月が綺麗な日

生き馬

短編

月乃つきのさんなら分かってくれるよね?」


 懇願する言葉とは裏腹に薄ら笑いを浮かべた朱花しゅかの前、月乃には首を縦に振る以外の選択肢は残されていなかった。


「ありがとう。月乃さんなら絶対分かってくれると思ったよ」

「あはは……」


 精一杯の作り笑いを浮かべながら、月乃はスマホと財布を片手に浴衣姿のまま純和風のその部屋から飛び出る。


 302号室──旅館の部屋番号を確認した月乃は、まもなくやって来るであろう朱花の友人達に出くわさないよう、駆け足でエレベーターへと向かう。


「はぁ……」


 各所に花が生けられた趣きのある通路を抜けエレベーターに乗り込んだ月乃は、手すりに体重を預け人知れず溜息を吐いた。


 修学旅行。

 普通の中学生からすれば心踊る一大イベントなのだろうが、月乃にとってそれは苦痛に他ならない。

 エレベーターに取り付けられた鏡で前髪を整えながら、月乃は今に至るまでの事の顛末てんまつを振り返る。







「部屋割りはくじで決めます」


 先生のその発言に対して殆どのクラスメイトがブーイングを飛ばす中、月乃は密かに胸を撫で下ろした。


 月乃はクラス内で虐めに遭っていた。

 肉体的な虐めこそ殆どの無いものの、周りから無視され、陰口を叩かれ、私物を捨てられ、机に落書きされる。

 そんな絵に描いたような虐めをうける状況がもう3ヶ月は続いていた。


「くじを交換しても意味ないからな。部屋割りは修学旅行当日に伝えるから、出席番号1番の赤川から順番に番号を言っていけ」


 先生のその言葉に、クラスメイト達は順々にくじに書かれていた番号を読み上げる。

 先生は旅館の部屋が描かれた見取り図に名前を書き込んでいる様子だったが、一番近い位置に座っている月乃が首を伸ばしてもその概要まで確認する事は出来なかった。


「よし、じゃあこれで今日のホームルームは終わりだ」


 生徒全員の名前を書き入れたらしい先生がそう告げると、男子達は鞄を担ぎ三々五々教室から出て行く。

 女子達はそれぞれ仲の良いグループで集まって、楽しそうに修学旅行についての話し合いを始めた。


「……」


 月乃は鞄を肩にかけると、女子達のグループを一瞥して教室から出て行く。



 3ヶ月前まで、月乃のクラスでは男女間で大きな争いが起きていた。

 契機はクラスで最も大きな発言力を持った男子と女子の間の小さないさかい。

 それが気付けば男子が女子をけなし、女子も男子を貶しの貶し合いに発展した。

 男子に話しかけた女子は密告されしだい周りから無視され、そんな状況下で女子達は事あるごとに男子達を罵倒するようになった。

 月乃も虐められるのを恐れて本心とは別に些細な事で男子達をののしった。


 日常的に言い争いが起き、異性同士が敵意をぶつけ合っていたその当時、我関せずとその態度を変えなかったクラスメイトは殆ど居なかった。


 そんな長い男女間の争いの中、月乃は一人の男子の事が好きになっていた。

 北野きたの ゆう──男女間の争いが起こる前は、大人びており超然とした態度で女子間でも一定の支持を得ていたその男子は、争いの中にあっても決して態度を変えなかった。

 月乃はそんな訳あって男子間では嫌われていた北野君の事を初めのうちは哀れんでいたのだが、次第にその心の強さに尊敬の情を抱き始め、それが恋心へと変わるのに時間は掛からなかった。

 男子に向けた悪口の中に、北野君への悪口は最初から最後まで一つもなかった。

 気付けば授業中でも無意識に一挙一動を追ってしまう程に、月乃は北野君の事を好きになっていた。

 しかし北野君にその思いを告げるのは状況が許さず、それに加えて月乃は生来の引っ込み思案が足を引っ張り告白するだけの勇気を集める事も出来なかった。


 こうして終わりが見えない貶し合いを続けていた月乃達だったが、それが終わりを告げたのはあまりにも唐突だった。


 病み上がり──風邪が治り3日振りに登校した月乃は、下らない話をしていた男子達にいつもの調子で悪口をぶつけた。

 後になってその男子が言い返さずに呆気にとられていた事、他の女子が誰も男子を貶さなかった事を何故疑問に思わなかったのかと後悔したのだが、後の祭りだった。


 月乃は周りの異変に気付かず、休んでいた時間を取り戻す様に罵倒を重ねた。


「ありえないんだけど」


 朱花のその言葉も、月乃に向けられた物だと気付けなかった。


「ねえ、聞いてんの?」


 怒りを孕んだ表情で朱花がグッと月乃の肩をグッと引いた時に初めて、月乃は異変が起きている事に気付いた。


「え?どうしたの朱花」

「だからさ、ありえないって言ってんの」

「何が?」

「は?本気で言ってんのそれ?折角クラスが纏まってるのになんでそれを乱すような真似するのかって聞いてんの」


 朱花の他にもクラスメイト全員が月乃に侮蔑の視線を飛ばす中、月乃は凍り付いた笑みを浮かべて、


「いや、だって男子が馬鹿な事してたから。男子なんて馬鹿にされて当然でしょ?」


 男女間の争いが始まった当初、朱花が幾度となく繰り返したその言葉を弁明する様に告げた月乃に対して、朱花は呆れ返ったように嘆息した。


「ごめん。これからは月乃とは仲良くやっていける自信ない。後は勝手にすれば」


 そう言い放って自分の席へと踵を返す朱花に追随するように、女子達が朱花へと群がる。


「朱花大丈夫?」

「本当にありえないよね」

「性格悪すぎ」


 小声で呟かれる月乃への悪口に呆然と立ち竦む中、月乃はようやく自分が大きな間違いを起こしていた事に気付いた。

 そしてそれは月乃が仲良しだと思っていた女子達は、男子に対する罵倒を重ねる事で生まれていた連帯感が生み出した錯覚であったという事。

 それ故に今の今まで誰も月乃に男女間の争いが終わった事を告げなかったという事実を如実に示していた。


 そしてこの日を境に月乃は虐められるようになった。

 北野君の事を朱花が好きであると女子間に大っぴらに広めて牽制していた事も、もう月乃には関係なかった。

 幾度となく抜け出そうと努力しても変わらないこの現状に、月乃の心は折れかけていた。

 実際のところ男女間の争いの時同様に態度を変えず虐めに加わる事もない北野君に対する恋心は前より苛烈に湧き上がっていたのだが、その分諦念の情と共に消えていくのも速かった。

 そして次第に北野君の事を恋する事自体が不遜であると、そもそも自分が無視されるようになったのも悪口を言った事への報いだと月乃は極度に消極的に考えるようになっていた。


 周りからの信頼を回復する為に行なっていた掃除や水やり等の雑事も、気付けば周りに流されて悪口を言っていた自分への罪滅ぼしに目的が変化していた。


 皮肉にも通知表や先生からの評価が上がっていく中、クラスメイトからの月乃への扱いは一切変化しなかった。

 クラス内での行動が模範的になるのに反比例するように家での過ごし方は退廃的になり両親からは大いに心配されたが、自分が学校で虐められている事は頑として言わなかった。


 こうして月日が流れ、親に強く勧めれて不承不承で行く事にした修学旅行で、月乃は朱花と同じ部屋で泊まる事になったのだ。



 そして今──


 月乃は所々に和の細工を凝らし床に設置されたミニスタンドに明るく照らされた廊下を抜けると、別館へと続く外廊下に差し掛かる所で一旦歩みを止める。

 ホテルに到着した時の先生の説明では、別館に行ってはいけないとされていた。

 別館は寒風が吹き付ける外廊下の先にあるのだが、見とり図を見る限り外廊下の中腹から庭園回遊路が分岐しているらしい。


「……」


 月乃はここから先に進むかどうか躊躇する。

 そもそも月乃が部屋から出される事になったのは、自由時間になり朱花達のグループが誰の部屋に集まるかの話し合いをした結果、月乃と朱花の部屋に決まったからだ。

 朱花は修学旅行の機会に北野君と仲を深めたいらしく、仲の良いクラスメイトの他に北野君も誘うらしい。

 朱花にとって邪魔者である月乃に客室内での居場所はない。

 結果的には朱花に頼まれて出て行く形となったが、頼まれずとも最終的にはその場の空気に耐えかねて出て行く事になっただろう。

 そして実際出て行ったはいいが、月乃には時間を潰すと言う事以外具体的な予定は無かった。


(……行こう)


 あくまで別館に行ってはいけないだけで外廊下に出るのは問題無いだろうと判断した月乃は歩みを進める。


 石灯籠が規則的に点在し、夜特有の閑寂かんじゃくとして神秘的な美しさを湛えた庭園を臨める外廊下を進む。

 分岐路を折れ庭園回遊路を進むと、すぐに三叉路にぶつかり、月乃は少し悩むと小さな丘の上に続く石畳の小道を選択する。


 外套を着て来なかった事を後悔しつつも、身を縮こまらせるようにして石段を登って行く。

 丘の頂上まで辿り着いた月乃は、目前の小さな東屋あずまやを目に留めると、次の瞬間見開いた。


 東屋内に設置されたベンチの片側に、浴衣を着た見覚えのある後ろ姿の男子が座っている。


「……北野君?」


 小声で呟いた声に反応したその男子は、驚いたように後ろを振り返ると、


「月乃さん……だよね?」


 そう言ってこちらに探るような視線を向けると、次の瞬間には悪戯がバレた少年のような、北野君にしては珍しいバツが悪そうな笑みを浮かべた。



 東屋内のベンチ──友達としては遠く、他人にしては近い中途半端な位置に腰掛けた月乃は、北野君につられるように夜空を見上げる。


「うわぁ、綺麗」

「だよね」


 都会から離れた旅館内の庭園から見上げる夜空には満天の星が煌めいていた。

 ただ一つ残念な事があるとするなら、今の月乃には夜空の星を楽しむ余裕がない事だ。

 北野君がすぐ隣にいる状況に、朱花を前に諦めた筈の恋心が再燃し、顔が赤らみ心臓が早鐘を打つ。

 この幸せな空間を壊したく無くて、月乃は朱花達が探しているという事を伝える事が出来なかった。


「……」

「……」


 夜のしじまが辺りを支配する中、北野君の吐息すら聞こえるような気がして、月乃は自分の心音が聞こえているのではないかと途端に不安に襲われる。


「月が綺麗だよね」


 北野君との距離を巡ってお尻の位置を微調整させていた月乃は、唐突に投げかけられたその言葉に心臓が大きく脈打つのを覚えた。


 有名な逸話の一つに、夏目漱石が“I love you”は“月が綺麗ですね”と訳せと教えていたという話がある。

 緊張と興奮も相まって混乱する脳内で、月乃は今の北野君の発言の意図を酌もうと必死に考えを巡らす。

 額面通りに捉えれば、北野君は単に夜空に浮かぶ月が綺麗だと呟いたのだろう。

 実際夜空の中天には満月が浮かんでおり、満天の星に負けない美しさを湛えている。

 しかもそう呟いた相手はクラスメイトから虐められている自分である。


「……うん。ずっと見ていたいくらい」


 結局額面通りに捉えて思った通りの言葉を返した月乃に対して、北野君は何かに気付いたようにハッと目を見開くと真意を探るように月乃の顔を見つめる。


 永遠とも思える時間を経て北野君の口が開く──ちょうどその時。


「あ、北野君!」


 名前を呼ばれ振り返る北野君の隣、月乃は最悪な状況に陥った事を悟り身を強張らせる。

 こちらに近づく足音すら月乃を責め立てるように聞こえ、月乃は恐る恐る振り返る。


「……なんでここに居るの?」


 腰に手をあて月乃を睥睨へいげいする朱花は、先程とは打って変わって低く、押し殺したような声で尋ねる。


「えっと……」

「私が北野君を探してたのは知ってたよね?」


 氷のような視線で月乃を難詰する朱花の言葉には、自分が好きであると喧伝していた男子と抜け駆けしていた月乃に対する怒りが込められていた。


「ごめんね北野君、こっちの話で。それで今からみんなでトランプするんだけど、北野君も来るよね?」


 朱花は暫く月乃を糾弾する姿勢を取っていたが、本来の目的を思い出したのか慌てたように北野君に向き直ると、甘えたような猫なで声でそう尋ねる。


「いや、僕は……」

「今人数が足りなくて、少しの間だけでも良いから」


 断ろうとした素振りを見せた北野君に対して、朱花は言葉を重ねて無理やりそれを制すると、


「じゃあ月乃さん、バイバイ」


 怒りと嘲りを含んだ声で、月乃に別れを告げるなり北野君の背中を押して本館へと踵を返す。


 月乃はそれをただ見ている事しか出来なかった。





 ◇


 朱花は弾むような足取りで外通路を歩いていた。

 無意識の内に奏でている鼻歌に気付かない程に、朱花は浮かれていた。

 それもその筈──昨日の夜に北野君を呼んで行ったトランプもお開きとなり、空気を読んだ友人が早めに帰った事で二人きりになったそんな状況。

 それとなく月乃と夜空を見ていた件についてカマをかけた所、


「いや、僕は単に夜空を見るのが好きだから」

「じゃあ、月乃さんが一緒に居たのは、偶然?」

「うん」


 北野君のその言葉に嘘が混じってるようには思えなかった朱花は、一瞬言うべきか躊躇して、


「じゃあ、私も明日北野君と一緒に夜空を見るってのは……ダメ?」


 言葉が不自然にならないように、耳たぶが熱くなる感覚を伴いながら朱花は問いかける。


「……いや、ダメじゃないけど」

「じゃあ、決定ね。場所は昨日北野君が夜空を見てた場所で、何時に行くの?」

「うーん。夕食食べてお風呂に入った後で人が少ない時間だから、10時くらいかな」

「分かった、私もその時間に行くね」


 会話はそこで終わり、北野君は「じゃあ」と別れを告げると客室から出て行った。

 朱花は安堵と興奮で頬を上気させると、そのまま布団に倒れ込み枕に顔を埋めた。

 暫くして帰ってきた月乃に抱いていた憎しみもどこかに消え失せ、その後も互いに一言も喋る事もなく布団に入り眠りに就いた。






「はぁ……」


 これから待ち受ける夢のような状況に、朱花は緩む頬を抑える。

 目前の石段を登れば北野君が待っていると思うと、僅かな緊張と多幸感で胸が一杯になる。


 朱花は一歩一歩踏みしめるように石段を登る。

 今回北野君と夜空を見るに当たって、朱花は北野君に自分から告白する事を心に決めていた。

 異性と夜空を見上げると言うイベント自体がこれ以上ない程にロマンチックで、ここを逃せば次いつ告白する機会が生まれるのか分からないのも決意するに至った理由だった。

 この事は当然誰にも伝えておらず、友人達は今頃朱花の事を探しているか各自思い思い羽を伸ばしているのだろう。

 因みに同室の月乃は、客室から出る直前まで客室の隅で怯えたように縮こまっていた。


 荒らぐ呼吸を胸に手を置く事で抑え、石段を全て登り終えた目前。


 果たして──北野君は東屋のベンチに腰掛けていた。


「北野君!」


 駆け足で近寄り北野君に密着するように腰掛けた朱花は、興奮を隠すように照れ笑いを浮かべる。

 北野君はそんな朱花を一瞥すると、


「ほら、見てみてよ」


 そう言って人差し指を夜空に向ける。

 朱花が夜空に目を向けると、そこには満点の星と綺麗な満月が浮かんでいた。


「うわぁ……凄い」

「凄く星が綺麗だよね」


 そう言って星に目を向ける北野君に同調するように、朱花は、


「星もそうだけど、月が凄く綺麗、今まで見た中で一番」


 さやかに朱花を照らす満月に対して述べた率直な感想に対して、北野君は口を噤む。


「北野君?」

「……ああ、ごめん少し考え事をしてて」


 北野君が何を考えていたか気になったが一先ず捨て置いて、朱花は夜空を見上げるかたわら、脳内で告白の予行演習をする。

 北野君の横で揺らぎ始めた心を抑えつけ、決意を固めて再度口を開いたのは雲が月を覆った瞬間だった。


「あのさ、北野君」

「うん?」

「わ、私──」


 朱花は息を吸い込み、そして、


「──北野君の事が好きなの」


 耳の先まで紅潮した顔に潤んだ瞳。

 北野君の瞳を覗くようにして告げたその告白に対して、


「ごめん」

「……えっ」


 北野君は心底申し訳ないと言う風に俯くと、ベンチから立ち上がる。


「今日の月が今までで一番綺麗って言ってたよね」

「え……う、うん」

「それからずっと考えていたんだけど、やっと気持ちが固まった」


 北野君はもう夜空も朱花の事も見ていなかった。

 北野君は「ごめんね」と前置きをして、一息に告げる。


「僕には昨日の月が今までで一番綺麗に見えた」


 言葉の意図が汲み取れずに固まる朱花に対して、北野君はもう一瞥さえ寄こさない。

 北野君は吹っ切れたような笑みを浮かべ、本館へ目を向けると最後にこう言った。



「だからそれを今から伝えに行く事にするよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月が綺麗な日 生き馬 @reminiscences

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ