爺と梟
ね。
爺と梟
昔々 、ある所に一人の老人と一匹の梟がいました。
彼らは小さな家で質素な暮らしをして幸せだったとさ。
めでたしめでたし。
*****
「ふあぁ~ぁ……」
気の抜けた欠伸を上げながら男は目を覚ます。
その男、ヴィルは——皺が深く刻まれた顔をだるそうに歪ませ、短く切られた白髪だらけの頭髪を乱暴に掻き毟りながらベッドより這い出た。
「ムー。おはよう。よく眠れたか?」
ベッドの頭の近くにあるパーチに止まっている、白くて真ん丸とした梟に彼は優しく語り掛ける。それに応えるようにムーと呼ばれた梟はホゥ、ホゥと甲高い声で短く鳴いた。
六年前。
ヴィルが森で狩猟をしていた時に足を怪我していた所を拾われたムーは、それ以来彼の家に住むようになり、今では家族のように暮らしている。
近くの村の人たちは、そんな彼らをまるで御伽噺の『梟とお爺さん』にそっくりだと持て囃していた。
しかし、その御伽噺とは少しばかり異なる生活を彼らは送っている。
ヴィルが今も狩人として森から村に迫る魔物たちを討伐しているという、危なっかしい点において。
ヴィルの家は村と森の境目にあり、丁度門番の役目を担うような位置に建っている。
窓から薄い日光が差し込んで間もない頃、彼は森の入り口へ赴き、仕込んでおいた罠に何者かが引っかかっていないか、畑などで何処か荒らされた形跡は無いかなどを確認する。
「今日は平和ってところか」
一通りのチェックを終えて、特に問題が無かったことを確認すると頭上からバサバサと羽ばたく音が聞こえた。
それがムーの音だと分かっているヴィルは無言で左腕を伸ばすと、ムーは静かにその腕に降り立った。ムーのために特別に作った革ジャケットは、ヴィルの全身の皮膚をムーの爪から守ってくれる。
「お帰り。お前も特に問題は無かったようだな。それじゃ、飯にするか」
家に戻り、ヴィルは乾燥パンと昨晩の残りのスープを、ムーは新鮮な肉を食べる。
食べ終えるとヴィルは黙々と装備の点検に取り掛かった。
猟銃を分解して壊れている所は無いか、ジャケットに破けている所は無いか、弾薬は足りているか、ククリナイフに刃こぼれは無いか、など。
村の店へ行くまでにそういった点検を一通り終えるのが彼の日課だ。
「よし。じゃあ俺は村に行って必要な物を買ってくるから、それまで留守番は頼んだぞ」
行ってらっしゃいと言うかのように短く鳴くと、ムーはパーチに止まって動かなくなった。
ここ、ルルガンの村はヴィルが偶然辿り着いた村である。
村が魔物の陰に怯えている所を彼がなんとか救った時、村に定住するよう説得された為、こうして門番をしている現在に至る。
「ヴィルさん! おはよう。今日は良い兎の肉が入ってるよ! 見ていくかい?」
肉を専門的に仕入れ、捌き、売ることを生業としている男性が気さくにヴィルへと話しかける。
「おぉ、じゃあそれを一つ貰おうか。あいつが喜ぶ」
「相変わらず相棒想い、いや、梟想いだねぇ。じゃあほら、おまけにバジルを付けておくよ。使ってくれ」
「あぁ、いつも助かるよ。悪いな」
「いいのいいの。うちの門番様にゃ、感謝してもしきれないからね!」
この村に住み始めて十年以上経過した。
今では彼も十分この村の住人である。
歳を取っている割には若々しい物腰ではきはきと話す性格のお陰で、ヴィルは村の住人とは円滑なコミュニティを形成していた。
「今日も頼むよ! 自慢の猟銃で、こう、バーンってね!」
「ははっ、まぁ撃たずに済むのが一番なんだがな」
村人にとって、ヴィルは村随一の狩人であり、唯一の狩人であった。
年齢のことも考慮してそろそろ新しい狩人を募る話もあるが、彼にはまだ引退の意志は無い。
正確には焦っていない、と言うべきだろうか。
何故なら、彼には相棒がいるからだ。
村の人に打ち明けていない、とても心強い相棒が。
家に戻る頃には太陽は高く昇り始めており、そろそろ昼食の時間になる頃だと指し示していた。
ヴィルはレタスや人参などの野菜に角切りしたベーコンを煮込んだスープを飲みながら窓の景色をボーっと眺めていた。先程貰ったオリーブが良い匂いを出しており、食卓がやけにお洒落な空気で包まれていた。
——なるほど、こういうのもいいな。
ムーは適当に切り分けた兎の肉をがっつきながら食べ散らかしていた。
「こらこら、あまり汚すんじゃねぇぞ」
口ではそう諫めつつもただその様子をじっと見守っているその姿は、正しく孫を見守る祖父といった具合だった。
——まあ、俺にはガキの世話なんか向いてねぇけどな。
昼食を食べ終えた彼らは、支度を整えて森へと入る。
狂暴化した野良犬や熊など、或いは、魔物と呼ばれる類の脅威がいないかを確認するために。
いくつもの木々が連なり、いくつもの枝や葉が重なってできた緑の天井から漏れる光に照らされた薄暗い森の中を、一人と一匹はゆっくりと歩き続けた。
ただ歩いているだけではない。
頭の中に刻まれた地図を思い浮かべ、どこかで争いがあった痕跡が無いかと周囲に視線を張り巡らせながら、静かに足を進めていた。
生物が立てるような音をほとんど立てず、足元の枝や葉を踏まないようにしてこの森を練り歩けるのも長年の経験ゆえである。
無我の境地と言って良い程に彼の精神は研ぎ澄まされていた。
そんなヴィルだからこそすぐに気づく。
百メートルほど先に、何かがいると。
目を凝らして気配がある辺りをじっと見つめると、三匹の子熊を発見した。何やら餌を取り合っているようで、それだけなら自然の弱肉強食ということで済む話なのだが——
肝心の親熊がいないことはどうも気がかりだった。
——今のうちに離れ……っ
少し来た道を引き返そうかと思ったヴィルだが、彼の体はその真逆、子熊らに近づくように前転をした。
「っとと、危ねぇな」
その理由は、彼の後ろにいた者、今では彼の双眸に映っている者のせいである。
「おいおい、親ならガキの前で礼儀正しく振舞わねぇとだめだろ?」
「ヴァアァァァァァッ!!」
体長三メートルほどの巨躯、茶色の毛並み、手足から生えるごつい爪。
普通の人間ならば背筋が震えあがる記号を併せ持つその大熊に、ヴィルは鋭い眼差しを送りながら猟銃を構える。
「躾がなってない
お仕置きだ、と言わんばかりに顔めがけて猟銃を連射する。
引き金を引けば次の弾丸が自動的に装填されるセミオートライフルにはニ十発の弾が装填されており、彼はその内の五発を躊躇うことなく、滑らかに打ち尽くす。
しかし、その行動を予測していたかのように親熊は顔を両手で覆っていたため死には至らなかった。
「慣れてるじゃねえか」
ヴィルの言葉を聞き終えぬうちに大熊は口を大きく開いて飛び掛かる。その瞬発力は見た目からは想定できないもので、二十メートルはあった距離を一気に詰め寄った。
しかし。
熊が人間の行動を予測するように、人間もまた敵の動きを予測しているのだった。
「こういうのは慣れてねぇだろ?」
大熊が食らいついたのは、地面。
そんな無様に膝をついた親熊の背後には、銃を突きつけるヴィルがいた。
飛び避けることなく、ただ膝を曲げて身を屈めることでその肉薄を避け切ったからこそ、すぐに反撃ができたのである。
「若いからって無茶すんなよ」
何処か悟ったような、色の薄い声でそう告げると——
一切標準を動かすことなく、親熊の脳天へ銃弾を撃ち込んだ。
親熊との遭遇戦を終えて。
いつの間にか戻ってきていたムーを肩に乗せながら、ヴィルは親熊を引き摺って帰路についていた。
「今夜は熊の肉だ。上等品だぞ、ムー」
「ホッ、ホッ」
六十を超えて尚、熊を一人で引きずり回すその膂力から、彼もまだまだ老いてはいないことが察せられる。
子熊のことは構わず、仕留めた親熊を無駄にすることなく、彼は狩人としての一日を終えようとしていた。
しかし、そんな彼の前に一匹の来客が現れる。
「グゥルルルルルゥ……」
一匹の狼。
しかし、その大きさは顔だけでヴィルを容易く超えており、その図太く長い前足に殴られでもしたらひとたまりも無いだろう。
「……ハイタルフか」
森や密林などに生息すると言われる大狼の一種で、恐らく熊の血の匂いに釣られてきてしまったのだろうとヴィルは察した。
「しくじったな、やっぱ血抜きはしておくべきだったなぁ」
目の前の喉仏から鳴り止まない威嚇の声など気にならないとでもいう調子でヴィルは場違いなことをぼやいた。
そして彼は、肩に乗っている相棒に頼み込む。
「悪いな、ムー。尻ぬぐいのようで悪いが、仕事だ」
世界で一番心強い相棒は、主人の言葉を——仕事という単語に反応すると、その体を膨張させながらヴィルの肩より降り立った。
グングンと、ブクブクと、どのような細胞分裂が起こっているのか想像もつかない速さでムーの体はやすやすと天然の屋根に頭をぶつけるほどまで肥大した。
嘴は一突きで木をなぎ倒し、爪は人先で人命を切り伏せるほどに。そして、体毛は黒く染まっていた。
可愛らしい梟は、もう何処にもいない。
タイタンハリフクロウ——普段は可愛らしいが、怒るとその体を何十倍も膨らませ、その圧倒的な質量で外敵を排除する。ムーはそんな梟なのである。
「今日は熊の肉で、明日は狼の肉だ。やったな、ムー。食費が浮くぞ」
「ホ゛―ッ、ホ゛ーッ!」
そこでハイタルフはやっと気づいた。
自分が何に喧嘩を売ってしまい、これからどのような末路を辿るのかを。
なんとか逃げようとするが——
可愛らしい犬の鳴き声が、短く、甲高く、虚しくも、森に響いた。
*****
ある所に、一人の狩人と一匹の梟がいた。
村との関係は円滑で、生活に不自由さは無い。だが、そこにはちらほらと危険なことが混ざっていた。
まぁ、血生臭いが幸せだよ。あぁ、幸せだ。
爺と梟 ね。 @nero-hikikomori
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