槍降る日

有給休暇

槍降る日

明日は槍が降るそうだ。天気予報士が真面目腐った顔をしてそんなことを言ってきたものだから、世の中は大きく騒いでいる。狂気を感じるほどの騒然さである。そのなかに一種の祭りじみたものを感じたので、自分は思わず笑みが顔に現れた。

結局、槍が降るという予報は訂正されることなくその番組は終わり、ほかの番組の天気予報を見たら、その天気予報も槍が降ると書いてある。

普段とは違うはずなのに、番組は何一つ詳しい説明はしなかった。雨が降るかのようになにも動じずにテレビの中の女はそう言う。

屋外での中継らしく、その天気予報士の後ろでは何かを聞き出そうと男や女が入り混じり、懸命に何かを叫んでいる、それは微かに聞き取れる程度だが、他の入り混じった男女の喧騒に骨組みは壊され、内容は理解ができない。

その入り混じり、狂気を集団に秘めた男女を必死に抑えるのはスタッフ達か、そのスタッフを押し倒さんとばかりに集団の蠢きは強さを増していく。それに負けじとスタッフの壁も強度を増していく。男女の集団の一人に見知った顔がある、鼠色のスーツに、折れ線がついた赤いネクタイ、ところどころ銀色の不揃いの髭に包まれるはタバコの煙を多く含んだ乾燥した唇。

頂頭部には情けない髪がしなびており、元気なのは周りを取り囲む短い髪の毛だけ。初めて会ったとき、失礼だとは思ったがまず最初に頭に目を向けた。その人は何かの先生をしていたはずだ。幸運ながら、その先生は気づくことはなかったが、先生と名乗るにはえらく不潔だと考えていたのが強く覚えている。その男と出会ったのは、電車でのこと。夜の11時が過ぎて、乗る人の数もめっきりと少なくなり、見渡せば眠っている酔っ払いか、何をしてきたのかわからぬ大学生の若者数人だけ。その中に息をひそめるように、電車の窓を線として走る光を追っていると、雨が打ち付け冷えた窓に一人の男がこちらに歩いてくるのが映った。

その男はまっすぐにこちらへと歩いてくる、彼の目線が詳細にわかるころには、すでに近くにいた。意識がはっきりしているところから見ると、酔っ払いではなさそうで特有の匂いもしない。嫌な匂いだけは肌が感じ取った。

彼の目線は窓に映る俺へと注がれている、幸いにまだ目線は交わらない、視線をずらせばいいのだが、外すその瞬間がなぜか怖くなってくる。男は近づいてくる、迷いのない足取りは距離を縮めていく、ぼやけた街灯の明りは等間隔で過ぎていき、突如電車はトンネルの中に入っていく。窓の奥は一瞬にして黒くなり、車内の明りで中が見えるまでの一寸、彼は横にいた。

彼は俺の隣に座ると、背もたれに体を預ける、鼠色のスーツに細かいシワができている、長い間着ていなかったのか。自分はいまだにトンネルの暗闇へと目を向けていると、隣の男はため息を一つ洩らした。自分も姿勢を直し、窓ガラスに頭を凭れさせて男のほうへと首を少し回す。つり革は僅かに動いて、端に座る酔っ払いは死んだように眠っている。

「飲み会からの帰りですか?」

隣の男は、こちらに顔を向けて言ってきた。その話し声からはタバコの残り香が香ってきて、着ているスーツと同様に草臥れた男に見える。目には隈を溜めていて、頑固そうな髭が彼の口を大きく覆う。

「いや、ただそこらをぶらついていただけです」

「こんな時間までですか」

わざと驚いた様子の表情を張り付けた後に笑う、その笑顔には不気味さが感じられてやはり最初に感じた嫌悪感は正しさを増してくる。なによりも距離が近い、夜の閉塞感を飲みこんでしまったかのように、何もかもを無視した接し方に自分は圧倒されていたようだった。

「そちらは飲み会ですか」

なにも言わずにいると、勝手に彼はこちらを気にせずに話をし始めそうだった彼はまたため息を吐いた。

「仕事帰りですよ」

先ほどどはひどく違って、えらく疲れた声を出すものだ。疲れからか、こんなにもなにもかもを無視した接し方になっているのだろうか。

列車はトンネルをいつの間にか通過し終わっていて、住宅街の中を走っている。明りのついた家が目立つが、もう眠りについた家もぽつぽつと窓の奥を通り去っていく。次の到着駅のアナウンスが入ると、先ほどの若い一つの集まりがドアのほうへと移動していく。大学生のほうは、こちらが見ていることに気づかずに小声で話している。

隣の男は先生をしていると言った、そのほかにも今日の帰りはいつもよりも一段と遅いということや、生徒への文句などを聞かずとも話してくれた。

「これでもし、奥さんとかが自分にいたらひどく怒られますね」

「独身なんですか」

基本は聞き流すようにしていたが、時々同意や答えを求めるように話してくるのが性質が悪い。全部聞き流すようにしていると、その求めている答えを出すことができないということもある。途中からは、耳にとどめる程度に聞いてはいるが話が長い。

「独身なんですよ、いい人がいなくてね。なので、毎日が寂しくて寂しくて、でも結婚したらこの寂しさが恋しくなったりするんですかね。あなたは奥さんと恋人とかいるんですか」

そうやってプライベートなことまで聞いてくる、この何駅かの出会いだと割り切って答えてはいた。

「いませんよ」

「そうですか、あなたもいないんですか。そうすると毎日が退屈じゃないですか」

「退屈と感じたことはありますけど、なにもそれが理由と感じたことはないですよ」

「自分は毎日が退屈で、てっきり彼女とか好きな人ができればその退屈さがなくなるのかなと思っていたんですけどね」

住宅街が過ぎて、一本の道路に沿うように列車は走っていく。家を数件隔てた奥には、大きな車道が車のランプをこちらに見せつけている。小さな道路を走っていた車を、ゆっくりと追い越すのを彼はじっと見つめている。

「この退屈っていったい何なんですかね。自分は車の免許を持って入るんですけど、運転しても退屈はいつまでたっても出ていってくれないし、どこかに遊びに出かけたところで同じ。こうやって電車に乗っていても退屈なんですよね。退屈で虚無感もあるんですから、体に毒な気しかしなくて困ります」

例えばと言って、彼はゆっくり追い抜かれている車を指さす。車は必死に列車に抜かれまいと、懸命に走っている。

「例えば、あの車が爆発でもしたら退屈は消えると思いますか」

突然、物騒なことを言うなと驚いたが、彼も物騒なことを言っていることは自覚はしていたのか、先ほどの何もかを無視した話し方ではなくて、周りに配慮したように小声にはなっていた。

「消えるとしても一瞬だと思いますよ」

車へと指さしていた手を、脇へとゆっくりと下ろし、先ほどの小声のままそうですよねと言うと同時に、車は列車に抜かれて徐々に見えなくなっていく。

「刺激ってやっぱりすぐに消えてしまうんですよね、存在していても感じられないようになってしまうんですよね」

彼はまた初めのようにため息を吐くと、しばらくは何も言わずにただ座ったままじっとしていた。これがこの人なのかと確証もなく思うと同時に、嫌悪感も湧いたが先ほどのような純粋なものではなくなり、ひそかに同類の好感もあった。

「いつまでも消えない刺激はどこにあるんだろう」

自問するように男は言うと、また太く長い息を吐いた、その息の吐き方は答えを出しているかのようであった。

それから二駅ほどしてその男は降りていった、降りていく際に退屈が消えるといいですねとタバコの匂いをさせながら消えていくのをぼんやりと眺めていた。

消えるわけないだろうに、扉はゆっくりと閉まり窓の奥の景色は、駅のホームから夜空へと変わっていった。

もういちど画面の中の先生を見てみると、口元には笑みが浮かべていて、楽しいという感情を隠そうとすることなく現れている。退屈が永遠に消える刺激ではないにしても、今日一日中は退屈を感じずに済むだろう。

屋外中継をしている場所はここからさほど遠くもない場所で、電車を使えば数十分でつける場所だった。今日は特にすることもなく、退屈を持て余していたので混乱立ち込めるあの場所へと行こうと、財布と携帯をポケットに忍ばせた。

あの場所につくころには中継も終わって混乱も収まっているのかもしれない、だけれどもあの草臥れた先生はあそこにいるだろうと証拠もない自信を持って駅へと歩を進めた。

高校生の集団が、天気予報見た?と騒いでいる横を通り過ぎていって、定期券を財布から取り出す。改札口の向こうには、人が思い思いに歩き乱れ、人々の囁きは固まりあって重い固体となって耳元を直撃していく。

後ろに押されるように改札口を通り過ぎれば、電車は槍が降ると言われているのに、動じずに運行しているようで列車のアナウンスが小さく聞こえてくる。雑踏の音が騒がしい階段を下りれば、電車が来ると同時に人の服装は風ではためいていた。

電車に乗り込み、あたりを見渡すと携帯に目を伏せている人や、眠っている人と様々な人がいるなか、窓から外を眺めている人の数が多い。外に向くその目線は上へと上がっていき、まぶしい白雲と青空に目を染めている。

揺れる車内、向かいの窓に流れる景色を見つめていると、あの人と出会った時のことを思い出す。テレビに映った彼は、すこし口角を上げていて、気持ちが悪かった。

地面に生える家や木は颯爽と目の前の窓を過ぎていく中、上にある空からは胡散臭い天気予報が言うような槍が降る気配はない。今の空模様を見て、明日の天気を簡単に見分けがつくとは思ってもいないが、それでも槍が降るというには少しばかり変化があってもいいとは思う。

「なにをこんなことに真剣になっているんだろうか」

くだらないことを考えていた自分に思わず笑って呟いて、吊り広告に行ったり空を眺める乗客へと行ったりと目線を動かしていた。自分と同じく、空を眺める女学生だろうかを眺める男を見つけた。その男は、あの時の男と同じとは言わないが、楽しそうな笑みを浮かべて彼女たちを見つめていた。黒っぽい服に身を包んで、真後ろの窓を見る女学生の向かいに座っている。眺められている女学生は気づかずに同級生と抑えた声で話している。

その様子をいまだに笑みを浮かべて見つめているその男は、自分の視線に気づく様子はなく、空いた左手を右手で揉んでいる。長い間、揉んでいるようで所々赤く見えるところが見受けられる。ふとその桃色に色づいた手が動くのを止めて、顔を上げれば男がこちらに目線を向けている。

顔には先ほどの笑みはなく、無表情ということもなく、わずかながらの不機嫌さをにじませている。目があえば皺を寄せた眉間を解して、視線を横にずらすが清潔さを感じられない笑みはもう浮かんでいない。

不機嫌な目を向けられたことで、不快感が現れたがそれを顔に表したところで何も変わるはずもなかった。

目的の停車駅につくアナウンスを聞いて、座席から立ち上がりドアの前へと歩き出す。先ほどの男はこちらを一瞥しただけだった。停車寸前の振動を手すりにつかまって凌ぎ、電車を出る間際に先ほどの女学生へと目を向ければ、彼女は槍のことなど知らないかのように笑顔を見せていた。

電車がカーブの先に消えるのを見送り、出口へと歩を進める。前を歩く人々を淡々と追い抜いていく自分の足取りに、ふざけた様な出来事に自分も興奮をしているのだと、言わずとも感じられた。浮足立った気持ちは目的の場所へと早く着かせた。

急ぐようにあの場所へと歩けば、耳に入るは喧騒の音。異常な事態にある喧騒は、鳴りやまぬサイレンのように不安を駆り立てる。もはや衝動と呼べるような歩行は、速さを増していく。

終いには無心で歩いていたのか、いつのまにか後ろを振り向いても駅の形は見えなくなっていた。近くの焼肉屋からは煙の臭いがしてきて、建物の間に暗くたたずむ隙間には、一瞬例の男が笑っている姿が見えて、心臓がドキリとなった。

恐怖に突き動かされるように自分はあの男がいるであろう、場所へと走った。

久しぶりに走った体は、筋肉をひくつかせ。心地よさを通り抜けた疲労感で満杯になった。あの広場へと着いた自分は、まず初めにあたりを見渡した。

狂気を含んだ集団がいた場所は、あの時の様子を微塵も残していない。誰も座っていないベンチ、芝生の上を犬と散歩する女。例のお男の姿は見えないが、自分の直感を疑ってはいなかった。もう一度探すように、広場を歩き回れば、例の男は花壇の横で空を見上げていた。

その男は自分の姿に気づいたようで、きょとんとした表情を浮かべたのちに笑った。

「ひさしぶりですね、どうしたんですか。そんなに汗をかいて」

男にその言葉を言われると、馬鹿にされた恥ずかしさが浮かんでくる。男の様子は、あとテレビに映っていた時と何も変わらない服装だった。

「今日は暑いですからね、それにしても明日は槍が降るそうで。楽しみなんじゃないですか?」

「そうですね、楽しみです。明日というのが尚いいですね」

彼は空を見上げて、太陽に眩しそうな表情を向けている。その顔には、あの時のような楽しみといった表情は少なく、不安が入り混じったような雰囲気がにじみ出ていた。

ふと見えてしまったその雰囲気に、炎に冷水をかけられたような気持ちがした自分は彼に思わず声をかけた。

「なんで、そんなにも不安そうな表情なんですか?」

彼は当たり前といったような顔つきで空を眺める。

「あなただって怖いというものはお好きでしょう?」

彼の眼に自分のすべてを見透かされているような気がした。その彼の眼は確実に明日への恐怖を抱いており、彼の眼に映っている自分もそのような表情をしているのだろうと安易に予想はつく。

「明日、あなたは外に出ますか?」

彼の目に映った自分に問いかける意味も含めた質問に彼は言葉を返すことなく、首を振ってこたえた。

次の日、槍は降りはしなかったがその影響か昨日は自殺者が多いようだった。あの男も死んだらしい。天気予報は明日こそは槍が降ると予報していた。

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