第13話 霧の亡君
窓を開け、朝靄の空気を吸う。
老婆に貰った旅路着に着替え外套を羽織る。寝床の上で布袋の中身を整理していると、談話室の方から老婆のぼやきが聞こえた。
「ケムリがおらんと困るでねえ。
ケムリは部屋を出る。老婆は藤椅子に揺れながら顔をくしゃくしゃにさせていた。ケムリは微笑ましい思いで、その老いた身体に抱擁する。老婆は更に目尻の皺を深くした。
「死んだ倅に言いたいよ。やっぱり、
ケムリはより強く老婆を抱き締める。
「必ず、またお掃除をしにやってきます」
裏庭の井戸で水袋を溜めると、ケムリはその足で宿場の表側へと回る。
「流石に行商の子というか、旅支度が早いな」
ケムリは踏みかけた足を止める。振り返れば塔の主だった。彼は戸口の脇で折椅子を出し、そこで書を読んでいた。
「主様、いらしてたのですか。何もそんなご足労を」
主は書を閉じて椅子を立つ。
「年に一度あるかなきかという貴重な客人だ。もとより私は身一つで国を守る権勢なき党首、足労も何もあるまい」
ケムリは改まって主に向き直る。霧の塔の如く長躯な彼を見上げ、何と別れや礼を告げたものかと難渋し二、三度と口籠る。主は無表情に、何か思惑を溜めるように少女を見下ろしている。
「名を言い忘れた、と思ってな」
それは主らしくもない寂れた口調だった。
「レナトゥスだ。姓はない。故郷では別の名を名乗っていたが、この国の党首の座に就いたとき、自らで改めた。名を自身の大義としてな」
少女は無機質に表情を失くし口を閉ざす。頭の中でぐるぐると思いが巡った。
霧に加護された街と、自己増殖する塔。そんな中で暮らす無気力で信心深い霧の民。そこでは腹も減らず、老いもせず、進展や成長までも忘れさられている。まるで時を止めたように。
そして、主が自らで掲げたという大義名分を。
レナトゥス――再生。
「無礼を承知で申し上げます」
少女は恐怖を殺し、強い感情を目に宿した。
「この街は、やはり死んでいます」
街は依然として沈黙している。そこら中で人が坐し転がっているのに、二人の他に物音を立てる者はいない。
やがて主が返した言葉は、意外にも穏やかなものだった。
「それも然り。だが、今更自分のやり方は変えられんのでな」
彼は書と折椅子を重ね、脇に挟んで塔を向く。
「間もなくして我が霧の術は完成する。因果が功を成し、念願の
少女は唇を噛む。
「でも、お婆さんと約束しました」
「別れだ、ケムリ。いや……『異星の迷い子』よ」
主は霧の中へと去っていく。その姿が見えなくなるまで、ケムリはその場で立ち尽くした。
農業区の童女は今日もポプラの木を見上げている。
街道に横たわる半死人を避けながら、自分が主へ言い放った言葉を反芻していた。彼の表情は、また新たな迷いを少女に生んだ。一体何が正しいのかを見失いかけている。この世界に見合う理想がますます分からない。
霧の民は生きているようで死んでいる。だが裏を返せば、死んでいるようでも、確かに生きているのだ。これが崩壊する世界に備えた結果であり、彼らにとっての生きる術なのだ。
白痴の少年と向き合いながら自分は、人が住まう地でただ生きていくだけでいい、そう思ったはずだ。ならば霧の民の取った選択こそ、ある一つの理想ではないのか。なのにわたしは、この街の何が気に入らなかったんだろう。
城門前、獣に喰われたがっていた青年はいない。青年が座り込んでいた箇所で、雑草が空虚にへたっていた。
ケムリは虚しい心持ちを胸に佇立する。胸元から首飾りを取り出した。顔の前に掲げ、太陽にかざす。
首飾りには、十三年前に都の外れで落ちた巨岩の欠片が嵌め込まれていた。片手に包むと欠片は淡く、赤色に発光する。陽光に透かしてしばらく眺める。灼熱に盛る岩石の欠片は、中枢にまた別色の煌めきを灯している。色は複雑で、寒々しい青にも、豊かな緑にも、眩い朝陽色にも見えた。
手を離すと首飾りは発光を止め、元の石へと戻る。そのまま胸元に仕舞い、ケムリはまた歩き出した。
森を少し進んだ場所に青年は居た。青年は狼に喰われている最中であった。
その場所では霧は晴れている。呪いの効力が届かぬ事を示唆しているようだった。
狼は青年の腹に顔を埋め、夢中で肉を喰らっていた。ケムリが傍へ近寄るも、何か用か、とでも言いたげに少女を一瞥するだけで、また己の食事に戻っていく。
ケムリは青年の顔に手を伸ばした。頰は緩んでおり、その状態で硬直している。当たり前というように彼は死んでいた。大きな達成感と幸福そうな笑みを顔面に刻んで。
どうして青年は笑っているのだろう、とケムリは思う。彼は霧に惑わされていなかったのだろうか。城門の内側にさえ入っていればこんな事にはならなかった。どうして、と声無き声が漏れる。安全な霧の中にいる事を良しとせず、どうしてこんな死に方を選んだのか。
いつの間にか、狼は居なくなっていた。
青ざめた頬から手を離す。青年に背を向けて立ち上がる。身震いがしてうまく力が入らない。自分の中で、ある重大な使命感が沸いていた。
戦おう、少女は一人呟き、西の都に向けて歩き出した。
<了>
死んだ街と霧の塔 小岩井豊 @yutaka_koiwai
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