第9話
最後の日も同じように穏やかな朝が訪れた。
私は昨日の残りの後かたづけを、最後まで手伝った。レンタルしていた椅子、テーブル、食器と屋外用の調理器具を、受け取りにきた業者に引き渡してすべてが終わった。
そして遅い昼食を翡翠と遠雷と、そしてタフタと一緒に食べた。
「そろそろおいとましようと思います」
食後にそう切り出すと、翡翠と遠雷の動きが止まった。翡翠の方が先に我に返り、私の前へ進み出る。
「どうするか決めたの?」
彼はそう言って、私を見上げた。遠雷も少し後ろに立って、私と翡翠を見守っている。
私は頷いて言った。
「一度、戻ろうかと思います」
翡翠の後ろで、遠雷が目を細める。
信号を受信している。私があそこを飛び出してきてから、もう既に七十八時間四十九分二十二秒が過ぎた。
「コノンに戻るの?」
翡翠はまだ不安そうな表情で、私を見上げている。私は微笑んだ。
「そのつもりです」
「ほんと? 海に行く気はなくなった?」
「はい。考えを変えました」
「よかった」
翡翠が肩で息を吐き、笑った。
「翡翠、教えてください。どうして私のような見ず知らずの、会ったばかりの私が自殺しないことを喜んでくれるんですか」
この質問に、翡翠は意外そうに目を上げる。
「そんな…、説明できる理由なんてないよ。目の前に自殺しようとする人がいたら、そのまま死んじゃうより、思いとどまって生きてくれた方が、誰だって嬉しいに決まってるよ」
「そうでしょうか」
「ジェイドはそうじゃないの?」
翡翠の目がまた不安げに揺れた。私は一度遠雷を見た。彼は無表情に、私たちを見つめている。私は翡翠に視線を戻した。
「翡翠、お別れの前に、打ち明けたいことがあるんです」
「なに?」
「私は実は、人間でなく人造人間なんです」
「だと思ってた。話し方、なんだか堅苦しいもん」
翡翠はそう言って笑ったが、その表情や心拍数、表面温度の変化から、彼が私の言葉を信じていないと結論が出た。けれど翡翠の理解が正確でないことは、重要ではなかった。
「それで、お願いがあります」
「人造人間が、お願い?」
「そうです。ここで過ごした時間は、私にとって非常に重要で、おそらく、大切と言う言葉で表すのが適切な記憶になりました。誰かに情報として提供するようなことは、したくないのです。そのためにはロックが必要です」
「ロック?」
「あなたたちと会ってから今までの記録を、編集しました。これから暗号モードに切り替えます。好きな言葉を言ってください。それでロックがかかります。翡翠自身がその言葉を私に言わない限り、このロックは外れません」
翡翠が戸惑った表情をして、遠雷を振り返った。彼は笑って頷く。
「わかったよ」
翡翠は苦笑交じりに頷いた。それから少し考えて、私に言った。
「最初の言葉は『また会えたね、ジェイド』。それにジェイドが答える。おれたちの名前」
「『翡翠、遠雷』ですね」
翡翠が頷いた。私は笑った。
「これでロックされました。あなたたちふたりが私の前に揃うまで、永遠に解除されませんね」
「だといいな。また、会えるかな」
「私もそれを願います。それと、もうひとつ」
私は自分の胸に手を当てた。私は今朝、寝間着からしみの広がった生乾きのシャツに着替えていた。シャツはもう乾いていたが、赤いしみは落ちていない。
「この服、いただいてもいいですか」
「いいけど…、いいの? ジェイドが気に入ったなら、新しいものをプレゼントするよ」
翡翠はそう言って、胸のあたりに大きく広がるワインのしみを見つめた。
「いいえ、これがすっかり気に入ったんです」
私はしみに手をやった。これは私が、昨晩人間として振るまい、それが受け入れられたなによりの証拠だった。元から身につけていた服は、袋に入れてもらった。洗濯された衣類は、清潔な匂いがした。
翡翠と遠雷は、タフタを連れて庭先まで見送ってくれた。遠雷は私が望む場所まで車で送る、と言ってくれたが、私はそれを断った。
私はひとりずつと握手をして、タフタの頭を撫でた。
「さよなら、元気でね」
翡翠の声を聞いて、私は歩き出した。歩く速度は時速三十五キロメートル。もっと早く歩けるが、人間らしく、という遠雷の言葉が、私の中に残っていた。
私は信号を受信している。このまま歩き、彼らの家から離れた一時間後に、私は信号を受信したメッセージを送るつもりだ。そうすれば私が自分の足で元の場所に戻るよりも早く、回収されるかも知れない。その先、私がどうなるか、予測はできなかった。
だが、私が廃棄されるにせよ、このまま使用されるにせよ、私は変わらないと思った。
私には感情がある。それは人造人間としては欠陥だ。私は決して、人間にはなれない。だが今の私のままで、この欠陥品のままで、私はもっと別のなにかになれるかも知れない。
それがなにか、私の解析では結果が出なかったけれど。私の胸は熱かった。
私は歩きながら空を見上げた。秋晴れで空が高い。遠くに地球が見えた。
ジェイドの姿が見えなくなるまで、翡翠と遠雷はタフタを連れて、そこにいた。
「不思議な人だったね」
「そうだな」
「自分のことを人造人間だと思い込んでるのに、自殺を考えるなんて、変だよね」
「そうか?」
遠雷は首をかしげ、からかうような口調で言った。
「
「言われてみればそうかもしれない」
翡翠は笑った。
「また会えるといいね」
「そうだな、会えたらロックを外すのが楽しみだな」
遠雷のことばに、ふたりは顔を見合わせて笑い合った。その足元で、同意を示すかのように、タフタが小さく吠えた
<了>
◆月的抒情歌 挿絵 @fairgroundbee
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