音もなく飛ぶ梟は福を呼ぶ

花岡 柊

音もなく飛ぶ梟は福を呼ぶ

 その年の夏。とてもきりりとした、けれど可愛らしく大きな瞳をもつ彼に出会った。彼は言った。信じなさいと。


 体調の変化を感じたのは、つい最近だった。なんとなくいつもの自分と違う。うまく言葉では言い表すことは難しけれど、普段はしない仕事上のケアレスミスが増えたことも、その体調の変化だと思う。

 今まで生真面目なくらい仕事には真摯に向き合ってきた。おかげで、ミスをしても周囲はわりと温かい目で許してくれた。ただ、自分の中で覚える違和感には、首を傾げる回数が増えていき、私はあることに気がついてしまった……。まだ誰にも言えず抱え込んだ悩みに。

 一人の胸にしまっておくには大きすぎる問題に、私は背を向け、逃げ出したくなっていた。

 逃げ出す場所は、色々考えた。最初に浮かんだのは、もちろん彼の家だ。

 就職して半年が経ったころから付き合いだした彼は、友達の友達から勧められた人だった。はにかむように笑う顔や、パスタを作ることが得意で、洗濯をするのは嫌いだけれど、掃除機は好きで、私が作った料理を口いっぱいに頬張るところに好感を持った。

 非の打ち所がないとは言えないけれど、人を思い遣ることはできる人だと思っている。

 そんな彼の部屋を訪れたのは、一週間前のことだった。そこで見つけたものに気が動転して、私は部屋を飛び出した。体調も体調だったから、思考は冷静な判断力を失っていたのだろう。

 洗面所の鏡ドアの中。彼のシェービングクリームや男性用洗顔フォームに歯磨き粉。そんな物たちが雑然としまわれている奥に、キラリとした輝きを潜め置かれていたのは、小さな小箱に入った、見たことのない指輪だった。そう、指輪は“置かれて”いたのだ。

 そもそも、今時指輪を忘れるなんて古典的なことが起こるのもおかしいし。彼のシェービングクリームや洗顔フォームの後ろに置いてあること自体もおかしい。

 これはどこかの誰かが仕組んだ、彼女である私に対する宣戦布告なのだろうと息をのみ慄いた。見たこともないその指輪の光に眩暈さえ覚えた。

 休日にキッチンでパスタを茹でる彼に何も告げず、玄関でヒールに足を入れた。玄関先にあるシューズボックスの上で、二羽の梟が私を見ていた。「福が来るから」と小さな陶器でできたフクロウの置物を二つ買って玄関に飾ったのは彼だ。「僕と君だよ」そう言ってはにかんだ彼に笑みを返したことを思いだした。

「福なんて、来ないじゃないっ」

 憎々しげに呟いて、その一つを握りしめ彼の家を出た。

 あのあと彼は、茹で上がった二人分のパスタをどうしただろう。突然帰ってしまった私のスマホ画面には、彼の名前が何度も表示されていた。

 初めは彼も頻繁に連絡をして来ていたけれど、時間が経つにつれて仕事が忙しいのか、それとも浮気がバレた事を知ったのか。連絡の頻度は、徐々に落ちていった。

 その頃になって、私は自分の体に感じる異変に、更なる眩暈を覚えていた。

 何もこんな時に……。

 唇を噛み、悔しさに何度も涙をにじませた。

 三日の有給休暇を取った。本当はもっと長く休みたいところだったけれど、今の日本ではなんでもない日に連続して休暇を取るのは三日が限度だろう。

 休暇が明けたら、どうするべきか。この三日で答えを出さなくてはいけないだろうと思っている。長く先送りには、到底できることではない。

 こんな風になっても、それなりに冷静な思考が働くものだと嘆息する。

 彼に相談することができない以上、他に行くところと言えば一つしかない。

 実家は、もうない。父と母は、私が高校に上がる頃に離婚した。双方には既に大切にしたい家族がいて、私はそのどちらの家族になることも選ばなかった。というより選べなかった。

 いや、選べないよ、普通。だって、父には若い奥さんができ、相手のお腹には命が宿っていたし。母は、何を思ったのか青い目の男とカナダへ飛んだ。一緒にカナダへ来るかと訊かれたけれど、遠い異国の地に青い目の男と住むことには抵抗を感じて首を横に振った。母は、肩を竦めとても残念そうにしていた。その仕草は、さながらハリウッド映画の中に出て来そうな脇役みたいで。青い目の男に仕込まれたのかと、ため息しか出なかった。

 そんな私を快く引き取ってくれたのが、父方の祖父母だった。可哀想な思いをさせてしまったと、彼らは私のことをとても大切に可愛がってくれた。

 畑を耕し、農協に野菜を卸し。いくばくかの資金を得て暮らす祖父母に引き取られた私は、高校生活を緑多い地で暮らした。と言っても、都内からそれほど離れているわけでもなく、通学には多少の時間を要したものの、希望の高校に通うことができていた。

 高校を卒業後、都内に出て一人暮らしをし、父と母の援助で大学生活を送り暮らした。私を一人置いていったことを、両親はそれなりに悪いと思っていたようだ。

 そうやって、高校の三年間だけを暮らした緑の地に、有給期間を使って来ていた。

 空は高く、雲は少ない。風も今日は穏やかで、近くの低山から、百舌鳥の鳴き声が聞こえてくる。秋の気配が漂い始めた緑多い地は、都会よりも先に肌寒さが身に染みた。冷たくなり始めた風に、カーディガンの前を合わせる。

 祖父母は、今も元気に畑で作業を続けている。突然やって来た孫を見たら、喜んでくれるだろうか。

 少しの荷物を詰め込んだバッグ片手に、スニーカーで砂利や土を踏み、平屋の大きな家の前に辿り着く。持っていた鍵で玄関ドアを開け荷物を置いた。

 荷物のなくなった右手で、お腹のあたりに手をやる。

「空気が美味しいね」

 何の覚悟もないのに、どうしてか自然と小さく語りかけ、緑濃い山に目を移した。左手には、フクロウの置物を握りしめている。

 こんなもの捨ててしまえばいいのに、できなかった……。

 都会では、見られない広く高い空を仰ぐ。

 近くの低山に足を踏み入れ、森林浴をのんびりとすることにした。入って間もなく桜の木が見えて、こんなに立派で古い木が近くにあったのかと、高く見上げたところにある“うろ”に目を止めた。桜はとうの昔に散っていて、枝の葉は寂しげだ。

「僕の家に何か用かい?」

 不意に声をかけられて、飛び跳ねるように驚いた。いつの間にそこにいたのか。 音もなく現れたのは、黒い瞳がきりりとしている印象的な男性だった。柔らかそうな質感の髪の毛が、風にほんの少しだけ揺れていた。

 家って?

 私は辺りを見回す。民家といえば、祖父母の家とあとは近所の鈴木さん。それから近藤さんのお家くらいだ。それだって、歩いて五分はかかる。都会のお隣と、田舎のお隣では距離がはるかに違う。

 もしかして、近藤さんのところのお孫さんだろうか。孫がいると聞いたことがある気がする。見たところ年は私より五つ六つ上くらいかな。三十代前半というところか。あ、もしかしてこの山は、近藤さん所有のものなのかもしれない。勝手に入ったから、怒っているのかな。でも、何か採ったわけじゃないし。

 頭の中で言い訳を考えていると彼が近づいて来た。

「冬に僕の嫁が使うんだ」

 近藤さんは、古木の桜に大きくてしっかりとした手をつき“うろ”の辺りを見上げた。

「君も家族ができるんだね」

「え……」

 咄嗟にお腹に手をやった。

 まだ誰にも話していないのに……。

 私のお腹には、彼の子が宿っている。その話をするために訪れて、指輪を発見したものだから、どうにもならずにいたのだ。

「子供は可愛いよ。囀る声も、餌をせがむ姿も。何をしても守りたいくらいに」

 可愛いか……。自分に子供など、こうなってみてもまだ実感がわかない。

 離婚した両親のことを思えば、そんな親から生まれた私がまともに子育てなどできるようにも思えない。

「君は君だよ。大切なのは、愛だ」

 恥ずかしげもなく、愛を口にする近藤さんを、いつもの私なら笑ってしまっていたかもしれない。けれど今は、どうしてか笑えなかった。

 愛がどれほど大切か。どれほど私が欲しているものか。こうなってみて、痛いほどわかったからだ。

 笑うなんて、できない。

 私は、ずっと両親の愛が欲しかった。両親に愛されなかったかわりのように、彼の愛を欲しがった……。

「愛はね、欲しいばかりじゃダメなんだ。僕はね、大切な家族のために、愛することをやめたりしない」

 彼は話しながら、桜の枝に視線を向ける。そこへ、一羽のふくろうが音もなく枝に止まった。首を傾げ、大きな瞳でこちらを見ている。

 こんなに間近で梟を見られるなんて驚きだ。

「彼女もね、冬に向けて準備に入るんだよ。僕たちは、これからやってくる命のために、この場所を守っているんだ」

 彼は、古木の桜に止まる梟を見る。

「愛して欲しいなら、信じることだよ」

 彼は、真っ黒な瞳で私を見る。

「僕たちはね、どちらかが命の灯火をなくすまで、生涯共に暮らすんだ。子供は巣立つけど、また新たな命を育み、ずっと命ある限り一緒にいる。愛だろ?」

 桜の枝に止まる梟を見上げる彼の目は、愛しそうに目尻を下げている。

「さあ、日が暮れ初めて冷え込んできた。体を冷やしちゃいけないな」

 彼に言われ、カーディガンの前を引き合わせるようにしてお腹を守る。途端、強い風が吹いて目をギュと閉じた。風がやみ瞼を持ち上げると、目の前にいたはずの彼の姿はもうなくて、見上げた桜の枝につがいの梟が止まっていた。

 大きく羽を広げた片方の梟が、もう一羽を促すようにして空へと飛んでいく。羽音も立てず、とても綺麗に空を駆け抜け飛んでいく。

「綺麗……」

 そっとお腹に手をやる。ずっと握りしめていた左手を開くと、小さな陶器の梟がこちらを見ていた。

 彼と話してみようかな。欲しいばかりの愛はやめて、信じて、愛してみようかな。


 数か月後。左手に光る指輪と大きくなったお腹。キッチンでパスタを茹でる彼を、私は愛しく眺めるのだ。

「梟はね、生涯同じパートナーと一緒にいるんだって」

 出来立てのパスタを頬張り彼が笑った。

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