最終話 初恋
まだまだうまくいったとは言えないけれど、それでも今日踏み出せたことを、ばあちゃんに、お母ちゃんに、できればお父ちゃんにも早く伝えたい。
そう思うと居ても立っても居られないのがジナである。早速片付けてしまおうとした時だった。
「あっ」
詰襟シャツに着物、袴姿が目が留まる。向こうも気付いたらしく、店の前に立ってこちらを見下ろした。
「クリームを売ってるのか」
「はい…」
怒られるのではないか。しかしムットはその場に座り込むと、
「エナンは?」
以前と変わらぬ好意的とは言えない表情で言った。いや、側で見るとこれが地顔なのかもしれない。
「あー、えーと、エナンはクリームを取りに行ってもらってて」
うちの兄と消えました!とは言えない。そうか、とすんなり答えて、ムットは並べられたクリームの容器を手に取り、蓋を開けると鼻に近づけた。
「これはエナンが持っていったものだな。こっちは…ゼランか。あんたが作ったのか?」
「はいっ。塗りましょうか」
「は?」
目尻が少し上向きな瞳の形を丸く変えたムットに、ジナは正面から目を合わせた。
「試してほしいです」
そう言うとムットの手を取り、多くなりすぎないよう繊細に注意を払いながら、丁寧に塗り込んでいく。ムットは黙ってその様を見ていた。
ジナの何倍も自らを実験台にしてきた彼の手は滑らかで、泥臭くなくて。男の人のこんな手は初めてだった。
「あんた、手が小さいんだな」
「えっ」
目を丸くしたのは今度はジナの方である。それを見たムットが、ふっと笑う。
「あんた、変わってるな」
「…自分でもそう思います」
この人、ちゃんと笑えるんだな。
クリームを塗り込んだ手を、彼が小さいと言った両手でしっかりと包み込み、温もりとともに願いを込める。
「もう一度、会いたかったんです」
「エナンも言ってた」
「エナンにも、ムットさんにも」
「…なんでだよ、冷たく追い返したのに」
「わかりません」
でも、この人ともっと話したい。クリームのことを教えてほしいとずっと思っていた。
そして今の願いは、もっと一緒にいたい。
「はいっ」
手を離すと、魔法の時が終わったかのように祭りの賑わいが耳に戻ってくる。
ムットは自分の手を握って開いたり、匂いを嗅いだりして確かめていた。
「精油の抽出は上手くいったようだが、少し油分が多くてべたつくし、重いな。伸びの悪さといい、まだまだ改善の余地ありだ」
「重い?それってどういう感じですか?」
ムットはシャツの胸ポケットから薄い缶を取り出した。
「俺が作ったクリームだ。手を貸してみろ」
言われて手を出すと、グイっと引っ張られてムットの手と重なった。途端に鼓動が速くなって、耳の辺りから顔が熱くなる。
その手にもう一つのムットの手が遠慮なしに触れて、指先から手の甲、手の平を優しく撫でた。
息が詰まる。一刻も早く手を引っ込めたいような、ずっとこうしていたいような。全身がまるで蒸留装置の蒸し鍋になったかのようで、ジナという存在を主張している。
「どうだ。あんたのと比べて」
手が離れると、ようやく息が吸えた。
「塗った感じが全然ないのに、ちゃんと保湿されてます。触った感触も柔らかいし。そっか、確かに重たくない!」
満足そうに頷くムット。
「今、これをもっとふわっとしたクリームにできないか研究してるんだ」
あたしも作りたい。率直な思いだった。
「あの…、教えていただくわけにはいきませんか」
また怒られるのではと、今度は覚悟して言う。
「ムットさんの言う通り、まだまだ改善しなきゃならないし、あたしだってこれに満足してるわけじゃありません。もっと良いものを作りたいし、やれるところまでとことんやってみたいんです」
しかし、今度もムットが感情を乱すことはなく、静かに言うのだった。
「エナンから聞いたからあんたのことは大体知ってるけど、ほんとに変わってるんだな」
二度まで言われると、さすがのジナもちょっとは恥ずかしい。
「良家の縁談蹴って一人でマニアックにクリーム作りだもんな。お父さんの気苦労が伺い知れる」
くっくと彼は笑う。
「だって、せっかくエナンが教えてくれたし。これきりで終わらせたくなかったし」
「エナンもそう言って、ボウ村での事を親父や
ムットの表情は、口元は満たされているのに目だけがわずかに寂しそうに見えて、ジナは視線を奪われた。
「エナンは変わった。今まで俺や親父を手伝うだけで受け身だったのが、自分の意思でクリームを作るようになって。厄介になってるからってずっと遠慮して、自分の意思なんて言わなかったのに。間違いなくあんたのせいだな」
「エナンを大切に思っているんですね」
それは家族でなければできない顔だと思った。巣箱に行ったとき、父もそうだったから。
「当たり前だ。エナンは両親を亡くして兄弟もいない。家族は俺たちしかいないんだからな」
堂々と答える。サハ兄、これは難敵だよ。
「またトーダへ来るといい。エナンの頼みだ、今度はちゃんと見せてやるから」
口角を上げたムットに、胸が高鳴って再び耳と顔が熱くなる。
「はいっ!」
◇◇◇◇◇
それから1年が経ち、次の宵祭りの頃——。
サハとエナンの祝言が執り行われた。ボウとトーダ、双方が集ってそれは盛大に祝われた。
今ではエナンに加え、ボウの村娘たちが一緒になって納屋でクリームを作っている。手狭になってきたのでそろそろ改築しようかと、父と検討しているところである。
「ジナ!いつまで待たせんだ。置いてくぞ!」
土間で仁王立ちになっているのはムットだ。せっかちなジナとは似た者同士である。
そう言われても、女子は身だしなみに時間がかかるのだ。着物の襟を直して、もう一度鏡の前で前髪を整える。
「ジナ、握り飯持っていきな。ムットさんの分もあるからね」
「いつも恩に着ます」
「ありがとうお母ちゃん!行ってきまーす!」
ジナはボウとトーダを行ったり来たりの日々だった。今日はこれからムットと街へ商談に行くのだ。
「いいか、お前は口が回りすぎるんだから、余計なこと言うんじゃないぞ。俺に任せておけ」
「えー、ムットさんお世辞の一つも言わないんだもん。あれじゃあねぇ」
「今日は見るだけだって言うから連れて来たんだ。黙ってろよ」
「ね、今日は何の香りでしょうか?」
立ち止まるとジナの手を取ってくんくんと嗅ぐ。
「俺の鼻を騙せると思ってるのか。ファタとタムムルだ」
「はっずれー。正解は、ファタとタムムルとクグでしたぁ」
「本当か?もう一度貸してみろ」
納得いかないムットに手を握られて、ジナの胸はざわつく。
「…確かにクグだ。ほんのわずかだが、これがあると無いじゃ全然違うだろうな。なかなか良いセンスだ——って、なにニヤついてんだ」
ジナの手を放って、ムットは大股で歩き出す。待って、と後ろから駆け寄ると、今度はジナの方からその手をつないだ。
クリームの魔法はまだ始まったばかりだった。
クリームがくれた魔法 乃木ちひろ @chihircenciel
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