ミネルバの使徒

凍龍(とうりゅう)

第1話

 私がこの春から勤めるようになった図書館は、湖に面した森の中にある。

 湖と言ってもそれほど大きくはない。閲覧室の窓からでも向こう岸にそびえるマンションのカーテンの柄が判るほどだし、湖を越えて行く高架道路はバスなら数分、歩いても10分かからずに対岸までたどり着く。

 でも、湖岸にはぐるりと桜の並木があり、図書館を囲むように広がる森には野生のリスや野鳥の姿も多い。その上秋になれば並木道に転がるどんぐりは避けて歩くのも難しいほどだ。

 都会にぽっかりと残されたオアシス的空間なので、日中は平日でも散策を楽しむ人が多く、図書館に併設されたカフェはいつもお客さんで一杯だ。

 でも、日が暮れると、街灯の少ない森の中は途端におどろおどろしい雰囲気に一変する。

 うっそうと茂る木々の陰は行き交う人の顔もおぼろなほど薄暗く、ざわざわと葉なりのする木立の中は絶対に一人では歩きたくない。

 実際に以前何度か不審者が出て、若い女性が被害に遭ったという話もある。

 先輩職員にそのことをアドバイスされた私は、勤務初日にさっそくマウンテンバイクを買った。後付けタイプのLEDヘットライトをハンドルに2つ増設し、真っ白い光で暗闇を切り裂き、猛スピードで薄暗い森を駆け抜ける。

 それでうまくいっていた。つい数日前までは。



 その日は全館一斉の蔵書点検日だった。

 うちの図書館は利用者が館内に出入りする際もわざわざ荷物検査なんかしない。図書に特殊なステッカーを貼り、扉の両側に備えたセンサーで不正な持ち出しを防ぐ工夫はしてるけど、基本的には利用者の善意に頼って運営されている。

 だから、時々は悲しい事件が起こる。

 今回図書亡失の被害にあったのは、なんと私が担当する児童書コーナーだった。

 一度に数十冊もの本が書架から消え、貸し出しの記録もない。考えたくないことだけど、おそらくは盗難だ。

 さすがに今回の亡失は規模が大きすぎた。私は管理不行き届きを資料課長にがっつりと叱られ、始末書を書かされる羽目になった。

 毎日大勢の子供たちが入れ替わり立ち替わり来館するし、本選びに困った子供たちの相談にのりながら、その一方で盗難の監視までするのは正直いって難しい。

 言われてみれば、確かに最近やたらにレファレンスサービスのリクエストが多かった。役割分担をして何人かの子供たちが計画的に私の注意を引いて視界をふさぎ、その隙に他の子供たちが図書をかすめ取っていたのだろうということになった。

「君はうちで一番若いし、受け答えがおとなしいめだからなめられたんだよ」

 課長にそう指摘され、自分でも気にしていた所だったのでかなり凹んだ。

 私は知恵の神ミネルバに奉仕する者として、なるべく多くの子供たちに本が好きになって欲しいと心から願っていた。レファレンスを希望する子供たちにも、せっかくだからいろんなことを知って欲しいと思ってできるだけ丁寧に対応してきた。子供たちの弾けるような笑顔を無条件に信じていた。

 だから、こんな結果になったことがただただ悲しかった。

「あなたは生真面目すぎるのよ。もう少し人を疑うことも覚えなきゃね」

 先輩からもそう忠告された。

 ショックでなかなか作文がはかどらず、ようやく課長に始末書を受け取ってもらえたときにはもう午後8時を回っていた。

 タイムカードを押して通用口から外に出る。外はもう真っ暗で、湖を渡ってくる風はこの季節にしては信じられないほどひんやりしていた。

 私はジャケットの襟をたて、とぼとぼと職員用の自転車置き場に向かう。遠くでチラチラまたたく蛍光灯の明かりを頼りに愛車を探し、探し、そして首をひねる。

「あれ?」

 今朝は間違いなく乗ってきたはず。一番はしっこのラックに停めて、ちゃんとチェーンロックもかけたはず。

「おかしいな」

 いやな予感を感じながら、ポケットからスマホを取り出してLEDを灯す。小さな光の輪の中で、切断されたチェーンロックが鈍く光った。

「…もうやだ」

 両足から不意に力が抜け、私はその場にぺたりと座り込んだ。



 短大を卒業し、親元を離れて生まれて初めて一人暮らしを始めた。

 もとからそれほど友達が多かったわけじゃないけど、故郷から遠く離れたこの街にやって来て、仕事以外の知り合いは皆無になった。

 サービス業なので土日も休めず、それでも、小さい頃からなりたかった憧れの仕事だからとこれまで頑張ってきた。

 そんな張り詰めた気持ちがプツンと切れた。

 闇の中からは、葉ずれの音に加え、時々小動物らしき謎の鳴き声が聞こえる。

 普段なら怖くてたまらない帰り道だけど、自暴自棄になった私にはもう、どうでも良かった。

 私はゆらりと立ち上がると、真っ暗な並木道をとぼとぼと歩きはじめる。

 涙は、あとからあとから湧いてきた。

 暗い上に涙でにじむ視界。ほとんど何も見えない林の中を、しゃくり上げながら、まるで幽鬼のように歩く。

 その時、音もなく、背後に何か大きなモノが降り立つ気配がした。

「ひっ!」

 ついさっき、もうどうでもいいと思っていたはずなのに、瞬間、背中に冷や水を入れられたような怖気おぞけが走った。

 気がつくと、私は泣きながら猛然と走りはじめていた。

 みっともなく泣きわめきながら、むやみやたらに走る。いつの間にか並木道をそれ、本格的に森の中に迷い込んでいることにも気づかなかった。

 どこかで子供のうなり声のような音がした。まるで私に呼びかけているように、遠く、近く、何度も、何度も繰り返し…。

(怖い!)

 背中がゾクゾクする。細い枝がピシリと頬を打ち、私は思わず声にならない悲鳴を上げる。それでも、不気味なうなり声は止まらない。

「…助け…!」

 声が出ない。息が苦しい。目の前がチカチカする。

 怖い。

 怖い。

 怖い!



 次の瞬間、私はたくましい腕に抱きとめられていた。

「大丈夫ですか? 何かに追われてるんですか?」

「苦し…」

 問いかける声に私は一言も発することができず、まるで引きつったように荒い呼吸を繰り返すばかり。相手は私の顔全体を覆うようにタオルのような柔らかい何かを被せると、

「落ち着いて。過呼吸です。ゆっくり、息を吐くことだけ考えて…」

 そう言い足してタオル越しに目の上をふわりと軽く押さえられる。

「まだ目は開けない方がいい。頭の中で10まで数を数えながら息を吐く。できますね?」

 首の後ろと目の上を支える大きな手のひらがほんのり暖かい。呼びかける声は低く柔らかく、なんだか不思議な響きをもっていた。

 私は訳もわからず、ただ言われたとおり、ゆっくり時間をかけて息を吐く。

 10を10回数えた頃、私はようやくパニックから抜け出すことが出来た。

「ほら、もう怖くない」

 呼吸が安定したのを見計らったように手のひらが離れ、

「はい、ここに座って」

 と抱き起こされ、座面の深いキャンピングチェアに座らされる。

「はい、これ、持てる?」

 今度は湯気の立つステンレスのマグカップを手渡される。

 その頃になって、私はようやく、赤く光る小さなLEDランタンが周囲の闇を淡く照らし出していることに気づく。

 よく見れば、私が座らされたキャンピングチェアの正面には、頑丈そうな太い三脚に据えられたカメラがあり、カメラの上にはふわふわのボアが付いたずいぶん長い棒が取り付けられている。

「あの?」

「ああ、いきなり抱きついちゃってごめんね。君、あのまま走ってると湖に落ちるところだったから」

 白い歯を見せて照れくさそうに笑う若い男性。大きな手のひらだと思っていたら、体格も相当に大きい。面識はないけど、着ているブルゾンの胸には、図書館の隣にある博物館のロゴが染め抜かれていた。

「あなたは? それにここで何を?」

 まったく得体の知れない人物ではなかったことに少しだけ安心し、おずおずと問うてみる。

「僕はお隣の博物館の職員です。ここにはトラフズクの観察で来ています。ほら」

 言いながら、カメラのプレビューモニターから赤いフィルターを外し、何枚かの画像を呼び出してみせる。

「これ、フクロウ?」

「お、さすがミネルバの使徒、理解が早いですね」

「は?」

 思いがけない呼ばれ方に思わず目を丸くする。

「あなた、図書館ここの司書さんでしょう? 前に何度か見かけたことがありますよ」

「ええっ?」

「子供たちに囲まれてて、いつも楽しそうだなって思ってたんです」

 そう言われ、今日のことを思い出してなんだか目頭が熱くなる。

「わあ、僕、何か気に触ること言いました? 泣かないで下さいよ。せっかく笑顔が素敵な人なのに…」

 そんな事を真顔で言われ、今度は顔全体がカーッと熱くなった。



「ここのフクロウはバードウオッチャーの間で割と有名なんですよ。フクロウはご存じの通り…」

「…知恵の神、ミネルバの使い」

 私は小さく答え、マグカップのココアを一口すする。

「そう、図書館の森のフクロウなんてちょっと出来すぎでしょ。だから僕、結構観察に通ってるんです」

「私、全然知らなかった」

「いつもギンギンにライトを照らして疾走してますもんね」

「え!」

 そんなところまで見られていたのかと恥ずかしくなる。

「まあ、しようがないですよね。ここは暗いし、女の子なら怖いって思うのも仕方ない」

 そう言いながらふうと息を吐き、

「でもね、たまにはガラッと見方をかえて夜の森をゆっくり歩くのも悪くないですよ。耳を澄ませばいろんな動物の息づかいが聞こえるし、決して暗くて怖いだけの場所じゃないってことがわかります」

 そう言って大きく頷いた。

「でも…」

「ま、無理にとは言いません。でも、もしその気になったら声をかけて下さい。ご近所さんのよしみでいつでもお付き合いしますから」

 そう言って私の頭をポンとなでた。

 その時、森の奥から再びあのうなり声が聞こえた。思わず体を硬くして身構える私に、彼はこう言った。

「あ、あれ、トラフズクの鳴き声ですよ」

「え!?」

 その瞬間、私の中で夜の森のイメージががらりと音を立てて変わった。


---了---


 

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