「また会いに来たよ」

久藤さえ

「また会いに来たよ」

 彼がやってくるのは、いつも日曜日の午後だ。

 年齢は三十代くらいだろうか。背は私より低い。ちょっと寝癖がついた髪に、眠たそうな目をしている。

 彼は私の前に立ち、ぽそりと小さな声でこう言う。

「また会いに来たよ」


 この店は、繁華街から少し裏道に入った分かりにくい場所にある。

 看板も広告も出していないので、やってくるお客さんは、知り合いから話を聞いたという人ばかりだ。店には窓がなく、照明はいつも薄暗く落とされている。

 ここでは、同時に数人のお客さんが滞在しているときも、お互いに話しかけたり、じろじろ見たりしないのが、文字通り暗黙のルールだ。

 その代わり、お客さんは私たちをいくら眺めても構わない。頭のてっぺんから爪先まで、身体のラインを穴が空くほどじっくりと見る人もいれば、歩きながらさらっと撫でるようにして見ていく人もいる。

 他の綺麗な女の子達と違って、私はやせっぽちで髪も黒っぽくて、ほとんどのお客さんは私の前を素通りしていった。

 そうやって私たちを見比べて、気に入った子がいれば、お客さんがオーナーに幾ばくかのお金を払い、一緒に店を出る。そういうシステムだった。


 初めて彼がこの店に来たのは、八月のことだったと思う。

 重たいドアがゆっくりと開いた隙間から、まずアスファルトの熱気と蝉の鳴き声がうわっと店内に入ってきた。

 それに乗り遅れて、おずおずと足を踏み入れたのが彼だった。

 一目見て初めての来店と分かるうろたえ具合の彼に、オーナーがにこやかに歩み寄り、店のルールを説明している。

 説明が終わり、彼が店の奥へ歩みを進めると、女の子達の間には素早い目配せと品定めが飛び交った。

(あら、うちのお客にしてはちょっと若いひとね)

(でも全然お金なさそう、私はパス)

(なんだかオドオドしてて頼りない感じだわ)

 お客さんだけではなく、私たちも仕事中に言葉を発することはできないルールなのだ。

 彼は端から順番に一人ずつ女の子の前で立ち止まったが、その時間はほぼ一定で、長くとどまることはない。

 そしてとうとう、折り返し少し手前にいる私のところに彼がやって来た。

 私も初めて、彼を正面から見る。

 白いTシャツが、薄暗い店内でぼんやりと光っているみたいだ。そしてそのTシャツの肩がわずかに上下しているのは、灼けつく暑さの中をここまで歩いてきたからなのか、初めての場所に緊張しているからなのか。体格はお世辞にも良いとは言えないけれど、手が大きくて筋ばっているところは意外だ。その左手の薬指に指輪は――ない。

 そうやって彼を観察していたら、彼の方が私を見ていることを忘れそうになっていた。ハッと我に返ると、その視線の強さに身動きがとれなくなった。真夏の照りつける陽射しが影を一層濃くするように、彼の視線で私の身体が彫りだされているような、ひりひりする感覚。そして私は、自分がほとんど裸のような格好で彼の前に立っていることが急に恥ずかしく思えてきた。視線に晒されるのはもう慣れっこのはずなのに。

 居たたまれない気持ちになって、早く次へ行って、と願った。けれど、いつまでたっても彼は私の前から動かなかった。

 そうしているうちにどれくらいの時間がたったのか、時計も窓もないこの店内では分からない。彼は私を見つめ続け、私が消えてなくなりたいという衝動に必死で耐えていると、オーナーがやってきて彼に何か言葉をかけ、そのまま二人でドアへ向かっていった。

 彼の姿がドアの向こうに消えて、助かった……と全身の力が抜けた。

 ぐったりする私の姿に、女の子達は笑いさざめいた。

(なあに、あんたずいぶん気に入られたみたいじゃないの)

(そんなガリガリの身体が好きだなんて、変なシュミのひとね)

(まあ、あの様子じゃ、あんたを連れていけるような金を出せる望みは薄いわね)

 悔しさで顔が熱くなった。そんなこと、私だって解ってる。

 こんなきらびやかな女たちが揃う場所で私を選んでくれる人なんて、きっと現れることはない。私はずっとこの場所で、お客さんの視線に晒されて、ゆっくりと心がすり減っていくだけだ。


 しかし、その次の日曜日、彼は再び店を訪れた。今度は他の女の子の前に立ち止まることなく私の前へやって来て、小さく呟いた。

「また会いに来たよ」

 そして、立ったまま私を長いこと見つめ続けていた。

 私は先週のように、恥ずかしさで消えてしまいたいとは思わなくなっていた。月曜日から土曜日までずっと、毎日彼のことを思い返していたから。彼の眠たげな表情と、そこからは想像もつかないくらいに強いまなざし。他の人達の舐め回し値踏みするようなそれとは違って、あらゆる角度から私をとらえようとするような鋭さを持っていたこと。思い返しては、きっと彼はもうここへは来ない、と自分に言い聞かせていた。

 彼の鋭い視線を受け止めるのは、少し怖い。けれど私は、二度と会うことがないと思っていた彼を前にして、一週間ぐるぐると考え続けていたことが頭の中からあふれてくるような感覚に襲われた。

 どうしてまた来てくれたんですか。

 私のどこを気に入ってくれたんですか。

 お仕事は何をしてるんですか。

 好きな食べ物は。

 好きな色は。

 付き合っている人は、いるんですか。

 いないなら、どんな女の子が好きですか。

 もちろん答えは返ってこない。

 私たちの間には、無言の時間が流れるだけだった。それでも、この昼夜も季節も関係ない場所にいて乾いてしまった私には、静かに水が満ちてくるようなひとときに思えた。


 そうして、毎週日曜日に彼は私に会いに来てくれるようになった。もうそろそろ半年になる。

 店の女の子達は、彼を冷やかしたり意地の悪いことを言ったりして笑っているが、そんなことは気にならなくなっていた。

 彼が私を見つめ、私は心の中で彼に話しかける。彼が最初に私の前に立った日は早く終われと願っていたのに、今はとても短く感じられる。その静かな時間を共有して、彼は私の知らない彼の一週間に戻ってゆく。

 月曜日から土曜日、私はお客さんの前に立ちながら、前の日曜の彼を思い返し、次の日曜のことを考える。そうしていると、ちょうど会いたくてしょうがなくなる頃に、日曜日がやってくる。一週間は、うまくできているものだと思った。

 私は、週に一度彼が会いに来てくれるだけで十分だ。先のことが待ち遠しいなんて思ったのは、今まで一度だってなかったから。

 でもやっぱりほんの少しは、彼が私を連れていってくれるとしたら、なんてことを想像している。

 まず、彼と街を歩くならこんな格好じゃなくて、きれいなワンピースが着たい。外はもうすぐ春になる頃だ。私に似合う色のワンピースを、彼が選んでくれたらいいなと思う。

 そして、あともうひとつは――


 その時、オーナーがやって来て彼に声をかけた。

「やあ高野先生、いらっしゃい」

 彼は振り返り、困ったように言った。

「田渕さん、だから“先生”はやめてくださいよ」

「だって本当に先生でしょう」

「美術予備校の、しかも講師ですから、ただのフリーターです」

「うーん、でも先生って呼びたくなる雰囲気をしてらっしゃるんですよ」

「雰囲気、ですか」

 ポリポリと頭をかく彼に、オーナーはニヤニヤしながら続けた。

「しかし先生は本当に一途ですな。他のきれいどころには目もくれず、いつもこの子だけを見ていらっしゃる」

「……すみません、金にならない客で」

「いやいや、そういう皮肉ではなくて。私も初めてこの子を見たときに、不思議な魅力があると思いましたから。でも、お客さんで気に入ってくださる方はあまりいらっしゃらなくてね」

「そうですね、見ている人間に揺さぶりをかけるというか、少しそういうところがあるんじゃないでしょうか」

 彼は続けた。

「絵に描かれている女性というのは、自らの美しさへの自信であったり、画家との信頼関係に支えられた親しげな表情であったり、そういったものを感じさせることが多いと思います」

 そして私の方へ向き直る。

「けれど彼女は、どこか不安定で寂しげです。少し顔を伏せているポーズだからそう見えるのかもしれませんが、怒っているようでもあり、恥じらっているようでもあり、見るたびに違う表情をしているような気がするんです。とてもミステリアスで、惹き付けられる。だからつい毎週、会いに来てしまいます」

「お買い上げいただければ、お手元で毎日見られますよ」

 オーナーはいたずらっぽく言った。

 彼はとてもとても、と苦笑いして首を振った。

「私のような貧乏人には手が届きませんよ。恥ずかしながら、まだ奨学金も返さないといけませんし」

「それは大変だ。でも先生は、ご自分でも制作を続けてらっしゃるんでしょう?」

「ええ、本当に遅いペースですが、仕事の合間に何とかやってはいます」

「では、先生が売れっ子画家になったあかつきには、ぜひこの絵を買ってください。私はこの子の魅力を理解してくれる人にお売りしたいんです」

「ハハ、そうなったら素晴らしいですね」

 彼は私に微笑みかけた。


「《少女像》のための習作 No.3」


 それが私の名前。

 もしも彼が私を連れていってくれるなら、私に素敵な名前をつけてほしい。やさしい響きの音を選んで。

 彼が私を、彼だけのための名前で呼び、

「一緒に帰ろう」

と言ってくれるときが訪れるのを、私はいつまでだって待つことができるから。

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「また会いに来たよ」 久藤さえ @sae_kudo

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