空想ロビンソン

御子柴 流歌

空想ロビンソン

 明かり区間が終わり、地下鉄がその本来の名の下に地下へと滑り込んで行く。

 スマホの画面への集中がやや途切れた僕は、首の凝りを感じたのもあって、小さくストレッチを兼ねて周囲を見回す。

 まだ座席は埋まり切っていない。僕の近くもまだ1つ2つと余裕がある。

 斜向かい側のロングシートに視線を移す。

 心臓がひとつ、大きく鳴る。

 ひとり、誰にも知られずに慌てて視線をまたスマホに戻した。

 通話アプリには、大学の同期からの通知が1つ。週末に、また飲みに行かないか、という話。

 少し考えたが、やはりあまり気が乗らない。

 気が乗らないというよりも、気が漫ろになっていると言うのが正しいのだろう。

 いつもそうだ。この時間は。

 週末のうちに予定を作ってくれれば、おそらく乗り気になっているはずなのに。

 とりあえず、なんとなく謝罪している感じのする、やる気のないデザインのスタンプを返信として、僕は一度目を閉じた。

 感覚は研ぎ澄まされたまま。眠りに落ちるわけでもなく。まどろみもせず。

 ただ――――、ただ目を閉じた。


 

 あの人は。

 パンツスーツがよく似合うあの女性は、いつも始発から2番目の駅で乗り込んでくる。

 そして、僕と同じ、終点から2番目の駅で降りるのだ。



 僕より、2つか3つ程度年上だろうか。もしかしたら、大人っぽく見えるだけなのかもしれないけれど。

 すらりと伸びた脚は、どこかのモデルともやり合えるのではないか、と思っている。

 そして、美人だ。少しクールな雰囲気を醸しているのも相まって少しばかり怜悧な印象もある。

 降りた先の出口が反対方向であるらしく、地下鉄を降りてからは彼女を見かけることはない。

 帰宅時間があいにく一定ではないし、真っ直ぐに帰宅することもさほど多くはない。帰りの便が同じだったことは、おそらく無いだろう。

 彼女を待ち構えて、なんてことをする度胸なんてない。

 ――――というか、それをしたら何かしらの規制法に引っかかりかねない。

 そもそも、彼女のことだ。

 あのレベルの高さなら、彼氏くらい居るだろう。

 釣り合わないだのふさわしくないだのと思って夢想に耽るのは、僕のような人間ならともかくとして、他の男たちはきっとこんな風にぐだぐだうじうじと思い悩むことはないのだ。

 だから、これでいい。

 時折、諦めの悪い僕が何やら怒鳴りつけてくるときもあるが、それでいいのだ。



 





『いやいや。『良くねえ』って言ってんだろーが、いつもいつも』

『そう言うのは簡単だけどさ……』

『やるのも簡単だっつーの。そんなんだから直前で持って行かれたり寝取られたりするんだろうが。このバカ』

『………………』

『せめて言葉を返せ。バカ』

『まぁまぁ、そう苛めてあげないでよ』

『……ったく。意気地なししかいねえから、いつも正論ブッ込んでもこうなっちまうんだよな』



 鉄輪とレールの擦れ合う音と少し大きめな停車の衝撃で、目が覚めた。

 少しだけ右の側頭部が痛い。ガラスの仕切り板に軽くぶつけたらしい。少し周囲を伺えばこちらを見ていたと思われる視線の残像のようなものが感じられる。鈍い音が、わりと車内に響いたらしい。……これは少し恥ずかしい。

 そうしている間に、再び地下鉄は走り出す。

 昨日はそんなに遅くまで起きていたとは思っていないのだが、カラダは割と正直だった。

 少し疲れが溜まっているらしい。ドア上の表示を見ると次が降りる駅のようだ。

 少し冷や汗が出る。危ない、危ない。時間的には余裕があるのだが、実際に乗り過ごしてしまうのは精神的な余裕が消滅してしまう。

 その間、何か毒苺めいたものが夢の中で行われていたような気がする。結論は分かり切っているので、再度夢想することは、無い。

 スマホの着信をゆるりと確認する。先ほど送ったスタンプに苦情めいたリプライが付けられている。

 許せ、友よ。お前の優先順位は、今ならだいぶ下の方だ。

 ブレーキでカラダが傾く。返信は、落ち着いた後でも充分だろう。そのまま忘れてしまいそうだが、問題は無いはずだ。

 スリープ状態にして、何駅かぶりに首のストレッチをする。今日は珍しく横の席が空いている。隣のことを考えなくていいのは気が楽だ。

 このあたりになれば、また幾分か車内は空き始める。

 そう。例えるならば。

 斜向かいの席の様子が、人垣を気にせずとも見えるくらいには。

「……あ」

 思わず、声が漏れた。幸いトンネルを走る音にかき消されているだろうが。

 彼女のミスを、見た。

 何かを確認しカバンに入れ直したはずのICカードケースが、彼女の足元に転がっている。

 どうしよう。

 声をかけるには遠すぎる。

 わざわざ近づいて行くのも、何か違う気がする。

 だけれど、周囲に座っている人らがそれに気づいている様子はない。というか、みんな揃いも揃ってスマホをガン見だ。気づくはずもない。

 逡巡している間に、地下鉄はさらに速度を落としながら駅へと滑り込む。

 完全に停車し、扉が開いて。

 ついに彼女はミスに気づくことなく座席から立ち上がってしまった。

 これは、まずいでしょ。きっと。

 というか、僕も降りなくては。


 ―――――行け!


 脳内で何かが弾け飛んだ。

 自分の荷物を慌てて掴んで立ち上がり、そのまま彼女が座っていたところの足元にあるカードケースを拾い上げる。

 発車ベルが鳴り始めるのと同時に反転。

 すっかり人の少なくなった車内に響く足音など、構っていられるはずもない。

 ホームに出て振り返れば、車内の客は皆、僕を凝視していた。

 幾らか顔が熱くなるのを感じたが、これは慌てて動いた所為だと自分に言い聞かせることにする。

 現実を直視しないことも時には大事なのだ、と思い知った気がした。

 しかし、今はそんなことなどどうでもいい。

 チラ見の記憶を頼りに、いつもとは反対側の階段に向かう。

 ――――居た。

 すでに一つ先の階段に差し掛かったところだ。まだ気が付いていなさそうだが、後少しで改札口。いやでも気づくはずだ。

 そう思えば案の定。僕が階段を上がり切ると、改札口のそばに設置されているICチャージ機の横で、慌てた様子でカバンを探っている後ろ姿が見えた。

 深呼吸。

 深呼吸。

 もうひとつ、深呼吸――――――。

 と思った時だった。


 彼女がこちらを振り向いた。


 僕を見たわけでは、きっとない。

 おそらくホームの方へ戻ろうとして、たまたま視線が交錯しただけだ。

 だけれど、僕は視線を外すことができなかった。

 距離はまだ少しあるが、はじめて向き合って顔を拝見したと思う。

 そして、なぜか彼女も僕から視線を外さない。

 先ほどの深呼吸の意味が完全に無くなってしまった。

 かけようと思っていた言葉が、ものの見事に飛び散って行く。

 何とかその言葉の切れ端を集め直して、

「あの……!」

「は、はい!」

 2人して声が裏返った。

「……これ。落として、ましたよ」

 情けなくも言葉が途切れ途切れになる僕。

「え? あ……!」

 驚く彼女。こっそりと抱いていたクールっぽい雰囲気はほとんど見えない。

 勝手に思っていたイメージとのギャップ。

 ダメだ。

 かわいすぎる。

「そ、それじゃあ! 気をつけて!!」

 耐え切れるはずもなく、先ほど下車したときよりも早く、改札を通り抜けた。

 しばらく走った後の鼓動は、いったいどちらが原因なのだろうか。これに答えを出せる人は、きっと居ないだろう。











 結局、1日仕事が手につかなかった。

 目に見えたミスが出なかったことが不幸中の幸いだった。

 こういうときは長々と就業する意味は無い。いつもより30分程度早く退社することにした。

 あまりこの時間帯には帰らないのだが、自分の時間帯よりも少し人が多いのが新鮮に見える。

 もしかしたら、新鮮に見えるのは今朝の出来事のお陰なのかもしれない。

 あんな形でも言葉を交わせたのだから。贅沢なんて言わない。

 何だかいつもと違う光景だった。

 エスカレータに乗り、ホームに着く。

 少しふわふわとした感じがしていた。夢見心地とでも言うのだろうか。

 そう。

 まるで空想が、現実になったように。


 ホームのベンチに、彼女が座っている。


 何故だろうか。

 声をかけようか。

 隣に座ってしまおうか。

 いや、それは流石に如何かと……。

 などと思っていた、のだが。


 彼女がこちらを見た。

 少し驚いたように目を見開いて、しかし次の刹那。

 とても、かわいらしい笑顔を向けてくれた。

 僕のために

 ――――僕だけのために。

 


「あ、あの……!」

「は、はい!」

 今朝と同じ光景。声を出す順序が違っている。ただ、それだけ。


「今朝は、ありがとうございました。とっても、助かりました」

「あ、ええ、と。お役に立てて、よかったです」


 ダメだ。なーんにも気の利いた言葉が出てこない。


「……あの」


 そんなことを思っていたら、彼女の方から。


「いつも、始発から乗られてますよね?」


 思ってもみなかった言葉が――――。


「私、その隣の駅なんです」


 ――――紡がれていく。






「……いっしょに帰りませんか?」

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