは、結月と結衣とは隣のクラスの同級生。容姿端麗、スポーツ万能で、入学半年ほどでクラス中、いや学年中の憧れの存在になっている生徒だ。


 結月とて中学では部活の部長を勤め上げたこともあり、運動神経には多少の自信はある。だがそんな彼女でも、朝海には一度たりともスポーツで勝てたことはなかった。入学当初に行われた体力測定、体育の授業、先日行われたばかりの体育祭。


 そのことごとくで、朝海は彼女の前に立ちはだかった。いや、朝海にそのつもりはなかった。結月の一方的な敵対心ライバル視が、そう思わせていたというのが実際のところなのだが、負けん気の強い彼女にとっては朝海は打ち倒すべき存在であった。


 その最後の砦が勉強だった。最初の中間テストから結月はずっと学年一位をキープしていた。これだけは譲れないと思っていた。朝海は常に二位につけていた。いつか抜かれるのではないかという恐怖心はあった。それでもこれまでは一位の座を譲ったことはなかった。


「まぁ、それでも結月ちゃん二位だし立派だよ。私なんて……」


 両手で顔を覆って「ううっ」とうなだれる結衣の優しさに、結月の心は少しだけ緩んだ。やはり持つべきものは友人だ。


「でも、今度は負けない」

「その意気だよ。正義は最後に勝つ、だよ」


 いや、正義と悪の戦いというわけじゃないんだけどね。結月は心の中でそっと突っ込みながらも、結衣に感謝する。


 「教室、戻ろっか」じゃれ合ってくる結衣の腕を解きながら振り返る。反動で、ひとりの生徒とぶつかってしまう。「あ、ごめんなさい」


「いいえ、大丈夫ですよ」


 その声を聞いて、結月は反射的に身が硬くなる。彼女たちの目の前に立っている女子生徒。田辺朝海は穏やかな表情で笑っていた。その余裕たっぷりの顔に、結月は思わず苛立ちを覚えた。同時に心拍数が上がるのを感じる。


 朝海に成績のことを言われなくない。


 そのことが自分を動揺させていると結月は感じた。


「行こうよ、結月ちゃん」


 不安そうな顔で袖を引っ張る結衣に「ちょっと待って」と言う。確かに怖い。朝海に自分は負けたのだと言われるのがとてつもなく怖い。でも、ここは逃げてはいけないとも思う。人形のように整った笑顔の朝海に、結月は「何か言いたいことがあるの?」と訊く。


 「言いたいこと?」朝海が首を傾げた。長いサラサラの髪の毛が、それに合わせてゆらっと揺れる。


「言いたいこと、と言えば」


 ほら、来た。結月は身構える。


「約束……覚えてる?」


 約束? 一瞬、結月には朝海の言葉の意味が理解できなかった。約束、約束、約束……。頭の中で反復していく内に、ひとつの出来事が脳裏に蘇ってきた。


 それは体育祭での出来事。クラス対抗のリレーでアンカーになった結月は、同じくアンカーで順番を待っていた朝海に声をかけられた。


「森本さん、勝負しない?」


 目の前では、既に二番手走者がトラックを回っている。そんなときに、突然かけられた勝負の誘いに結月は動揺した。


「……勝負?」

「そう。あなたのクラスと私のクラス、ちょうど順位を争ってるでしょ?」


 朝海が指し示した先では、ちょうど三番手のランナーがバトンを受け取っているところだった。朝海の言う通り、どちらのクラスもほぼ同時にバントを受け渡ししていた。


「勝った方が、負けた方の言うことを何でも聞く、っていうのはどう?」

「はぁ?」


 何を言い出すかと思えば、何を子どもじみたことを。結月は呆れ返る。朝海の言葉には答えず、トラックに向かうと定位置についた。


「どうするの? 受けるの受けないの?」


 ランナーは最終コーナーを回ってきている。朝海の言葉に結月の心は揺らいでいく。負ける気はない。だけど……敢えて受けるべきではないとも思った。だが朝海の「逃げるの?」という言葉に、反射的に「受けるわよっ!」と言ってしまう。


 思っていた以上に動揺してしまった結月は、本来の力を出しきれず朝海に僅差で負けた。いや、それは言い訳なのかもしれない。きっと全力を出しても彼女には勝てなかったのだろう。走り切ったあと、トラックに大の字で寝転がりながら結月はそう思った。


 一体、何を要求されるんだろう……?


 息が整い始めて、結月は不安になってきた。とんでもない要求をされるのではないか、そんな恐怖にも似た感情に襲われた。ところが、意外にも朝海は何も言ってこなかった。クラスメイトと勝利を喜びあったあと、表彰式を済ませると、いつの間にかどこかに行ってしまった。


 きっとあれは朝海にからかわれたのだと、結月は結論づけた。もしくは結月の動揺を誘う作戦だったのではないかとも思った。だから、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。


「リレーは、ちょっと卑怯だったかもしれないけど、これは有効よね」


 そう言って朝海は掲示板に目をやる。結月はふつふつと怒りを覚えたが、同時に彼女に対する負けは認めないといけないとも思う。「どうすればいいの?」と問いかけた。


「あら、案外素直なんだ」


 朝海は楽しそうに笑った。普段彼女が見せているような、どこか余裕のある、でも作ったような笑顔。それとは違う表情に、結月はドキッとする。朝海は結月の隣に半分隠れるようにしている結衣をチラッと見て「二人でお話しましょう」と結月の手を取った。


「ちょ、田辺さん!? ど、どこへ行くの?」

「どこへも行かないわよ。二人で話したいだけ」


 振りほどこうともがくが、朝海はギュッと結月の腕を掴んで離さない。なすがままに引っ張られながら、結月は「一体、何を要求されるのか」と不安になった。


 もしかしたら何か不正――例えば、今後スポーツでも勉強でも朝海より良い成績を取らないといったこと――を要求されるのだろうか? それとも彼女のグループに入って、使いっ走りにされるのでは……。


 いや、それはないか。


 朝海は学校で人気はあるものの、誰かとつるんでいるというところを見たことがない。登下校もひとり。何度か休憩時間に朝海のクラスに行ったことがあるが、いつも朝海はひとりで過ごしていた。


 それは彼女があまりにも近寄りがたい存在であったからだと、結月は思う。何事においても完璧過ぎる人の側にいると、まるで自分が駄目な人間になったような錯覚を覚えることがある。太陽のように眩しい存在とは、ある程度の距離を置いた方が良いことも多い。


「ここでいいかな」


 ようやく朝海が立ち止まったのは、校舎と校舎を繋ぐ連絡通路だった。放課後は、ほとんど生徒が通ることなく、確かに人気のない場所に違いない。


 朝海は連絡通路の窓枠に手を置き、外を眺めている。結月は心臓が破裂するのではないかというくらい、ドキドキしながら朝海の言葉を待った。やがて朝海はゆっくりと振り返ると、まっすぐ結月の目を見た。


 ニコっと笑う朝海の表情は、先程見せたものと同じものだった。


「端的に言うとね……」


 結月は思わずツバを飲み込んだ。喉がカラカラになっていた。返事ができなかった。


「あなたの一番になりたいの。二番はイヤ」


 まるで宇宙人にでも話しかけられたかのように、結月は彼女の言葉が理解できなかった。何度か頭の中で反芻してみたが、それでも「私の一番」というのがどういう意味なのかが、さっぱり分からなかった。


 顔を上げると、朝海は再び窓枠に手を置いて、外を眺めている。夕日に染まった長い髪のせいで、彼女の顔は見えなかった。結月は困り果てて「どういう……意味?」と絞り出すように尋ねた。


 その言葉に、朝海はそっと半分ほど振り返る。先程までの笑顔は消え、やや潤んでいる瞳は困惑しているように見えた。頬が少し赤く染まっているように見えるのは夕日のせいだろうか……。


「つまり、その……」


 朝海はクルッと振り返り、両手を腰の後ろに回して壁に寄り掛かる。伏目がちに眉を八の字に曲げている表情は、これまで結月が見てきたどの朝海とも違っていた。


 なんか、かわいい……。


 呆然としながらも、結月はそんなことを考えていた。しばらくモジモジしていた朝海だったが、やがて決心したかのような顔になる。


「私と付き合って下さい!」


 付き合って下さい……付き合って下さい……付き合って……。


 朝海の言葉がエコーが掛かったかのように、頭の中に響き渡る。朝海の顔を見た。いつもの凛々しさは消え、弱々しく怯えたような表情でじっと返事を待っている。


 それがおかしくて思わず結月は吹き出しそうになった。でも、彼女はきっと真剣なんだとも思った。それなら真剣に答えないと。


「友達から……なら」


 そっと手を差し出す。朝海の表情がぱぁっと明るくなった。両手ですがるように、結月の手を掴んだ。


 ちょっと冷たい、でも温かい感触に、結月は「ま、なるようになるか」と思った。

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