愚かなりしわが心(my foolish heart)

フカイ

掌編(読み切り)




 数えで十四の年に、母は父と離縁をした。


 姉、兄、わたしのきょうだいのなかで、父は兄をとり、姉とわたしが母の元にとどまることとなった。

 多感な時期であったわたしにとっては、たいへんな出来事であったけれど、年の離れた姉はそんな混乱した家庭環境に見切りをつけ、高校を卒業すると就職し、自活をした。


 母はわたしを育てながら仕事をするのだけれど、やがて知り合った男性と所帯を持つことを望むようになり、わたしはどうすることもなく、その怒涛のような流れにのみこまれていった。

 器量の良い娘であり、また自立心の強い姉は母にとっても自慢の子であり、これを特に可愛がった。また、実父の元へ行ってしまった兄は、手許から失ったせいか、母は常に良い思い出だけを繰り言のように並べ立てた。

 比べてわたしはいつも世話が焼け、また義父となるひととも打ち解けようとしない意地っ張りな末娘だった。

 血を分けた肉親であるものの、父を悪しげに言い、また執拗に義父に馴染ませようとした母は、わたしにとってもずいぶんな人だったが。

 わたしと母が疎遠になったのは、したがって、きわめて必然であったのだと思う。

 わたしに言わせればだらしがなく、礼節を欠いた人物である母であるが、母に言わせればわたしは、別れた父に似て四角四面で融通のきかない可愛げのない子、ということになる。


 そんな家庭環境に育ったせいか、わたしは家庭、というものに腹から望みを抱くことができない人間となった。ひとりでいることを好み、例えば誰かを愛したりすることなどは、夢想することすらなかった。

 別に強く誰も愛さないと決めたわけでもなく、また恋愛や結婚を否定するつもりだったわけではない。ただ実際、長くひとりの男性と交際することがなかった。何人かの奇特な男性がわたしに言い寄ってきたこともあったが、彼らの呼ぶというものが、性交とほぼ同義であることに気づいてからは、特にそういうものに熱を上げることもなかった。

 時折訪れる自分自身の性欲に対しては、ワンナイト・アフェアでこれに対処をした。


 話が前後するが、高校を卒業したわたしは、地元の企業に就職し、母の元を自立した。

 一人暮らしを始めると、そのあまりの心地の良さに、驚きを禁じ得なかった。門限を厳しく制限され、しかし家にいても家族と呼べるひとたちとは心底打ち解けられなかったわたしは、ひとりきりで暮らすということの快適さ、過ごしやすさに世界がひっくり返るほどの感激を味わった。高校の級友たちが、実家を離れホームシックにかかったなどということを聞くにつけ、世間と自分の断絶にしくしくと胸が痛んだけれど。


 何年かのつまらない事務仕事で若干の貯金を得たわたしは、専門学校に通い、調理師の資格を取得した。もともと料理をすることが好きだったし、手に職をつけておくことで、この先ひとりきりで生きてゆく上での生活の保障を得たい、という気持ちもあった。

 専門学校を2年で卒業すると、県庁所在地のある大きな都市に出、飲食店経営の会社に籍をおいた。配属先は、スマートな商社の社員食堂だった。割ぽう着を着て、その食堂で調理師として働きながら、時折その会社の男性に誘われたりもした。しかしそのようなアプローチは、この会社で仕事を全うすることを至上命題としているわたしにとっては排除すべき対象だった。だからわたしはなるべく目立たず、人目につかなく振舞うよう気づかうようになった。


 ひとりの部屋に戻ると、わたしは趣味の人であった。

 料理に関しては仕事で行っているせいで、自宅でまで凝ったものを作ろうとは思わなかった。洋服や化粧、あるいは部屋の装飾にこだわるような女性的な趣味にはあまり深く興味が持てなかった。

 が、二十代の終わりごろに出会ったインターネットには、かなりのエネルギーを投入した。掲示板やチャットなど、多くの人々はインターネットをコミュニケーションの道具として認識し、それに没頭するようだが、わたしにとってのインターネットとは、居ながらにして無料で得られることのできる無限の百科事典のようなものであった。

 航空力学からスワヒリ語まで、興味の赴くままにあらゆるネットをめぐり、知識を得た。Wikipediaのページを無作為に開き、そこからリンクをたどってあらゆる世界を知る。そんなことをしながら夜を過ごしたことは、限りなくあった。それは何かに役立てようと、努力してなされる勉強などではなく、純粋な知的好奇心を満足させる行為だった。


 母や家庭といったものからは断絶し、一般的な意味での人間関係を構築することは、わたしにとっては興味の埒外にあるものだった。

 そしてインターネットの海を泳いでは、どこへ吐き出されることもない知識を吸収し続けた。

 日が昇ればいつもの社員食堂へ調理に出かけ、そして帰宅途中にあるレストランで時折散財をする。

 恋人を持つこともなく、時折寝台を伴にする名も知らない男性たちからは、求愛とも嘆きともつかない言葉をささやかる。

 ピルを服用することで、予定外の妊娠をするリスクからも距離をおいていられる。わたしのような人物がもうひとり、この地上に生まれることは避けるべきだ、とわたしは本能的に考えているからだ。


 時折。

 仕事帰りに部屋に行かず、鉄道の駅に併設された長距離バスのターミナルを訪れることがある。

 巨大なバスが何台も整列して停車している。まるで死んだ鯨のように。等間隔に設置されたハロゲンライトのオレンジ色の光が、夜の鯨たちのからだを静かに照らしている。本日の業務を終え、バスもバスターミナルも、言葉もなく休息している。

 合成樹脂の色あせた黄色いベンチに腰掛け、わたしは知らぬ間におぼえた煙草をむ。夜のなめらかな風に紫煙が溶け、ジュラルミン色の大型バスの向こうの闇へ消えてゆく。風はおだやかに、静まり返ったバスターミナルを渡ってゆく。


 ひとはわたしを変わり者と呼ぶ。

 しかしわたしは自分をすこしもそのような人物と捉えることはない。

 わたしはわたし。

 このまま、誰の迷惑にもならず、好きなように生き、好きなように死んでいければ良い。

 そう思っている。心の底から。

 愚かなりしわが心、とわたしはそんな自分に苦笑する。


 人気ないバスターミナルは、こんなわたしを優しく癒してくれる、夜のゆりかごのようだ。





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