二番目のソネットと約束の春

置田良

最愛の妻へ


「ねぇ……、シェイクスピアくらいは、知ってるわよね?」


 ベットに横たわる妻が、か細い声を出した。

 それは、みぞれ舞う冬の日のことだった。


 横のパイプ椅子に座る私は「馬鹿にするな。それくらいは知っている」と、努めて冷静に普段の通りに返す。


「それじゃあ、ソネットは? シェイクスピアが残したという、ソネットのことは、知っている?」

「たくさんの詩を残したらしい、ということくらいなら」


 妻は感心したように笑った。笑ったといっても、ほんのわずかに目じりを下げただけではあるが。


「なぜ急に、そんなことを?」

「二番目のソネットを、思い出したの。なんとなく、ね」

「へえ、どんな?」


 妻は小さく、首を横に振る。


「ないしょ。帰ったら、調べてみて」

「しばらく帰る予定はないのだが?」

「そう。ありがとう」


 彼女は、寂しげに微笑んだ。


 余命を宣告されて早数ヶ月、妻は病院にとらわれていた。

 この建物は異常なまでに清潔で、病に侵された人間ですら、汚い異物として排除しようとしているかのよう。


 首を振り、嫌な想像を払いのける。ドナーさえ見つかれば、可能性はあるのだ。


「小難しい話より、明るいことを話さないか?」

「例えば、どんな?」

「そうだな……。俺たちの未来の約束とか、どうだ? よくなったら、どこに行こうって」

「未来の約束……」


 妻は遠い目をして、しばし天井を眺めたあと「ずいぶん、先の話でもいい?」と呟いた。

 私は「もちろん」と答える。

 そのときまで彼女が生きる意思を持っているならば、それはとても喜ばしいことだ。


「私が四十歳になるはずの冬を越えた年に……」

「はずってなんだよ?」

「いいから、聞いて。桜を見に行って欲しいの。大切な誰かと、一緒に」

「俺にとって大切な人は――」


 彼女の目から、はらはらと涙が零れていた。その表情を見て、彼女が何を言おうとしているのか理解してしまった私は、続く言葉を口にすることができなかった。

 妻はしゃくりをあげるように、懸命に、言葉を続けた。止めてくれとも黙れとも言えない私は、積雪に潰されるように、ただそれを耳にする。


「ごめんなさい……。ごめん、なさい……! でも、だから、だからなの。ねぇ、あなた。一生に一度のお願いです。わたしより大切な誰かを見つけてください。わたしを思い出の中で飾らないでください。わたしを、あなたにとって、二番目の女にしてください」


 妻は涙を頬に走らせながらそう言った。けれど同時に、笑っていた。


 あの日の私は、とても長い時間を、共に涙が枯れるほどの長い時間を経てようやく、小さな頷きを返すことしかできなかった。



   ~  ~  ~



 あれから幾度もの冬を越え、約束の春が来た。


 私は青いビニールシートに座り、一人ポツンと、満開の桜の花を見上げている。優しい風に誘われて、花が雪解けのように舞い散っていた。

 

四十度の雪解けが君の額を侵したときWhen forty winters shall besiege thy brow,……か。あのソネットは美しい青年に向けたものだそうだけど、君がああいうのなら私たちにとってはそういううたなのだろうね」


 まるで老人の皺のようにひび割れた桜の幹にむかい、そう独り言ちる。


 私はここに、約束を果たすために来ていた。


 たぶんもうすぐ、来るはずなのだけど。


「おとーさーん! やっと見つけたー!」


 ほうら来た。駆けてくる娘と、そしてその後ろでゆっくりと歩く、彼女に向かって腕を振る。


「もー。お母さんったら酷いよねー。お父さんに場所取りなんかさせるんだもん」

「いやいや、父さんは辛くはなかったよ。なんせ二人は、父さんにとって、この世で一番目と二番目に大切な二人だから」

「そういうの、尻に敷かれるって言うんだよ。でも、ちなみに、どっちが一番でどっちが二番……?」


 私の答えを聞いた娘は、恥ずかしそうに口を尖らせた。


「いいの? そんなこと言って。お母さんに言いつけるよ?」

「いいんだよ。そういう約束だからね」


 娘は首を傾げているが、よく分からないことは分からないまま放っておく質らしく、少しすると持参してきたお団子をさっそく頬張り始めた。まったく、一体誰に似たんだか。


 娘とそんなやり取りを交わしていると、ようやく彼女がやって来た。

 今や、私にとっては世界で二番目の女の子で、そして最初で最後の、最愛の妻。


「もう女の子、という歳でもないんですけどね」


 妻は皺を湛えた笑顔でそう言った。けれど同時に、泣いていた。


「いいじゃないか。私にとってはいつまでも女の子ということで。そんなことより――」


 ――さあ、約束の花見を始めよう。



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二番目のソネットと約束の春 置田良 @wasshii

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