むせたミルクと唾液

はるまるーん

ミルク、白、血、赤。

夏、外から聞こえる蝉の鳴き声が密室に響き渡る。

クーラーの利いたその部屋の中で女の子は母親と睨みあっている。

女の子は床につかない足をぶらぶらさせ、

壁掛け時計はコチ、コチと二人を急かすように時を刻んでいる。


二人の間を邪魔するものはテーブルだ。

テーブルの上にはコップになみなみとそそがれた真っ白いミルク。

部屋の隅には大量に重なっているゴミ袋。


「はやく飲まないと出かけられないじゃない」

母親が口を開いた。

戦争開始。


「のみたくないもん」女の子はすかさず反論した。


「今日は学期が終わる日でしょ?

もう学校始まっちゃうわ、はやく牛乳飲んで行きなさい」


女の子はそう言ったお母さんに歯を見せ、「いーっ」と威嚇した。

その表情には少しのためらいもない。

 

お母さんの顔が歪み、「この子はっ!」と歯ぎしりすると、刹那、

女の子の頬を力いっぱい平手打ちした。

女の子はそのまま椅子から転げ落ち、フローリングに頭や腕をたたきつけた。

グラグラする視界とすぐに吞み込めない状況。

お母さんに叩かれる、というのはもう慣れていたが。


「あんたはいつもそうよ!どうして!」

お母さんはただただ大声で女の子に怒鳴っている。

女の子が倒れこんだ床の上には、女の子の洗濯物であろうかわいらしい洋服たち。

その中にいびつな存在感を放つ一冊の本が。


『おこれば女の子はもっとかわいくなる!』



一時の沈黙が嘘のように、蝉の鳴き声が部屋に響き渡る。

女の子は母親の方を見上げて、表情を伺う。

期待と不安のような困惑の瞳の外で、

女の子の小さな鼻から、ツーと鼻血が垂れる。


「あ……」

女の子は白く純粋な洋服を着ている。戸惑いもなく鼻血を拭く。

白く汚れのなかった服は、

鉄の匂いがツン、と鼻をつく真っ赤な液体によって汚された。

母親はそんな女の子を見つめながらため息を一つ放った。


「なにやってんのよ」

そうして頭を抱えながら、腕組みを組み直す。

右腕を上に、左腕を下に。

室内はクーラーが効いているからと、母は長袖を着ている。


「いーっだ!こんな服どうでもいいもん!」

女の子は洋服を脱ごうと袖を掴む。汚れてない方の袖をひとつまみで、止められる。

母親が一歩近づき、背中を曲げる。

そうして女の子の花びらの舞った、リースのついた胸ぐらを掴む。

女の子がお母さんに引き寄せられた。

牛乳色のひらひらの女の子らしい、嫌いな色だ。


「どうしてそんなことをするのっ!」

怒鳴り散らす母親と、視線をずらす女の子。

こうなったら面倒くさいな……。

そう思ったことは何回もあった。今日は特に大変そうだった。

最近はなんだか怒りっぽいのが気に食わない。

だから女の子も、同じように怒りっぽくなっていく。挑発である。


「ふんっ」

負けじと、鼻で笑ったような声を出す女の子。

お互いの息遣いは荒くなり、

呼吸以外の音は、休みを知らない蝉と、

家を出る時間を過ぎている針を示す時計のみ。


「本当に、本当にあんたって子は! 何を考えてるのか……わからないわ!」

顔と顔の距離がどんどん近づいていく。

最後にはくっ付いてしまう、女の子は思った。

同時に、この前まで、母がしてくれていた寝る前のキスを思い出した。

あんなに心地良かったのになあ。


女の子は冷静に考えて吐息を吐く。

女の子は母の唾が飛び、顔について気持ちが悪くなっていた。

怒りは人を変えてしまう、女の子がそれを気づくのは、

人生としては早すぎた。


そうして洗濯物の方に視線を変える。

テーブルとカーペットの隙間から、反対側のカラフルな女の子の洋服の方に。

「え?」

女の子は惚けた声を上げ、驚く。

あれは見てよかった?

見ぬふりした方がよかったのかしら?

『禁断の書』を見つけて、女の子は戸惑った。


複雑な気持ちが混ざり合い、袖の血は固まっていった。


「どうしたのよ?」

不審に思った母親が女の子と同じところに視線を移す。

不審な表情が青くなる。

真っ青、真っ白、女の子の洋服のよう。


「しまった」という言葉に辞書が採用するような、完璧な表情になっていた。

女の子の胸ぐらを掴んでいた、両手の力が緩んでいった。

そのことに気づいた女の子は、軽く母親の両手を自分から離した。

逃亡開始。


「あ、ちょっと!」

母親が夢から覚めたころには、遅かった。

女の子は母親の肩を押し、

牛乳の入ったコップを両手で持ち、

母親の方から数歩離れ睨んでいた。


女の子の背後には、玄関に通じる廊下へ行ける扉が。

少し空いている扉は、クーラーの効いていない廊下から、

生暖かい空気が入り、足にまとわりつく。

女の子の額に汗がじわり、とした。


銃を持った犯人が、警官に「打つぞ」と言ってるかのような顔つきの女の子。

これから犯人がどのような動きを見せるのか、観察している警官の母親。


徐々に距離を伸ばしていく。

あと一歩でも近づいたら、牛乳をばらまいてやる。

女の子の瞳はそれを映し出していた。


女の子は考えた。

家から出るのを遅くすればいいんだ、

私がやることはあの鬼婆から逃げることだけ。


ばしゃ、と女の子と混ざりあう白い衣。まとわりつき、そして女の子の身体を檻から解放された実験用ラットのように駆け巡っていく。ざまあみろ、と女の子は牛乳を頭からかぶりながら心底楽しげであった。また、牛乳も同様に。


牛乳が鼻に入ってしまったようだ。

口内を、食道を、器官を浸食し思わず女の子はむせた。

咳き込むが、まだ苦しい。唾液が女の子の頬を伝う。


そして、そのまま、女の子は溺れていく。

母親の姿は見えなかった。

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むせたミルクと唾液 はるまるーん @harumaroon

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